第10話

 夏になる手前、梅雨に入りかけるこの頃は、湿った風が頬を撫でていく。じめじめとしたその季節が、サクラは苦手だった。


「……や」


 低い男の人の声が遠くに聞こえてくる。せっかくいい気分でいられているのに、それを邪魔されてるようだった。


「ま……や」


 いろんなことがあって疲れてるのだから、今くらいは休ませて欲しい。そう心の中で文句を言ってから、ふと何にそんなに疲れたのだろうかと首を傾げる。しかし、そんなサクラの胸の内は伝わるわけがなく、男の声は何回も、そして徐々に近くに聞こえてくる。


「松宮!いつまで寝てるんだ!」


 男の声がはっきりとサクラまで届いた。サクラはその声に叩かれるように目を覚ます。


 目を開けると角刈りのがたいのいい男の人がサクラの斜め前で腕を組んで立っていた。そして、サクラが周りを見渡すとサクラと同じ制服に身を包んだクラスメイトたちがじっとサクラを見ていた。


「あ…あれ?どうして?」


 サクラが呆然としていると角刈りの男が深いため息を吐いた。


「松宮…今は授業中だろ。いくらなんでも気を抜きすぎだぞ」

「じゅ、授業……?」


 角刈りの男の言葉をうまく飲み込むことができない。


 サクラはどうして今自分がここにいるのかわからなかった。だってサクラは……何をしていたんだっけ?


 サクラには直前まで何をしていたのか記憶がなかった。まるですっぽりそこだけ穴が開いているような感覚だ。


「松宮、お前大丈夫か?体調悪いなら保健室に行くか?」


 サクラがいつまでも呆けていると、角刈りの男も普通じゃないと思ったのかそう提案してくる。サクラは僅かに眉を顰めるが、保健室に行くほどではないとぼんやりした頭で考える。


 そう担任に伝えようとする。


 そうだ。この角刈りの男はサクラの今年の担任だ。ジムに通うのが趣味で見た目の割に担当している教科は国語だったりする。


 担任のことを思い出すと、他のことも芋づる式に思い出す。サクラは松宮サクラという。豊西中学の学生で、今年の春でにねんせいになった。そして今は他の教科より少しだけ得意な国語の授業中だ。


「だ、大丈夫です。ちょっと、昨日夜更かししちゃって、あはは……」


 問題ないことをアピールしながら、適当な言い訳を口に出す。担任はそれでも心配そうにサクラを見ていたが、他の生徒をほったらかしにするわけにもいかないと思ったのか、とりあえずサクラの言い分を信じた。


「何をしてたのか知らんが、授業中に寝ることがないようにしろよ」


 担任はそういうと定位置の教卓の前に戻っていった。それに合わせてクラスメイトの視線も自然と前に戻る。新しく担任になったこの人は見た目の割に優しいところがあるようだった。


 サクラは他の生徒の視線や担任の追求からうまく逃げることができてホッと胸を撫で下ろす。


 その時、肩を遠慮がちに後ろから叩かれた。サクラはなんだろうと思って少しだけ身を捩って後ろを向く。


 後ろの席にはポニーテールの活発そうな女子生徒が座っていた。サクラはその女子生徒の顔に見覚えがなかった。


「サクラってば、何回起こしても気づかないから……」


 口元を隠しながら、笑いを堪えようとしていたのだろうが、言葉の端々から笑い声が漏れていた。サクラはこの女子生徒が誰だろうかと記憶をひっくり返そうとしたところで、また担任に声をかけられた。


「松宮ぁ!ちゃんと前向けよー!」


 サクラが居眠りをしていたことで、担任に目をつけられてしまっていたようだ。


 サクラは気の抜けるような声で返事をする。前を向く時ちらりと後ろの女子生徒を見ると手で謝るジェスチャーを作っていた。それには反応を返さず、大人しく授業に集中することにした。


