第6話

 片付けられたテーブルの上に、手渡された一冊の本を置く。サクラはその本の前に座ってノエが準備しているのを見ていた。ノエはどこからか、空のインク瓶と一本の普通の見た目をしたペンを持ってきてテーブルの上に置いた。


「このペンとインクの使い方はアンが教えてくれます。アンの指示に従って進めれば何も怖いことはありませんからね」


 ノエはサクラの後ろから直接耳に囁くように言う。サクラはギョッと目を見開く。


「アンって、あの猫のことですか?どうやって猫に教えて貰えばいいんですか?私、猫の言葉なんて知りません」

「大丈夫です。心配しないでください。……さぁ、アン。こっちにきてください」


 ノエが声をかけるがアンは聞いていないのか尻尾をゆったり上下に動かすだけだった。しばらくその時間が続いた。

 

やがてアンは逃げられないことを悟ったのか、目だけをノエとサクラの方に向けた。そして仕方がなさそうにその場で伸びをする。そのあと、ぱっと軽やかにジャンプした。


 アンは自分が乗っていた本の山を崩すことなく宙へと飛んだ。そして空中で一回転する。


「あっ!」


 サクラは驚いて声を上げた。アンが空中で一回転する間に、アンの体は猫の体から小さな子供の姿へと変わったのだ。短く大雑把に切り揃えられた黒髪に、猫のような金色をした瞳がよく映えている。水色のオーバーオールに黒いシャツが子供らしさを助長している。アンの髪の間からは猫の名残なのか、明らかに人間の耳とは違った猫の耳が、その存在を主張するようにぴこぴこ動いている。


「え……人に、なった……?」


 サクラは目の前で起きたことが信じられず、口を開けてアンを凝視する。そんなサクラを見てアンはキッとサクラのことを睨みつけた。


「そんなにジロジロ見ないのよ!見せ物じゃないのよ!」

「喋った!」

「喋ったくらいで何なのよ!この格好で『にゃあ』って鳴く方がおかしいのよ!ちょっとはその残念な頭を働かせたらどうなのよ!」


 サクラに人差し指を突きつけながらアンは怒ったように声を荒げる。


「アン、落ち着いて。サクラさんはお客さまだよ」


 ノエがアンの頭を嗜めるように撫でるが、アンはその手を振り払ってノエのそばから離れる。


「こいつは客なんかじゃないのよ!こいつがここに来たのだって、勝手に私の後をつけてきたからなのよ!そんなやつは客とは呼ばないのよ!」


 踏ん反り返ってアンはまたサクラに指を突きつけながらノエの言葉に反抗する。ノエは苦笑するだけで、それ以上アンを叱ることはなかった。


 サクラは先ほどまでの可愛いマスコットのような存在だと思っていたアンの口から、キツイ言葉がたくさん出てきたことに軽くショックを受けていた。


「サクラさん、アンは少し照れ屋さんなんです。だからあまり気にしないでくださいね」


 固まってしまったサクラにノエが声をかける。


「そんなんじゃないのよ!私はこいつも含めて人間が嫌いなだけなのよ!」


 むっと口を尖らせながらアンは言う。ノエは小さくため息を吐くとアンの前でしゃがみ込み、小さなアンの手を握る。


「君がヒトを嫌う理由は十分に理解しています。だけど、僕との約束を忘れないでくださいね」


 ノエの真剣な瞳にアンは言葉を詰まらせる。そしてその場で気まずそうに視線を彷徨わせた。少しの逡巡の後、小さく頷いた。


 それを確認したノエは優しくアンに笑いかけ、そっと頭を撫でる。


 アンはその手を気持ちよさそうに受け入れると、ノエのそばを離れサクラの方にとたとたと足音を立てながら近づいてきた。


「私はあんたみたいな人間は大嫌いなのよ。それでも、あんたが望みを叶える手伝いくらいはしてあげてもいいのよ」


 そっぽを向いているし、口調は変わらずきついものがあるけれど、サクラにはアンが本当は優しい子であるように感じた。


 ノエの言うように、アンが照れ屋なのかどうかはこの短い時間ではわからない。アンの言うように、別にアンはサクラのことを助けるためにここまで連れてきた訳じゃないかもしれない。


 でも、アンがここに辿り着くまでに見せた、小さな気遣いや優しさは、サクラにはちゃんと届いていた。


 猫が人間になるとか、元猫が言葉を話すとか、その言葉がちょっと辛辣であったりとか、余計な情報が邪魔をしているが、きっとアンは悪い子ではないのだろうと、サクラは結論づける。


