第4話

 4時間の退屈な授業を受け終えて、学食へ向かう生徒たちと競い合うように教室を飛び出す。クラスメイトの視線は気にならなかった。


 あんな短い会話をしただけの彼女と昼休みを過ごすのが楽しみになっている。それだけ自分が人との会話に飢えていたということだろうか。


 それとも彼女が、俺を奇異の目で見るわけでも複雑そうな表情をするわけでもないからだろうか。なんにせよ階段を上る足取りが軽いのがすべてだ。


 今日は扉がきちんと閉められていたけれど、手をかけるとあっさり開いた。中には昨日の彼女がいて、今日は窓際の席に座っている。机にはコンビニで買ったらしい菓子パンがのっていた。



「横、座っていい?」



「どうぞ」



 彼女の隣に置かれた机から椅子を下ろし腰かける。昨日俺が下ろした席の椅子はそのままにされていた。彼女は俺に会釈して、バリ、と菓子パンの袋を開ける。1つしかないけれど、それで放課後まで持つのだろうか。


 俺も弁当箱の包みを開く。相変わらず、彼女からは話しかけてこなかった。しばらく弁当を口に運びながら、彼女の名前を聞くタイミングをうかがう。そうこうしているうちに、彼女は菓子パンを食べ終えてしまった。口の中に残った米を飲み込み、お茶で喉を潤してから口を開く。



「あのさ、昨日聞きそびれたんだけど、名前なんていうの?」



 彼女は聞こえているのかいないのか、それとも聞いたうえで無視をしているのか、手元の菓子パンの袋を丁寧に結んでいる。その様子はなんだか、俺に名前を言うのをためらっているように見えた。


 彼女はぐっと袋の結び目に力を入れる。やがて数学の問題を前にしたみたいに眉をひそめて、薄い唇を開いた。



「……ミランダ」



 昨日ここにきたばかりの俺だったら、からかわれているか、一緒にいたくないと思われていると受け取っただろう。けれど今日の俺はなぜだか、ミランダという彼女の名前を素直に受け止められた。


 無論、本名だとは思っていない。確かに本当にミランダだと言われても違和感のない顔立ちではあるけれど、あの戸惑いの表情から、彼女の本当の名前であるとは思えなかった。


 きっとミランダは、自分に踏み込まれたくないのだろう。だからといって名前を隠すかと言われたら、そこまでする必要ないじゃないかと言いたくもなるが、それがきっと彼女なりの自分の守り方なのだ。



「ふうん。ミランダって、編入生?」



 彼女は自分の名前を素直に受け入れられたことに驚いているのか、一瞬目を見開いて、少し申し訳なさそうな顔をした。それから、小さく首を横に振る。



「ううん。中等部からここにいる」



 そう言う彼女の返答に俺は少しがっかりした。てっきり同じ編入生で他のクラスメイトに馴染めないからこんなところにいるのだと思っていた。


 けれど中等部からいるのにこんなところで昼食を食べているというのは、よっぽどクラスメイトと馬が合わないのか、それとも何か事情があるのか。どちらにせよ彼女が素直に名乗らないのも納得いく気がした。



「俺、春。よろしく」



 俺には名前を隠す理由はないからフルネームを名乗っても良かったのだけれど、名前だけ教える方がなんだか親密な感じがした。俺はこの短時間の間に、ミランダに言い知れぬ親近感を覚えていたのだ。



「うん、よろしく」



 ミランダの表情がやわらかく緩む。笑顔というには遠かったが、彼女の隣にいることを許されたような気がした。


 俺たちはようやく自己紹介に至ったが、お互い積極的に話すでもなく、ただ同じ空間を共有することで昼休みをやり過ごした。きっとミランダにとっても、昼休みはやり過ごすものだったのだと思う。


 ミランダは今日も窓辺に寄り掛かってじっと外を見つめていた。弁当を食べ終わった俺は今日こそ何があるのかと彼女の隣に並んだけれど、せいぜい向こうの校舎と中庭が目に入るくらいで面白いものは何もなかった。


 中庭では上級生らしい男子生徒が駆け回り、木陰のベンチに座っている女生徒が膝の上にお弁当箱をのせたまま会話していたりする。俺も“普通の格好”で学校に来ていたらあんなふうにみんなの中に混ざっていたのだろうか。


 想像するけれど、混ざりたいとは思わない。いや、ただの強がりかもしれない。けれど眠たそうな目で中庭を見下ろすミランダは、まるで別世界の人間を眺めているようだった。


 予鈴が鳴って、ミランダが窓から離れる。それに続こうとしたが、扉に手をかけた彼女が振り向いて



「また明日」



 と言うから、俺はぽつんと彼女が出て行くのを待つことしかできなかった。きっと、クラスも知られたくないのだろう。彼女がいなくなって少し経ってから俺も教室を出る。


 それでも、また明日と言ってくれた事実が嬉しかった。明日もここにきていい。教室で、1人で孤独を噛みしめなくてもいい。そう思うと、体が浮き上がるくらい嬉しかった。

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