第3話

 朝、雪は降らなかったが、道路のアスファルトは凍結して白くなっていた。未明の黒曜石のきらめきは、無残に散り散りになって、たくさんの車のわだちになっている。


「金のない平民は不憫だな」


 乗客の二人のうちの一人が、外を見やって鼻で笑った。

 氷霜に耐える木々のように、駅の構内からはみ出た人々が棒立ちして、やせ我慢をしている。


 常連の老人は、軽快なリズムで杖の柄を叩くと、上機嫌だった。

 しかしその傍らの若い男の顔色が冴えない。ぼくの運転手と同じぐらいに、血の気が引いていた。


「すみません、少し停めてもらえませんか……」汗で鼻の頭が光り始めると手を挙げた。

 三車線の道路を走る車からは容易に降車できない。

「何言ってるんだ?」と老人が眉間の皺を深めて、若い男を杖で小突いた。


 それがきっかけになり、男は後部座席のシートに嘔吐した。


 ――最悪だ。


 恐怖と気持ち悪さの後に、苛立ちと憎悪が追いかけてくる。

 ぼくは空気清浄機をフルパワーにして窓を開けると、その気持ちと裏腹に、男の容体を気遣うアナウンスを流す。ドアも一緒に開けて、落下物みたいにしてやってもよかったけど。


 老人はなぜか運転席のシートを杖で叩いて、鼻をつまんでいる。もしかすると、こいつを落とせとか言ってるのかもしれない。残念なことに、発音が悪すぎて何を言っているか分からない。隅には、びっくりするほど体積を小さくした男がゲーゲー言っていた。

 ずっと見ていて、やがて目的地に到着するころには、なんだかラジオで流れる笑劇に思えてくる。

 さっきまでの老人の豹変ぶりが特に面白く、番組の噺家みたいに見えて、ぼくは記念に室内モニターで写真を撮ってやった。



 このまま異臭のするタクシーで次の客は乗せられないので、管理棟に戻ることにした。

 決められた位置に停めると、しばらくしてから作業員がやってきた。

 いつもの作業員じゃなかった。

 作業着のジッパーが下がっていて、シャツにプリントされた髑髏が見え隠れしている。


「うわぁ」と男は大袈裟に身を引くと、後部座席のシートを軽く拭いた。


 驚くことに、彼は汚れてもいないワイパーや、リアを拭いて、バケツで雑巾を洗った。

 少しも清掃されず、むしろ雑巾の硬い繊維が塗装を傷つける。


 ――だから人は嫌いなんだよ。


 浅はかで、だらしない。

 去ろうとする男の背に、沸々と湧き上がる怒りをぶつけたくなる。


「おい、そこの作業員! ちゃんと掃除しろ! 給料からさっぴくぞ、この野郎!」


 ドームの騒音をかき消すように、人の声が響いた。

 時間が止まったかのように、髑髏の男は身じろぎもせず固まる。

 ゆっくりと反転して、戻ってくると後部座席に這いつくばるようにして清掃する。


 思わず、ぼくは車内のスピーカーから自由に言葉を発してしまった。


 どうやら髑髏は、管理棟の誰かが車を経由して注意していると思ったようだ。さっきの手抜きと打って変わって、信じられないほど細やかな作業を始めた。


「いつもの作業員はどうしたんだ?」と、ぼくは尋ねた。

「転勤になりました。代わりに俺がこれの担当に」


 髑髏は作業を終えると、一目散に待機所に走って行く。ぼくはその背に、ホログラムで親指を下にした。


 もうあのラッキーボーイに会えないと思うと急に不安になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る