第12話

 サクラは胸の内に形容し難い不安を抱えたままその日の授業を全て乗り切った。終始後ろの席のアンリが心配そうにしていたが、曖昧に笑うことしかできなかった。今はなんだか、アンリのことがわからなくなっていた。アンリとは昔馴染みで、一番仲がいいはずなのに、なぜかそれが間違いのようで、何かを忘れているようで怖かった。


 考えすぎなのかもしれないが、サクラには思い出さなければいけないことがあるような気がするのだ。とても大切なことで、忘れてはいけなかったことが。それなのに、サクラはその事をはっきりと思い出すことができない。まるで夢の内容を思い出せなかったときのようなもどかしさを感じる。


「サクラ。やっぱり、ちょっと変だよ?大丈夫?」


 授業が終わり、校内の掃除も終わったあと、帰る準備をしていると支度が終わったアンリが心配そうに近寄ってきた。サクラは今日一日で何度も見せたかわからない誤魔化すような笑顔でアンリに「大丈夫」と答えるが、アンリの目はそれで許してくれそうになかった。


「ごめんって。……でも、心配してくれてありがとう。自分でも、ちょっとだけ今日変だなって思う」

「疲れてるの?それともなんか嫌なことでもあった?私はサクラの親友なんだからなんでも遠慮せずに話してね!」

「うん。ありがとう、アンリ。アンリが……」


 私の友達でよかった、と言葉を続けようとしたが、なぜかその言葉をアンリに使ってはいけないような気がして言葉にすることができなかった。この言葉を送るべき人物は他にいる、とそう思ったのだ。


 不事前に言葉を切ったサクラを不思議そうにアンリが見ている。サクラの中はぐるぐると渦を巻いており、目の前の光景が現実なのかどうかも判断がつかないほどだった。まるでテレビ越しに見ているような気分だ。そうして黙っていると、アンリがギョッとした顔をして慌てた。


「サ、サクラっ……!すごく顔色悪くなってるよ!やっぱり調子悪かったんじゃん。先生呼んでくるからちょっと待ってて!」


 アンリはそう言うとサクラが止める前に教室を飛び出して行った。他の生徒の机の上に無造作に学校の鞄が投げ出される。サクラには自覚がなかったが、アンリがあんなに慌てるほど調子が悪く見えたのだろうか。どちらかといえば、今は一人でいたくなかった。アンリでもいいから誰かそばにいてほしかった。それでサクラの手を握って、サクラがちゃんと現実の世界にいるのだと証明して欲しかった。


 一人でいるとあれこれと考えてしまって余計におかしくなりそうだった。ふと顔を上げると周囲の生徒はみんな帰宅したのかそれとも部活動に行ったのか、教室にはサクラ一人だけだった。


 サクラは帰る準備を進める手を止めてアンリが走り去っていった扉の向こうをぼんやりと眺めていた。すると脳裏にとある光景が流れた。


 それは誰かの背中だった。普段走ったりしない彼女が、珍しく走ってサクラのそばを離れていく。サクラはその背中に手を伸ばすが彼女との距離は開く一方だ。本当はサクラもその背中を追いかけたかった。その背中に追いついてちゃんと話し合いたかった。でも、理由もわからず教室を出ていった彼女を追いかけたとして、サクラは一体何を彼女に伝えればいいのだろうか。そう考えたらサクラの足は地面に縫い付けられたように動かすことができなかった。


 場面が変わる。顔を真っ黒に塗りつぶされた彼女がサクラの目の前に立っている。顔は見えないのにサクラは彼女が今どんな表情をしているのか分かった。いや、サクラは知っている。サクラはこの光景を知っている。だって彼女はサクラの______。


 わっと窓の外から一際大きな歓声が聞こえてくる。その声でサクラははっと意識を現実に戻す。そこに彼女はいなくて、掴みかけたと思ったものは霞のように消えてしまった。サクラは深いため息を吐く。何が自分の身に起きているのかわからないが、いい加減にして欲しかった。


「にゃあ」


 頭を悩ませているとどこからか猫の鳴き声がした。校舎の中に迷い込んだ猫でもいるのだろうか。


 サクラは重い腰を上げて教室の外を覗く。廊下を左右見渡すが猫の姿は見当たらなかった。アンリを待つために教室にいるべきなのに、サクラは廊下に出たまま教室に戻らず、何かに引き寄せられるように廊下を進んだ。


 窓の外には暗い雲が広がっている。雨はまだ降っていないようだったが、暗い雲のせいでもうすぐ夏を迎える夕方にしては廊下は異様に暗かった。その暗さに足が竦みそうになるが、足を止めることはしなかった。


「サクラ?」


 廊下を少し進むと後ろから声をかけられた。一番よく聞いている声のはずなのに知らない人の声のようだった。


 サクラは足を止めてゆっくり振り返る。


「……アンリ」


 背後から声をかけたのはアンリだった。アンリは一人でサクラの目の前で立っていた。先生を連れてくると言っていたのに、アンリの隣には誰もいなかった。サクラは怪訝そうにアンリを見ると、アンリは思わずゾッとするほど無感情の顔でサクラのことをじっと見ていた。サクラは無意識のうちに足を一歩後ろに下げる。


