第13話

 猫はサクラの目を見てもう一度高めの声で鳴いた。

 サクラは突然足元に現れた黒猫を呆然と見つめる。思わず瞬きをした瞬間に目尻に溜まっていた涙がポロリと頬を伝って流れ落ちた。


「猫……?なんでこんなところに?」


 不可思議なことに巻き込まれて慌てるあまり黒猫の存在を見落としていたのだろうか。それにしては本当に急に現れたようにも思えた。

 黒猫はもう一鳴きするとすくっと立ち上がってサクラに近づいてきた。サクラは近づいてくる黒猫を黙って見つめる。

 黒猫は甘えるようにサクラの足元に擦り寄ってきた。猫が触れたところから猫の体温がサクラに伝わる。久しぶりに感じた生き物の暖かさにサクラの緊張や恐怖も少しだけ和らいでいった。


「こんなところで泣くなんて、やっぱり人間は弱すぎるのよ」


 その時、誰かの声がどこからか聞こえてきた。サクラはばっと勢いよく周りを見渡した。しかし、周りには誰もおらず、相変わらず無限に続く廊下だけが見える。


「どこ見てるのよ!こっちなのよ!」

「いたっ!」


 サクラがきょろきょろと見当違いなところを探していると、黒猫が足に爪を立てたのか鋭い痛みがサクラを襲った。


「え……?えっ?」


 サクラはじわじわと痛む足を押さえながら混乱する頭で黒猫を見つめる。


「いま、猫ちゃんが喋ったの……?」


 そんな漫画の世界のような事が起こるわけないと思いながらも黒猫に問いかける。すると黒猫はサクラの言葉を理解しているかのように顔をそっぽに向けた。


「猫が喋っちゃいけないなんて誰が決めたのよ!」

「えー!本当に猫ちゃんが喋ってる!」

「うるさいのよ!」


 サクラが驚いて思わず大きな声を上げると同じくらい大きな声で黒猫が怒った。サクラは猫ちゃんも同じくらいうるさいじゃん、と思ったが口にする前に間一髪で飲み込んだ。


 サクラの知る限り、猫が人の言葉を話すなんてことはありえなかった。それは空想上の話ではあり得ても、現実では起こり得ない事のはずだった。しかし、よく考えてみれば、今のサクラの状況もとても現実とは思えなかった。永遠に続く廊下に囚われ、一人彷徨い続けている今の状況を考えれば、猫が喋るくらい実はなんてことのない事なのかもしれない。


「猫ちゃんはなんていう名前なの?」


 そう考えると自分以外にも話せる人(?)がいることに安心感を覚え、サクラは少しだけ肩の力を抜いた。黒猫の大きさは子猫よりも大きく、大人の猫よりも小さい、まさに成長中といえるサイズ感だった。その姿から話しかける時に思わず甘やかすように声のトーンが上がってしまう。黒猫もそのことに気がついたのか、目を細めてサクラを睨んだ。


「とりあえず、その変な声で私に話しかけるのをやめるのよ。そうしたら名前くらいは答えてあげなくもないのよ」


 黒猫はふんっと鼻を鳴らすと、やや怒った様子を見せた。サクラは一瞬言葉に詰まったが、変なことをして一人になりたくはなかったので大人しくその言葉に従うことにした。


「はーい」


 サクラは間延びしたような返事をする。そしてしゃがみ込んでいた状態から廊下の壁に背をつける形で体育座りをする。だいぶ暖かくなってきたはずなのに、天気の悪さなのか、この異様な空間のせいなのか半袖だと肌寒かった。

 衣替えの期間はとっくの昔に終わっていて、サクラは思わず袖から出ている素肌を無意識のうちにさすった。


「それで?猫ちゃんの名前は?あ!ないなら私がつけてあげようか?」

「本当に失礼な娘なのよ。名前くらいあるのよ!」

「お、怒らないでよ……。ね!猫ちゃんの名前、教えてよ?」

「ふん。別に怒ってなんかいないのよ。それと、私の名前はアンなのよ。猫ちゃんだなんて気持ち悪い呼び方で呼ばないで欲しいのよ」


 目を細めて怒ったような様子を見せていた黒猫を宥めながら強請ると、ようやく黒猫は名前を教えてくれた。


(アン……アンかぁ……)


 何度か心の中でその名前を口にする。黒猫のアンとは初めて会うはずなのに、なぜかその名前がしっくりと舌に馴染んだ。


「アン……いい名前だね」


 サクラが名前を褒めるとアンは満更でもない様子でまた鼻を鳴らした。まるで照れ隠しのような反応に自然と笑みが溢れる。


「さっきよりはマシな顔になったのよ」


 アンはサクラの顔をじっと見つめながら言う。言われてみれば、目に溜まっていた涙はいつの間にかどこかに消えていて、不安と恐怖でいっぱいで余裕のなかった心は、アンと出会えたおかげで笑顔を浮かべられる程度には余裕が出てきた。


 結局、アンと出会えたからといって、この永遠に続く廊下からの脱出方法がわかったわけではないけれど、一人じゃないというだけでこんなにも気持ちが楽になるとは思わなかった。そう考えた時、頭の片隅で今もチラつく彼女は、今もどこかで一人ぼっちなのだろうかと心配になる。

