第7話

 ノエが自分の仕事に戻ったのを見届けたあと、アンがサクラの方に向き直る。


「インクを作るのは簡単なのよ」


 アンは机に置かれたペンを指差した。サクラはアンの指を辿ってそのペンを見る。


「そのペンを使ってあんたの感情や記憶を取り出すのよ」

「これを使って、取り出す……!?」


 アンの言葉を復唱しながら目を見開く。


「どうやって?!」


 驚きながら何の変哲もないペンを手に持ってアンを見る。するとアンはサクラからペンを取り上げて、ペン先を自身の額へと当てた。そしてそっと目を閉じると、しばらくそのままの姿勢でじっと立っていた。


 何をしているんだろうかと不思議に思って見ていると、やがてペンの先と接している額の辺りがほんのりと光出した。そのタイミングでアンはゆっくりとペンを額から離した。


「あっ!」


 サクラはその不可思議な光景に口をぽかんと開けた。アンが額からペン先を離すと、それに続く様に青黒い色をしたモヤの様なものが出てきた。


 それは、アンの額から離れるほど実体を持ち、アンが懐から取り出した別の小瓶に辿り着く頃にはサラサラとした液体状になっていた。そしてアンはふよふよと漂うそれを器用に小瓶へと収めた。


 最後の一滴まで零さず丁寧に入れ終わるとアンはサクラにペンを突き出した。まるで今の一回見ただけででにるだろと言わんばかりだった。


「こうやってやるのよ。わかったらさっさとやるのよ」


 態度だけじゃなく言葉でも言われた。サクラは必死に顔を横に振る。サクラにはアンが何をしたのか見ているだけでは全く見当もつかなかった。


 いつまでもアンが差し出すペンを受け取らないサクラをアンは怪訝そうに見ている。


「見てたならわかるはずなのよ。さぁ!やるのよ!」

「横暴すぎるよ!もっとこう、わかるように説明してよ!」


 アンにペンを押しつけられながらサクラは訴える。説明も何もなしにこんな不可思議なことできるわけなかった。


「んなっ!わざわざ実際にやってあげたのに、なんて口の利き方なのよ!ノエ、チェンジを希望するのよ!」


「アン、お客様にチェンジはありませんからね。それと、ちゃんと言葉で説明する様にいつも言ってるじゃないですか」


 どこかにいるであろうノエにアンが叫ぶが、ノエは穏やかな声で相手にしなかった。するとアンはその場で地団駄を踏み出した。


「あー!もう、なのよ!……一回しか言わないからよく聞くのよ!」


 最後に勢いよく床を踏みつけるとアンはサクラに鋭く指を突き出した。サクラはその勢いに思わず首を縦に振った。


「まずこのペンをペン先に自分に向けて額に当てるのよ」


 あんが言うようにサクラは押しつけられたペンを自分の額に当てる。ペン先が鋭いから少しだけちくりとした。


「目を閉じるのよ。そしてあんたの願いを思い浮かべるのよ」


 アンの言葉に従いながら、頭の中に叶えたい願いを思い浮かべる。


 その時、目を閉じているサクラには分からなかったが、ペン先がほのかに光出していた。


「そう、そのまま続けるのよ。そうしたら、その願いに関わる記憶や、その記憶に付随する気持ちを思い浮かべるのよ」


 サクラの願い、それはユキネことだった。ユキネとのケンカを無かったことにしたい。またいつものようにユキネと過ごしたい。頭の中にたくさんのユキネとの思い出を並べる。


 サクラはその願いを強く思う。ユキネとの思い出も同じくらいたくさん思い出す。それに付随する感情も思い浮かべる。


 ユキネとは幼い頃からの付き合いだった。家も近くて、登下校はいつも一緒だった。ユキネはサクラと違って真っ直ぐで綺麗な長い黒髪で、文武両道で大抵のことはできてしまう、自慢の親友だ。そんなユキネを羨ましく思うこともあったが、サクラはそんなユキネと友達であることを誇りに思っていた。


 本当に大好きで、大切な友達。


「さぁ、ゆっくりとペンを離すのよ。そして瓶に詰めるのよ」


 サクラの集中を崩さないためか、囁くようにアンは次の工程を伝える。サクラは薄目を開けて瓶の位置を確認する。その時、自分の額から出てきたであろうモヤのような液体が目に入った。


「わぁ……」


 サクラは思わず目を開いてそれを見つめ、感嘆の声を上げる。アンの時とは違って少し紫色が混じった空色だった。その色は淡く、サクラが受け取った本に似合う色だった。


「集中を崩さないのよ。ほら、早くインクを瓶に詰めるのよ。やり直したいのなら一人でやってほしいのよ」

「ご、ごめん」


 思わず自分のインクになるものを見入っているとアンが苛ついたようにサクラに口を挟んだ。サクラは謝罪の言葉を口に出しながら、あわあわともたつきつつもペン先をインク瓶の淵に当てた。


 空色のモヤはインク瓶に入る頃には滑らかかな液体になっており、すんなり瓶の中に入った。


 全てのインクを残さず瓶に詰める。サクラはちゃぷんと揺れるインク瓶を目の高さまで持ち上げてじっくりと観察する。


 どう言う仕組みなのかは全く検討もつかなかった。それでもこのインクがサクラの記憶や感情から作られた普通のインクではないことは確かだった。


「ふん。やればできるじゃないのよ」


 インクに見入っているとアンがサクラの隣で腕を組んで上から目線で言ってきた。サクラはどうしてこんなにも偉そうにできるのか不思議だった。


 悪い子ではないことは分かっているが、本人の言葉や態度がその良さを隠してしまっているようにも思えた。


 サクラがそんなことを考えながらアンを見ていると本人に気づかれた。


「なんなのよ」


 アンは口を尖らせて不快そうな顔をする。しかし、すぐに元の表情に戻るとサクラに顔を近づけた。サクラは突然のことにびっくりして思わず身を引こうとした。だけどアンに腕を引っ張られてできなかった。


 サクラは手に持っていた瓶の中からインクが溢れてしまわないように注意を払った。


「急に近づいたり、引っ張ったりしたら危ないじゃん!」


 サクラが文句を口にするがアンは聞こえていないようにサクラの言葉を無視して話し出す。


「あんた、何を願うかちゃんと決めてんの?」


 顔をくっつけるようにして小さな声で聞かれたことはサクラの願いについてだった。てっきりアンはサクラの願いなんて興味ないと思っていたが、そんなことはないようだ。


「しっかりと、具体的に何を願うのか決めときなさいよ」


 サクラはアンの顔を見る。先ほどまでのぷりぷりと怒った顔ではなく、すっと真っ直ぐサクラの心の内を読むような表情だった。アンの目は猫のように光の加減で細くなるのだということに、今更ながら気がついた。


 アンの真剣な顔にサクラは気圧される。


「それって、こうなりたいなっていうものだったり、ある事を無かったことにしたいとかでもいいんでしょ?」


 サクラがアンに引きずられるように小さな声で聞き返すと、アンは僅かに眉を顰めた。どうやらそれだけでは駄目なようだ。


「私、友達とのことをお願いしようと思ってるんだけど……それじゃ、駄目なのかな?」


 自信なさそうに付け足す。


「その友達とは具体的にどうなりたいのよ」

「え?」


 アンの聞きたいことがよくわからず聞き返す。アンは仕方がなさそうに小さくため息を吐く。


「結局、あんたも何も分かってないのよ」


 そう言うとアンはサクラから身を離した。


「ここで願いを叶えることは、そんなに簡単なことじゃないのよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る