第11話

 たくさんの本に囲まれた部屋の中心にアンティーク調のテーブルがポツンと置かれている。その机には入れたばかりなのか湯気の立ち上るティーカップが二つ置かれていた。そしてそのカップの前にノエとアンは座っていた。ノエはカップを持ち上げて紅茶の香りを楽しんでいた。一方アンは足をぶらぶらと前後に揺らすだけだった。


「タチが悪いのよ」


 ぼそりと口を尖らせながらアンは言う。彼女は文字通り猫舌なので湯気の上る紅茶には手をつける様子がなかった。


 その代わりなのかノエが紅茶の香りを楽しみながら一口、口にした。


「何がですか?」


 モノクルの向こう側からノエは目を細めてアンを見る。アンは相手にするのも疲れたかのように肩をすくめる。


「そういうところも含めて全てなのよ。全てにおいてノエは意地が悪いのよ」


 じっとノエの挙動を目で追いかけながらアンは答える。ノエは静かにカップを机に戻した。


「なんで……サクラにあの本を渡したのよ」


 ノエは何も答えず、アンの言葉の続きを待った。


「あの本は、サクラのための本じゃないのよ。あの本は……」

「アンの言いたいことはよく分かります。確かに、あの本はサクラさんのための本ではありません。ですが、こんな機会もなかなかないと思いませんか?」


 ノエは怪しく笑いながらアンの言葉を遮って話し始める。大袈裟に手を大きく広げながら心の底から楽しそうにアンに同意を求める。


「これは一種の実験ですよ」

「何の説明もなしに勝手に実験に参加させられた方はたまったもんじゃないのよ」


 眉を顰めながらアンは怒ったように言う。ノエはどれだけアンに嫌そうな顔をされても笑顔を崩さなかった。まるで気にする必要もないようだった。


「そうでしょうか?でも、ご覧の通り、彼女はちゃんと願いを叶えたでしょう?なら、その過程に何があっても些細な問題だと思いませんか?」


「少なくとも、私はそうは思わないのよ。こんな詐欺師みたいなことをするのは、一番納得がいかないのよ」


「なら、アンが伝えてあげればよかったんじゃないですか?ここにもユキネさんが来たことがあるって。この本はもともと_____」


 ノエは広げていた両手を下ろし、机に肘をついて手を組む。そしてその手の上に顔を乗せる。



「ユキネさんのための本なんだ、ってね」



 アンはさらに眉に皺を寄せて心底嫌そうな顔を見せる。そしてそっと自身の首元に触れた。アンの着るタートルネックのシャツの下には首輪のように黒い線が付けられている。これはアンとノエの契約の証だ。


「どの口が言うのよ」


 ノエを睨みながらアンは不快そうに答える。ノエは普段見れないアンの様子を興味深そうに観察している。まるで幼い子供のようだとアンは思った。妖は総じて好奇心が強く、何でも知りたがる傾向にある。だが、アンの目の前に座るこの男は妖以上に"ヒト"の可能性に興味を抱いている。"ヒト"を理解するためならきっとなんでもするだろう。それこそ、今回のサクラとユキネのように。


 だけどそれは意地悪とかの類ではない。ノエのそれは悪癖とも言えるが、そこに悪意はない。それこそ純粋な好奇心の延長線上に過ぎない。だからこそ、タチが悪いのだ。


「一冊の本に対して一つの願いしか叶えられない訳じゃないんですよ。たまたま、これまでは一冊に対して一つの願いを叶えていただけで、間違った使い方ではないですよ」


「それでも、異なる願いが交われば不和を生むのよ。彼女たちは本気で願いを叶えるためにここに足を踏み入れたのに、何が起きるかもわからないことをするなんてどうかしてるのよ」


「何を言ってるんですか、アン。僕らはあくまで売り手であり観測者でしかありませんよ。"ヒト"の紡ぐ物語と妖が辿る物語を記録するだけです。何が起きるかわからないからこそ、やってみる価値が生まれるのでしょう?」


 きょとんとした顔でアンの言葉を訂正する。ノエと話しているとまるでアンの方がおかしいように思えてきて嫌になる。


 子供のような純粋さで、しかしその言葉は真剣そのものだった。ノエの中ではサクラの願いも、ユキネの願いも好奇心を満たす材料の一つでしかないのだろう。それはアンからすれば一種の狂気のようにも思えた。


