一章 公女メロディアの嫁入りと騎士アクセルの苦難

アクセルの帰郷(1)

 メロディアとアクセルは義母兄妹である。


 二人は幼少期のほとんどをクロンブラッド郊外にある第三邸宅で過ごしてきた。

 先代よりへリッグ家に仕えてきたミュリエルも、本宅から移り、住み込みで二人の世話を見てきた。


 アクセルの母親は、この頃にはもういなかった。

 今もどこかで生きているのか、あるいはどこかで死んでいるのか、知る術はアクセルにも誰にもない。

 そもそもアクセルの母親は、公爵とは公的な手続きを踏まずに関係を持っていた女性であったらしい。アクセルを身籠もれば本宅で過ごすことになるが、それもほんの一時であったという。

 ある夜ふらりと本宅を抜け出し、そのまま二度と帰ってこなかった。以降の消息を知る者も、娼婦であったこと以外に彼女の身元を詳しく把握している者も、曲がりなりにも愛人であったはずの公爵を含め誰一人としていなかったのだ。


 ゆえに、アクセルは己が母親のことを何も知らない。

 興味さえ持てなかった──なにせ彼にとって『母親』とは、ミュリエルか、彼を快く第三邸宅へ迎え入れたメロディアの母親を指す言葉であったからだ。


 血の繋がりよりも縁の繋がりが、メロディアとアクセルの家族関係を深めていく。

 メロディアの母親が早くに病で倒れると、二人はいっそう距離を詰め、寄り添い合うように四六時中行動をともにするようになる。

 兄妹の仲睦まじさは現在に至るまで変わっていない。ただ、アクセルはそんなメロディアとの生活を、十三の時に自ら手放すのだ。


雛鳥の寝床エッグストック』への入学。


 アクセルは公子としてではなく、騎士としての人生を選んだのである。

 その決意を食卓で本人の口から打ち明けられた日、メロディアが寂しがり啜り泣く声を隣で聞きながらミュリエルは思う──経緯は違えど、あの母もこの子も、やけに淡白な様子で唐突に家を離れていくものだ、と。




(ですが、せめてアクセル様には、いつでも帰ってこられる場所をご用意差し上げておかなければなりませんね)


 ミュリエルは庭で肩をすくめる。

 周りに他の建物がないとはいえ、メロディアは人目も憚らずアクセルに抱きつきなかなか離そうとしない。


「お兄様お兄様、あぁ麗しのアクセルお兄様! このメロディア、お兄様がこちらへお戻りになるのを三光年前からお待ちしておりましたのよっ!」

「はは……ただいまメロディア」


 アクセルは己の胸元に顔を埋めたメロディアの頭をふわと撫でる。


「でも光年って。ついこの春にも戻ったよね?」


 ふいと目線をメロディアの後方で控えているミュリエルへ移せば、ミュリエルはアクセルが記憶違いではないと主張するように目配せをした。

 確信を得たアクセルが、その華奢な両肩を掴むことでやんわりとメロディアの頭を引き剥がす。


「夏にもう一度帰ってくる、とも言っておいたはずだけど?」

「わたしにとっての数月は無限も同然なのです! それに……」


 メロディアは頬を子どもっぽく膨らませ、潤んだ碧眼で見上げる。


「最近はお手紙のお返事もなかなか返していただけませんでしたから! 新しいお勤めの数々でさぞかしご多忙だとは存じていますけれど……でも、騎士ともあろうお方がこの半島でもっとも近しきフリューエの気を持たせるだなんて、他にも代え難い怠慢そのものだとはお考えにならなかったのですか?」

「なるほど、道理だね。悪かったよ」

「メロディア様にとっては無限でも、わたくしたち万人にとっての時は決して有限ではありませんよ」


 背後から口を挟んだミュリエルが、起立したままコツコツとテーブルを指で小突いて、


「お二人とも、まずはご着席を。せっかくお淹れした紅茶が冷めてしまいますよ」


 そう促せばメロディアはようやくアクセルを解放した。

 門ではその間も、アクセルを連れてきた御者が荷物を運び出した後、勝手に帰って良いものか悩ましげに庭の片隅で落ち着かない態度を取っている。

 それに気付いたアクセルも、申し訳なさそうに片手をひらひらと御者へ向けて振った。


「どうもすみませんね。もう帰っていただいて大丈夫ですよ」


 やがて馬車は来た道を引き返すように屋敷から離れていく。

 庭のテーブルで兄妹が向かい合うように着席すれば、それまでずっと慎ましくしていたオレンジの香りが再び強まったように感じる。


 アクセルはカップを手に取った。

 昔から柑橘の香りが気に入っていて、騎士団の寮へも茶葉の小袋を持ち込み自分で紅茶を淹れていた──けれど。




「……うん」


 一口含むなり、アクセルは細めた目で水面を見つめ、顔を綻ばせる。


「やっぱり、この紅茶が一番だな」


 その言葉を聞くと、ミュリエルも口角をわずかに広げた。

 兄がここへ帰ってくることがメロディアの至高であるとするならば、ミュリエルの何よりの喜びは、子から今の一言を聞くことであっただろう。

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