 その後の授業は特筆すことなく進んでいった。



***



 授業が終わったことを知らせるチャイムが鳴り、日直の掛け声に合わせて一礼する。


 授業が終わってもサクラは心ここに在らずの状態だった。


 何かとても大切なことを忘れてしまっている。そんな気持ちがずっとあった。喉に刺さった小骨がうまく取れないような、そんな小さな違和感がずっと続いている。


 桜はそれがなんなのか必死にその一端を捉えようとするのだが、なかなかうまくいかない。それがまた、サクラは苛立たせた。


 その時、また肩を叩かれた。


 サクラは誰だよと思いながら振り返れば、先ほどもサクラの肩を叩いてきたポニーテールの女の子だった。


「サクラってばガッツリ寝すぎだよ!」


 ポニーテールの子はけらけらと可笑そうに笑って言った。まるで昔からの友人のように、親しげに話しかけられてサクラは戸惑った。


「あれ?反応薄いじゃん。もしかしてまだ寝ぼけてるの?」 


 ポニーテールの子はサクラの目の前で手をひらつかせる。サクラは目を瞑り、この女子生徒のことを思い出そうとする。


 しかし、考えれば考えるほど、彼女とは知り合いでないように思えた。なのにポニーテールのの子はまるで長い付き合いのように話しかけてくる。その感覚の違いがなんだが気持ち悪く感じた。


「え?本当にまだ寝ぼけてるの?本当に?私のことわかる?私だよ。鈴原アンリだよ。サクラの親友兼幼馴染を忘れちゃったの?」


 サクラが黙り込んでいるとポニーテールの子も何かおかしいと思ったのか、あわあわと慌てだした。


 鈴原、アンリ。鈴原アンリ……。


 サクラはその名前を心の中で反芻する。そしてそれは本の中の登場人物を思い出すように唐突に閃いた。


「アン、リ……ごめん。なんか、私ちょっと変だったかも」


 誤魔化すように笑うとアンリはほっとした様な顔を見せる。


「いいのよ、いいのよ!大丈夫ならそれでいいんだよ!」


 アンリは笑いながらサクラの肩を叩く。


 鈴原アンリとは幼い頃からの付き合いだった。家も近くて、登下校もいつも一緒だ。アンリはサクラと違って真っ直ぐで綺麗な黒髪で、とそこまで考えてサクラは何か違和感を感じて思考を止める。サクラはなんとなくアンリの方を見た。そこにはポニーテールに髪を纏めたアンリがいる。


(あれ?アンリって髪の毛縛ってたっけ?)


 何かがおかしいと思ってても何がおかしいのかはっきりと分からない。何かに気づきそうになっても、その端を捕まえる前に、サクラを笑う様にひらりと何処かへといってしまう。


 その感覚がどうしようもなく気持ち悪く、不快だった。


「サクラ?やっぱり体調悪いの?」


 アンリの心配そうな声に首を横に振る。


「大丈夫だよ。何でもないよ」


 アンリを安心させる様に笑う。それでもアンリはどこか納得のいってないような表情を見せる。


「ほら、次は移動教室でしょ?早く行こう」


 サクラもアンリが納得していないことは気がついていたが、それに気がついていない様にアンリの手を取る。そして急かす様にアンリの手を引っ張る。


 その行動がさらに小さな違和感をサクラの中に植えつけた。


 サクラはどちらかというと消極的で、自分から何かをしようとすることは少なかった。そんな時、必ずサクラの手を引っ張ってくれた子が居たはずだ。


 そしておそらくそれはアンリではない。


 サクラは漠然とそう思った。ただのサクラの思い違いかもしれないが、そうじゃないと思う気持ちも強かった。


 サクラは次の教室に向けてアンリの手を引きながら廊下を歩く。ふと窓に映る自分の姿が視界の端に入り、目線を向けた。


 窓には外の風景の中にうっすらとサクラの姿が映っていた。そしてそのサクラの姿はゆらゆらと揺れている。サクラは普通じゃないその光景に思わず足を止める。すると後ろを歩いていたアンリがサクラの背中にぶつかった。


「サクラ?」


 アンリが突然止まったサクラの顔を覗き込む。アンリに見られていることはわかっていたが、サクラは窓に映った自分から目を離せなかった。


 窓に映った自分はアンリを指差してこういったように見えた。



『あの子は、だあれ?』



 雷に打たれた様にばっとアンリの方を向く。そこにいるアンリは確かにサクラの幼馴染のアンリだ。誰なんて聞かれなくても、アンリのことを一番サクラはわかっている。


 なのに何故だろう。


 窓に映る自分に言われたからか、サクラは目の前にいるアンリの顔がはっきりと見えない様に感じた。モヤがかかっている様な、そんな感じだ。 


 そんなことあるはずないと頭を振る。


 そしてもう一度窓を見るとそこにはもう鏡の様に同じ動きをする自分自分の姿しか映っていなかった。


 一体なんだというのか。


 そう思いながらサクラはその場に立ち尽くしてしまった。

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