 アンは背筋に冷や汗を流す。アンは妖であるが、他の妖と違って"ヒト"に対する好奇心は薄かった。それはアンの生い立ちによるものであったが、"ヒト"への好奇心よりも庇護欲の方が強いのだ。それこそ、ノエのような狂気は持ち合わせていないどころか、ノエの好奇心はただただ恐ろしいものでしかなかった。


 アンは小さくため息をついてその場を立ち上がった。話している間に紅茶は冷めてしまったが、アンがそれを飲むことはなかった。


「飲まなくていいんですか?」


 それに気がついたノエがアンに尋ねるが、首を横に振る。


「そうですか。せっかく美味しい紅茶だったんですけどね」


 残念そうな声を出しながら、大して残念そうでもなさそうな雰囲気でノエは笑う。アンは何かを言おうと口を開きかけたが、結局何かを言うことはなかった。ノエと話していても、根本的な考え方が違うからか、ただ疲れるだけだった。


 アンは机の中心に置かれた空色の本、サクラとユキネの願いが綴られた本を手に取る。そして静かに表紙を優しく撫でると本を開いた。数ページめくり目的のページを見つける。


 それは"サクラ"の願いであり物語であった。


 そしてさらにページをめくると、"サクラ"の願いよりも薄く、掠れた文字が書かれたページに辿り着く。


 これは"ユキネ"の願いであり物語であった。


 この本には、今、二つの願いが込められている。ノエがそう仕組んだのだ。そして、この本には二人の物語が綴られ、交わっている。


 "サクラ"の願いは濃くはっきりと書かれているのに対して"ユキネ"の願いは今にも消えてしまいそうだった。これが、実験の果てなのだとしたら、こんなに悲しい話はないだろう。


 アンは痛ましいものを見るように"ユキネ"の願いをなぞる。消かかった文字はそれでもまだ抗っているのか温もりを感じた気がした。


 まるで、まだ消えていないことを主張するように。そう、アンに訴えるように。


 アンはその気持ちを受け取るようにもう一度文字をなぞると再び"サクラ"のページに戻った。


 ノエはこれを実験だと言ったが、やはりアンにはこんな結末はあんまりだと思った。人間のことなんて好きではないが、本気で願いを叶えに来た人間の思いを踏み躙るようなことをアンはしたくなかった。


「行くんですか?」


 アンの覚悟を決めたような表情を見て、ノエが微笑む。アンはノエとは反対の方を向いた。


「ただ、見てくるだけなのよ。……ノエの言う通り、ただの"観測者"でしかないのだから。決して、サクラとユキネの手助けをするわけじゃないのよ」


「あはは。そうですか。なら気をつけてくださいね。アンの言う通り、この物語は二人の願いが交わり、混沌と化しています。ないとは思いますが、気を抜いて壊れていく物語に飲み込まれないように」


「そんなヘマ、するわけないのよ」


 ノエの忠告にアンはムッとする。それでもすぐに気持ちを切り替えたのか、表情を元に戻す。


 アンは"サクラ"の願いに触れる。触れた指先に少しだけ力を入れてなぞると、その文字が淡く光り出した。それと同時にアンの体が薄れていく。


「行ってらっしゃい、アン。二人の物語の結末を、どうか見守ってくださいね」


 ノエがアンに向かって手を軽く振る。まるでお使いに行く子供を見送るかのような様子だった。アンは顔色を変えずに、さらに指先に力を入れる。本来、綴られた物語に干渉するにはそれ相応の力が必要なのだ。あんなにすんなり物語に干渉できたサクラの方が異常なのだ。


 アンは指先に集中するように目を閉じる。


 その瞬間、アンはその場から消えた。まるではじめからそこには誰もいなかったように。


 アンの手から離れた空色の本はその場に落ちた。落ちた本をノエが立ち上がり拾い上げる。そして優しく汚れを払い落とす。


 空色の本を机に戻すと、その表紙をそっと撫でる。


「さぁ、彼女たちは一体どんな物語を創ってくれるのでしょうね?」


 そう言ってノエは優しく笑った。

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