第8話
「でもインクは作れたからあとはこの本に願い事を書くだけじゃないの?」
サクラは手に持ったインクと机に置かれた本を交互に見る。インクができたのならあとは本にサクラの願いを書けばいいのではないのか。
「ここは神様に願い事を叶えてもらうような場所じゃないのよ。この店は代償と引き換えに願いを叶える本を売る場所なのよ」
アンの言いたいことはノエの言葉のようにはっきりとせず、何が言いたいのか理解するのが難しい。
「もうちょっと分かりやすく言ってよ。それじゃあ、何が言いたいのかわからないよ」
サクラが口を尖らせるとアンはまたため息を吐いた。
わからないものは仕方がないじゃないか。心の中で文句を垂れる。
「あんたは、本を読んだことないっていうの?」
「本くらい読んだことあるよ。私、もう中ニなんだよ。毎朝学校では読書タイムがあるくらいだし」
「ちゅうにっていうのが何を指すのかは知らないけど、本を読んだことがあるのなら少しは想像ができるんじゃないの?」
アンがそういうがやっぱりサクラにはピンと来なかった。サクラがうんうん唸りながら考えていると、アンは深緑の本を手に持つ。"フローレンス"の願いが込められた本だ。
アンはその本をパッと開いた。
「あっ!」
サクラはさっき本の中に入った時のことを思い出して思わず声を上げる。本に入った時、サクラがどうなっていたのかわからないが、アンも同じように本の中に入ってしまうのだと思った。
しかしアンは気にした様子もなくぺらぺらと本のページを捲り続ける。いつまで経ってもアンが本の中に入るような様子はなかった、
サクラがどうしてという気持ちでアンを見ていると、アンは本を捲る手を止めてサクラの方を見た。
「言っておくけど、あんたみたいには本に飲み込まれる"ヒト"なんてそうそういないのよ」
「え!そうなの?」
「当然なのよ。この本は“フローレンス"の願いがもとに世界が紡がれてるのよ。無関係な人間が簡単に干渉できたら"フローレンス“の願いがぐちゃぐちゃになるのよ」
アンの言うように"フローレンス"の事は想像できなかったが、自分のことに置き換えて考えてみる。
この空間にある本は、説明されなかったが、おそらく全て誰かが願った結果なのだろう。サクラの背丈よりもずっと高くまである本棚に、数多くの本が並べられている。
サクラの座る椅子の周りにも、机を中心に円を描くように床に高さがバラバラに積まれている。ここにはサクラが数えられないほどの本がある。それだけ誰かがここで願いを買って行ったことになる。
それだけ誰かの願いをもとにした世界が紡がれていることになる。
もしも、サクラの願いが込められた本がこの本のどこかに置かれたら。もしも誰かがその本を開き、世界を書き換えてしまったら。
それは確かに嫌だし、何より他の誰かに手を出された願いが、どう変化してしまうのか分からないことが怖いと思った。
自分の大切なところを土足で踏み荒らされるようなものなのだろう。
「それは、嫌だね……」
サクラは周りを取り囲むように積まれた本をぐるっと見渡す。横目でサクラを見ていたアンは再び"フローレンス"の本を捲る。
「安心するのよ。たかが"ヒト"の意識一つで世界が捻じ曲がるほど、ここの本は簡単にできていないのよ。むしろあんたはノエに感謝すべきなのよ。あのまま本に飲み込まれていたら、あんたは今頃"フローレンス"の意識の一部になっていたんだから」
「え?それってどういうことなの?」
アンの口から信じられない話が出てきてサクラは思わずぎょっとした。アンに詳しく聞こうとしたが、アンの方は本を捲ることに集中しており答えてくれなかった。それでもサクラはアンに教えてもらうために、アンの意識を本から引き剥がそうと手を伸ばした。
「あぁ、ようやく見つけたのよ」
その手がアンに届く前にアンがサクラの方に向き直った。サクラは慌てて手を引っ込めた。アンはどうやら目的のページを見つけたようだ。
アンはサクラに見えるように本のあるページを見せてきた。
見開かれたそのページにはたった一行だけ何かが書かれていた。その言葉はやっぱりサクラの知っているものではなく、読めなかった。
「これがどうしたの?」
「これが"フローレンス"の願いの根幹なのよ」
サクラが尋ねるとアンは簡潔に答えた。このサクラには読むことのできない一文が"フローレンス"の願いだとして一体何になるというのか。その疑問を読み取ったのかアンが口を開く。
「いい?ここには『ナディア様の明日を望む』の書かれているのよ」
「それが"フローレンス"の願いってこと?でもそれがどうしたっていうの?」
サクラには読むことができないが、アンには読めるみたいでその内容を教えてくれた。"フローレンス"はサクラが入り込んだ本の中でも感じた通り、どんな時でもナディアという人物のことを大事に思っていたようだ。
しかしそれがわかったところで何になるのか。やっぱりサクラには何が言いたいのかわからなかった。
「あんたがこの本の中で見てきた世界では、ただナディアが幸せなところでもでてきたのかしら」
アンの指摘にはっとする。
アンの言葉通りなら、この本には"フローレンス"が願ったナディアという人の幸せが願われているはずだ。それならサクラは幸せに暮らすナディアに仕える"フローレンス"の日々を垣間見るはずだ。
だけど実際はどうだろうか。
サクラが体験したのは、おそらくナディアを誰かから守りながら逃すところだった。どう考えても、そこにはナディアの幸せなかった。それでは"フローレンス"の願いは叶っていないことになる。
「………」
「何度も言うけど、ここは代償と引き換えに願いを叶える本を売るのよ。願いは世界を紡ぎ、紡がれた世界には物語が宿る。そして物語には流れが生まれるのよ。都合よく一部分だけの改変はできないのよ」
「それじゃあ、“フローレンス"の願いはどうやって叶ったの?願い事が叶うって言うのは嘘なの?」
「いいえ。“フローレンス"はちゃんと望みを叶えましたよ」
サクラがアンに詰め寄ると別のところから声がした。
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