第9話

 いつのまにかノエが二人の近くにきていた。サクラはアンの後ろから出てきたノエを驚いたように見上げる。


「でも、私が見たところは、とても幸せそうな場所じゃなかったです」

「あんたたちの願った事は物語になり、その物語は世界の流れと照らし合わせて辻褄合わせをするのよ」

「つまり、サクラさんが見た場面は、"フローレンス"の願いの物語の始まりであり、結末ではないんです。あの時点では彼女の願いはまだ叶っていないように見えますが、最後まで見ることができたのなら、彼女はナディアの幸せな明日を手に入れてるはずですよ。」


 アンの言葉を引き継ぐようにノエが言う。サクラは二人の顔を交互に見る。


「ここではどんな願いであっても必ず叶うのよ。それが死人を蘇らせたいと言う無茶苦茶な願いであってもよ。だけど、その死人が生きるためにはそれに見合った物語が必要になるのよ。辻褄合わせっていうのはそういうことなのよ」


 アンの言う通り、死んだ人を生き返らせたいと願った時、その場でパッと死んだ人が現れたら驚くどころの話じゃないだろう。どんな物語になるのかは想像もつかないが、その死人が生きていてもおかしくないような話を用意する必要があるのだろう。


「あの、ちゃんと聞いてなかったんですけど、代償ってなんなんですか?」


 願いが叶うという魔法のような言葉に惑わされて、代償について深く考えていないことに気がついた。すべてをちゃんと理解したわけではないが、単純に願った事が叶うわけではない事は理解した。


 それでは払った代償はどのように昇華されるのだろうか。たしか、代償は願いに込められた想いや記憶の一部だったはずだ。


 ここにある本が、単純に願いを叶えるだけの本ではないのだとしたら、それに払った代償は一体どのような物語となって返ってくるのだろうか。


「代償は私の願いに込められた想いや記憶の一部……それってつまり」


 言葉にしたら何かに気がつけそうだった。しかしその何かを捉える前に視界の端でノエが人差し指を口元に添えるのが見えた。


 そしてノエは怪しく笑った。

 楽しそうに笑った。

 有無を言わせないように笑った。


 その笑みを見たサクラは本能的に恐怖を感じた。得体の知れないものを相手にしているような気がした。


 ノエもアンも"ヒト"の形でいるから忘れてしまいがちであった。ここはサクラが暮らす普通の世界の外側にあるということを。


 そしてこれまで疑いもしなかったが、ノエは本当に"ヒト"なのだろうか。"ヒト"なのだとしたらどうしてこんなところにいて、こんな不可思議な商売をしているのか。


「サクラさん」


 ノエに名前を呼ばれる。思考の海からか意識を引っ張り上げる。ノエは変わらず笑っていた。アンはそんなノエを横目で見ながら肩をすくめていた。


「深く考えすぎず、ただ、サクラさんの願いが何であるかだけを考えてください。アンの言う通り、願いを叶える事は言うほど単純ではありません。ですが、ここでサクラさんが願いを叶える事で悪いようにならないことは保証します」


 人の良さそうな顔でノエはサクラの顔を伺う。アンは小さく「聞こえていたのよ」と呟いた。


 サクラは先ほど生まれた恐怖のせいで素直に頷くことが難しかった。もしかしたら自分はとんでもないことをしようとしているのではないかと思えてしまった。


 サクラが溜まり込んでいるとノエは少し考えるそぶりを見せた。


「考えていても仕方がありませんので、実際にやってみてはいかがでしょうか?インクも出来上がっているようですし」


 サクラの戸惑いなんて気づいていないようにノエが明るい声で言う。サクラはすっかり怖気付いてしまい思わず一歩足を後ろに下げてしまった。まるで、この場から逃げ出すように。


 それに気がついたアンがするりとサクラのそばまでやってきて、サクラの手からインクの瓶を取り上げる。


「あんたは既に代償を払っているのよ。今戻ってもどっちにしろただでは帰れないのよ」


 アンの言葉にサクラは目を剥く。たしかにサクラはアンと一緒にインクを作った。アンに言われた通り、ユキネとのことを考えながら。


 つまり、いまアンの手にあらインクにはサクラのユキネに対する気持ちや思い出が詰まっていることになる。


 今ここで願うことをやめて逃げる事はおそらくできるのだろう。だけど、アンの手に残されたサクラの気持ちや思い出をここに置いていくことはどういうことを意味するのだろうか。


 ノエはたしか、ここでの記憶は忘れてしまうと言った。それなら、既に代償として支払ってしまったそれらも同様に忘れてしまうのだろうか。


 サクラは今になって、自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに気がついた。どうしよくと焦る気持ちが溢れてきて、泣き出しそうになる。


「あぁ!もう!いいからやるのよ!」


 サクラの気持ち気づいているのか、いないのか分からないが、アンはサクラを無理矢理座らせた。そしてインクと本を机に並べる。アンは机にどんっと手をつき、サクラの目をしっかりと見つめる。


「ノエも言ったけれど、少なくともあんたの願いは叶えることができるのよ。それは、あんたにとっても悪いことじゃないはずなのよ」


 サクラはアンの言葉に視線を彷徨わせる。目の前には真剣な顔をしたアンとサクラの作ったインク瓶、そして願いを叶える本がある。その向こうでノエは変わらず微笑んでる。


 本当にここでサクラの願いを叶えてしまってもいいのだろうか。


 その想いが強くサクラの中にあった。だけど、アンの言うように代償を既に支払ってしまっているのなら、止めて帰ることもまたリスクになるのだろう。


 ならば、やはり二人の言うようにサクラは願い事をするしかないのだろう。


 サクラは深呼吸をすると覚悟を決める。


「わかった。やるよ」


 弱々しく口にした言葉は二人にちゃんと届いたようだ。その言葉を聞いていたノエがサクラの近くにやってきた。そして懐から一つの細長い箱を取り出した。


 ノエは箱をサクラの前に置いた。そして蓋をそっと開けた。

 箱の中には一本のガラスでできたペンが入っていた。


「わぁ……」


 思わず感嘆の声が漏れる。


 ガラスのペンはとても綺麗だった。まるで魔法でもかかっているかのように美しかった。持ち手のところには雪の結晶のような模様が彫られており、ペン先に向かうにつれて淡い水色が色づけられている。


「このペンも特殊なものなのよ」


 精巧で緻密に作り込まられたガラスのペンに魅入ってしまい、アンの言葉に右から左に流れてしまった。


「さぁ、始めましょう」


 ノエの言葉にサクラはやっと顔を上げる。口の中に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。

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