「どこにいくの?体調が悪いんだから、教室にいなきゃダメだよ」


 アンリが言う。サクラは常とは違うアンリの様子に嫌な汗が背中を流れる。また一歩、アンリから距離を取るように後ろに下がる。アンリとの距離は少しずつ離れていっているはずなのに、まるでアンリが目の前に迫ってくるような錯覚に陥る。


「ね、そっちに行っても何もないよ」


 サクラが一歩下がれば、アンリは二歩前に詰めてくる。まるでのっぺらぼうのような、なんの感情も見えない表情で近づいてくる彼女に、サクラの恐怖心は耐えられなかった。外の暗さは相変わらずなのに、二人がいる廊下はそれ以上にどんどん暗くなっていっているようにみえた。アンリ以外のなにもかもが黒く塗りつぶされていくような感覚だ。それはゆっくりと意識を失う時の感覚に似ていて、サクラは何も考えられなくなる。


 アンリの視線に絡め取られるようにサクラの足は前にも後ろにもその場に縫い付けられたように動かなくなる。その間にもアンリは一歩、一歩も確実にサクラに向かって歩みを進める。二人の距離はどんどん縮まっていく。


 逃げ出したい。そう思うのに体は全く言う事を聞いてくれそうになかった。


 アンリはサクラにとって大切でいちばんの親友なのに、どうしてこんな考えが浮かんでしまうのだろうか。


 もうまともな思考なんてできそうになかった。サクラはあと少しでアンリの手が届く距離まで彼女が近づくのを見て、思わずきゅっと目を瞑る。アンリの手がサクラに伸ばされる。


『サクラ!』


 その手がサクラに届く前に誰かがサクラの名前を呼び、後ろに思いっきり引っ張った。


「!」


 突然のことにサクラはその場でたたらを踏む。アンリも驚いたのか、伸ばしかけた手を宙で彷徨わせている。


 サクラは勢いよく振り返って腕を掴んできた人物を確認しようとしたが、振り返った先には誰もおらず、ただ暗闇が広がるだけだった。誰もいないのは明白なのに、サクラにはそこに誰かいるように感じた。姿も見えなくて、本当にいるのかもわからないのに、サクラはその誰かのことを強く知っている気がした。


『走って!』


 そしてまた声が聞こえる。サクラはその声に突き動かされるように暗い廊下を走り出した。先ほどまで全く動かなかった足が嘘のように動き出す。アンリが追いかけてくるのではないかと思い走りながら後ろを確認するが、アンリはその場で立ち尽くすだけで追いかけてくる様子はなかった。


 サクラは一旦校舎の外に逃げようと思い、廊下の先にあるはずの階段を目指した。しかしどれだけ走っても廊下の端には辿り着かなかった。窓の景色も変わっているようには見えない。


 何かがおかしいと気がついて足を止めて後ろを確認するが、前も後ろも終わりの見えない廊下が続いていた。無限に伸びる廊下を目の当たりにして、ようやくサクラは普通ではない場所に来てしまったことに気がつく。気付くのが遅くて、サクラはどこにも行けなくなっていた。


「はぁ……はぁ……一体、どうなってるの?」


 情けなくも泣きそうになりながら左右を見渡す。何度見てもこの不可思議な情景は変わらない。サクラが逃げるための道が都合よく用意されてるわけもなかった。


 先ほど感じていた誰かの気配も、今はもう感じられなかった。アンリの姿も見当たらず、サクラは正真正銘一人ぼっちだった。こんな摩訶不思議な体験をするのも、心細い思いをするのもこれが初めてのはずなのに、何故かつい最近にも似たような体験をしたようにも思う。


 サクラは訳がわからず、ただ疲労だけが重くのしかかり、ついにはその場に蹲ってしまう。目に涙を浮かべながら、心の中で必死に助けを求める。


 一人ぼっちになることがこんなにも怖くて寂しいことなんて知らなかった。だってサクラにはずっと彼女がそばにいたから。もしもこんな思いをすると知っていたのなら、きっとあの時だって彼女を一人にすることはなかっただろう。


(……彼女?)


 先ほどから何度も頭をよぎる彼女の存在に首を傾げる。彼女のことを考えると、恐怖で喚き散らしたくなる気持ちも少しは落ち着いた。


 もしも彼女のことを思い出すことができたのなら、この意味不明な世界から抜け出すことができるのだろうか。彼女の存在を思い出すことが、この世界から抜け出す唯一の鍵のように思えた。


 いや、そんなことは関係なくサクラは彼女のことを思い出さなければいけないと強く感じていた。


「にゃあ」


 深く考え込んでいると、また猫の鳴き声が聞こえてくる。はっと顔を上げると、蹲るサクラの目の前にいつの間にか真っ黒の毛並みをした可愛らしい黒猫がちょこんと座っていた。

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