 サクラよりもずっと大人びていて、度胸もある彼女だけど、きっとサクラと同じで一人ぼっちは嫌に違いない。


 そこまで考えてサクラはまた考えることをやめる。


(私、さっきから彼女彼女って……一体誰のことを言ってるんだろう)


 彼女のことは誰よりも知っていたはずなのに、今では彼女のことは何一つ思い出せなかった。まるで彼女の記憶だけ誰かがごっそり持ち去ってしまったかのようだった。


 彼女のことは何一つわからないのに、彼女が一人ぼっちになってしまっているのなら迎えに行かなければいけないと思った。


「ギリギリ及第点といったところなのよ」

「え?」


 考え込んでいるとアンがため息を吐いた。まるでサクラの頭の中をのぞくかのようにじっとサクラを見つめる。


「あんたも薄々気がついてるんじゃないの?あんたの中に、どうしても思い出せない子がいることに」

「……ど、どうしてわかるの?」


 その的確な指摘にサクラは目を見開く。


「当然なことなのよ。あんたと違って、私はこの物語の外にいるのよ。それに私はあんたのこともあの子のことももとから知ってるのよ」

「あの子って……"彼女"のこと……?」

「他に誰がいるのよ」


 サクラがどうやっても思い出すことのできない彼女に繋がる手がかりが、いま、目の前にあった。そう思ったら声が震えた。アンはサクラがぎゅっと手に力を込めたのを見て目をすっと細めた。


「私には制約があるのよ。だから全てを話すことはできないのよ。それでも必要な説明はしてあげるのよ」


 アンはサクラの足元ですくっと立ち上がる。そしてまるで猫のように大きく伸びをする。


「まず、ここはあんたもわかってる通り現実の世界じゃないのよ。そしてここは物語としても完結できない、出来損ないの世界なのよ」

「現実じゃないって……?それに物語として完結できないってどういうこと?」

「こんな永遠に続く廊下に取り残されてもまだ現実だと思ってるのなら私は今すぐ帰るのよ」


 アンの言葉をすぐに理解できないサクラに苛々したように顔をそっぽ向けた。


「いい?人間一人分の一生を一冊の本に考えるのよ。人間にとっての現実、一生は、他者から見たら一冊の本を読むようなものなのよ。本当ならここはあんたの本、つまりあんたの現実になるはずだったのよ。だけど、この本にはもう一人の人間の人生が刻まれてるのよ」


 怒涛の如く続く説明にサクラの頭はついていけなくなる。混乱する頭でアンの言葉を理解しようとするが、アンの話は突飛が過ぎてこれっぽっちも理解できそうになかった。


「一つの本に存在できるのは一人分の人生だけなのよ。つまり、二人分の人生が存在する今この本は、あんたにとっての現実になることもできず、物語としての終わりを迎えることもできずにいるのよ」

「ちょ、ちょっと待ってよ!急に物語だとか本だとか、人の一生だとか言われても何が何だかわからないよ!」


 当然のことのようにアンは話すが、アンの常識はサクラの非常識であった。とてもじゃないが理解できる話じゃなかった。

 アンは降参するように手を挙げたサクラを見ても表情を変えることはなかった。まるで初めからサクラが理解できないことを知っていたかのようだった。


「理解なんてできなくて当然なのよ。あんた達は私たちのように誰かの現実を物語に置き換えることなんてしないのだから。それでも、あんたは理解しなきゃいけないのよ。そうしなきゃ、あんたもあの子もこの物語の狭間に取り残されてどこにもいけなくなっちゃうのよ」


 アンの言葉はどこか突き放すようだった。


「あんたはもう薄々気がついてるのよ。わかってるのにわからないふりをしてるから余計にムカつくのよ」


 アンはそっぽを向く。その顔は苦虫を潰したように眉間に皺が寄っていた。サクラにはやっぱりアンの言っていることは理解できなかった。だけど、漠然とこのままでは何かを失い、取り返しのつかないことになることだけはわかった。

 失ったことに気が付かず、そのことを悔やむこともできず。やがてそれが当たり前になって。そうして彼女は一人この物語の裏側で誰にも気が付かれずに消えていくのだろう。


 それはつまり、サクラの物語が彼女の物語を喰らいつくすのと同義だった。


 その事実を理解すると、サクラは心の底からゾッとした。


「私……」


 サクラは今気がついたことを飲み込みながら静かに口を開く。


「まだ……まだよくわかってないけど、忘れちゃいけない人を、大切な人を忘れちゃってるのはわかるよ。アンの言う、現実や物語のことは難しくてちゃんと全部理解できてるとは思えないけど……。けど、そんな私でもまだできる事があるのかな?」


 彼女のことを思い浮かべながら弱々しい気持ちでアンに尋ねる。アンは小さく鼻を鳴らすと、サクラの足に爪を立てた。


「いたっ!」

 サクラはまた痛みで声を上げた。なんでこの猫はすぐに爪を立てたがるんだろうかと、恨めしそうにアンを見る。


「最初に言ったのよ。ギリギリ及第点だ、って」


 アンの言葉にサクラは痛みも忘れて目を見開く。


「私にはできない。あんたじゃなきゃできないことなのよ。……この物語の主人公じゃなきゃできない事があるのよ」

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