終章 健やかなる時も病める時も

健やかなる時も病める時も(1)

 屋根に腰掛け、アルネがヴィオラの弦を弓で優雅に引いている。

 伸びやかな旋律を聞きつけてか、最初にテントを出てきたのはメロディアだった。


「その音……」


 重いまぶたを懸命に開きながら、あまり外をうるさくしないよう、屋根目掛けてあごを突き上げ呼びかける。


「船の上でも聞きました」

「そりゃ、僕が弾いていたからね」


 アルネは旋律を止めた。楽器もゴトンと板へ置いてしまう。


「こうした方が風通しがうんと良くなるのさ」


 風通しとは、魔法の話だろう。

 ここまで船を誘った、アルネの魔法とヴィオラの旋律――。


 メロディアは近くにはしごを見つけ、自身も屋根へのぼっていく。

 島に着いても、彼女はいまだスカートを履こうとしない。初めは違和感があったズボンも、動きやすさと優れた通気性で、次第に重宝するようになっていたのだろう。




「そういえば、わたし、あなたとお会いしたのはこれが初めてです」


 両膝を抱えてアルネの隣へ腰を下ろす。


「集会では一度もお見かけしたことがありませんでしたから」

「そりゃ、行ってないからね。実のところ、アクセル公子だって一度や二度顔を見たかどうかくらいのものさ」


 隣りに座って顔色をうかがえば、アルネはすっかり普段の調子を取り戻している用に見えた。酒気も抜けているようだ。


「起きてきたのはあなたが最初ですか? お兄様が見当たらないのですが……」

「上流へ向かっていったよ。大方、お目当てはグレンダの水浴びさ。はあまったく、公爵の息子がきは揃いも揃って破廉恥で品がないね」

「あなたもご立派なヘリッグのご子息ですよ。スヴェン様がおっしゃってたわ、昨夜わたしたちの水浴びをのぞきに行こうと真っ先に提案なさったのは――」

「きみの兄貴はどうして、僕にああも突っかかってくるのかねえ」


 自分にとって都合が悪い話には一切聞く耳を持たない男である。メロディアは眠気まなこでアルネを睨む。


「公爵ならいざ知らず、彼に嫌われるようなことをした覚えはないぞ。グレンダを連れ出した以外で」

「ご自覚あるではありませんか。間違いなくそれですよ。……わたしは、かねてよりお兄様にあなたのお噂は伺っておりましたけれど」

「へっ、どうせろくな噂じゃないんだろ? 早いとこ忘れてくれよ」

「なんでも、お兄様曰く騎士として誰よりも、お兄様よりも優れていらしたグレンダさんを、あなたの一存で領土より連れ出し罪人に仕立て上げたとか」

「……本っっっ当に嫌な噂だなあ」

「事実となにか相違があるのですか?」

「はいそうですね事実ですねどうもすみません」

「それほどまでに、グレンダさんを愛しておられたのですか?」


 アルネはまんまるな碧眼を見返す。

 返事を渋った挙句、


「いくら不敬不遜をウリにしたヘリッグの末端でも、不躾にも程がある問いかけだよ。まだ僕の態度には、周りから見て不足があったかい」


 平然とそう言ってのけた。

 メロディアは唇を引き結び、目を伏せる。満足できる答えではないと、その表情が雄弁に語っていた。


「あのお方が本当に、この島のあるじ様――『翡翠の王国』のお姫様だとしたら、昨日見た神とともに王国は蘇り……」


 苦しそうに濁った言葉を上げるメロディア。


「代わって、ノウド公国に小さくない災いが降りかかる。それがおとぎ話でなくても、あなたは本意から、グレンダさんをお愛しになられると?」

「そうだね。で、なにが言いたいんだい、きみは結局」

「それほどまでに、お父様が、お国が、お嫌いなんですか」

「……それは」

「お兄様は、もとよりお父様や……なんでしたら、公国や騎士団の現状もあまり好ましく思っておりません」


 薄い唇が紡ぎ出す、静かな叫びにはアルネもやがて耳を傾け始めた。

 年端もいかない公女が、この先訪れるであろう展開の、なにを憂いているのか、薄々勘付いたからだ。

 義理の兄の幸せを願うメロディアにとって、苦痛を感じるのは彼のままならない恋路だけではない。


「重ねて、長年慕っていた女性の境遇やこのような情勢を知れば、お兄様はきっと、また近いうちに戦場いくさばへ……」


 ぎゅっと、両胸を手で押さえ付ける。


「そうなれば、誰がお兄様を守ってくださるのですか。わたしに守れるのは、お兄様が気兼ねなく帰ってこられる家のみにございます。グレンダさんのようには剣を振れませんし、セイディちゃんやヨニーくんのように、自ら戦場いくさばへ身を投げ出すような勇気だって……」

「後者のそれは勇気じゃない」


 アルネはすくと立ち上がった。

 木々の合間より薄暗く光る空を仰ぎながら、彼が今、脳裏に浮かべめている情景はなんであろうか。



 無人となってしまったであろうボムゥル屋敷か。

 亡国の道中で見掛けた、不毛となり果てた帝国の街並みか。

 これから火の手が上がるかもしれない――戦場いくさばとなるかもしれない、ノウドやエスニアか。



「彼らも望まないうちに強いられている、僕ら大人たちがさせてしまった蛮行だ。僕も武器は扱えないし家事全般苦手だし、ボムゥルじゃあ書類のひとつもどこかへやってしまう、てんで駄目な奴だけれど」

「しっかり駄目なご主人様ですわね。グレンダさんには本当に騎士としての忠誠を誓われていらっしゃいまして?」

「きみたちがここに来てくれたおかげで、争いを止めるための新しい道がまたひとつ繋がった。――その道を繋ぎ止めておくくらいのことはなら、僕にだってできる」


 銀髪がサァと夏の風でたなびく。


「お互い、できることから始めようメロディア。僕はこの島を守り、島にいる彼女らの居場所を守っていく。きみは屋敷で、兄貴が帰ってこられる場所を守ってやるんだ」


 そう告げて微笑む青年は、メロディアが慕う兄と瓜二つの、とても優しくあたたかい雰囲気を見せていた。

 これほど風来坊な立ち振る舞いで、不甲斐ない姿も周囲に散々晒しておきながら、それでもなおグレンダや、数少ない従者の誰にも愛想を尽かされずにいるアルネは、公子としてのカリスマだけは半島を遠く離れた地にて発揮し続けているらしい。


「……随分と自信がお有りなんですね」


 ぷく、と頬を膨らませるメロディア。


「もしも孤島にエスニアだったり、賊国からの侵略者が押し寄せてきても守り抜けますか」

「上手くやるさ。きみらの船みたいに進路妨害したり化け物とかち合わせたり。万一上陸されたってグレンダもセイディもいるわけだし」

「最後は他人任せですか……締まらないですわ……」

「僕だって、守りたいもののひとつやふたつくらい。アクセル公子なら、あるいはもっと色々守れるかもしれないし、より多くのものを守ろうとするんじゃないかい」

「……ええ」


 メロディアも立ち上がる。

 夏風でなびいたのは、金髪のポニーテール。


「アクセルお兄様は、そういう御人です」




 空に、青色が広がっていく。

 アルネもメロディアも、経緯は違えども、戦う理由、守りたい景色は同じだ。


 メロディアは思い出したように、ズボンのポケットをわずかに膨らませていた物体を抜き出す。

 冒険のお守りにと、長らく彼女の手元で鳴りを潜めていたペンギンのブローチをじっと眺め――。


(わたしも、守りたいもの、ちょっぴり増やしてこようかしら)

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