「よろしく、アン」


 だからサクラも自然とアンに頭を下げることができた。短い付き合いだろうけれど、この小さな猫と仲良くなれたらいいなと、サクラは思った。


 サクラが笑顔を見せるとアンは首元をほんのり赤くした。サクラがそのことに気がつき、あっと思ったその時、パンと乾いた音がした。


 サクラは反射的に音が鳴った方を、ノエの方を向いた。


「二人の顔合わせが終わったところで、願い事をする準備をしましょうか」

「準備って何をするんですか?」


 ノエがサクラの前に座る。アンはサクラの横に来て、空のインク瓶の蓋を取る。


「願い事は本に紡ぐのよ。そして本に紡ぐためには特別なインクを使用するのよ」


 アンはサクラの目の前で蓋の取れた空のインク瓶を横に振る。


「特別なインクって?どうやって準備するの?」

「あんた、ここがどういった店かノエに聞いたんでしょ」

「何でも一つだけ願いが叶う本を売ってくれるお店?」

「その代価はなんなのよ」


 アンの質問にサクラは少し考える。ノエが先ほど話してくれたことを思い出す。


「……私の願いに込められた想いや記憶の一部?」


 サクラが自信なさげに答えると、アンはふんと鼻を鳴らす。どうやら正解だったようだ。


「あんた達の感情や記憶をまずはインクにするのよ。あんた達の想いをもとに作られたインクは普通のインクとは違って、世界を紡ぎ直す力を持つのよ」


 アンは手に持っていた空のインク瓶を机に戻すと、ノエの前に置かれていた深緑色の本、"フローレンス"の本を持ち上げる。


「この本には"フローレンス"の後悔と敬愛、そして憎悪の気持ちが込められているのよ。それらの感情を込めたインクで“フローレンス"は彼女の望んだ未来を紡いだのよ」

「後悔と敬愛……それに憎悪……」


 確かにあの本の中にはナディアと呼ばれる人に対する敬愛の念と、それ以外にも自分では抑えきれないほどの憎しみの念が篭っていた気がした。


「想いの強さは関係ないのよ。あんた達はただ、自分の願いのことだけを考えていればいいのよ。…この本は、ノエも言ったけれど妖に売られるのよ。その妖達は人間の細かい感情の機微なんてわかりっこないのよ」


 アンは本を再び机に置く。


「あの、妖は何で私たちの気持ちや記憶を欲しがるの?どうせなら、私たちと同じように願いが叶った方がいい気がするんだけど」


 教室の授業のようにそっと手を上げながら質問をする。ノエは優しく笑っているだけで答える様子はない。サクラは隣に立つアンに視線を向ける。座っているサクラと同じくらいの背丈のため、ちょうどアンと視線がぶつかる。アンはサクラと目が合うとその目から逃げるように目を少しだけ伏せた。


「妖には夢や願いはないのよ。そんなものよりも妖は人間に興味があるのよ。多くの妖には人間のような繊細な感情はないから……人間の持つ感情を妖達が理解するには難しいのよ。でもだからこそ妖達はそれが本能的に素晴らしいものであることを理解しているのよ。だから妖は、人間のことを知りたいと考えるのよ」


 もとより人間であるサクラには少し理解し難い話だった。人間のことを知りたいのなら、そう願えば事足りるのではないか。わざわざ本という形にして、それを買ってまで人間の感情を理解しようとするなんて非効率のようにも思う。


「妖が人間のことを理解できないように、人間もまた妖のことを理解することはできないんですよ」


 ノエがようやく口を開く。まるで小さい子供を諭すような言い方だった。サクラはアンからノエへと視線を移す。


「妖は決して人間になりたいわけではないんです。ただ、知りたいだけなんです。人間に比べて長く生きる彼らは、短い一生の中でいろんな出会いを繰り返し、いろんな感情を育む人間の一部分だけでもいいから知りたいんです」


「あんた達が他の人間のことを知りたいときに、その人間になってまで理解しようと思わないのと一緒なのよ」


 サクラが二人の話を理解しきることができないのは、サクラのせいではなくサクラが人間だから理解できないのだ。そうノエとアンは言う。


 たしかに、サクラはユキネの気持ちが分からなくて困っているが、決してユキネになってまでその気持ちを確かめたいとは思わなかった。だからといって、妖達のように何かを通してその感情を理解したいとも思わなかった。それらの気持ちが理解できないのは、サクラが人間だからなのだろう。


 サクラは二人の言葉を自分なりに解釈して納得する。


「さぁ、無駄話はここまでにするのよ!」


 アンがぱんぱんと切り替えるように手を叩く。


「今からあんたにインクの作り方を教えてあげるのよ。その間にノエも自分の仕事をするのよ」


 手で追い払うような仕草をされたノエは、苦笑いを浮かべながら部屋の奥へと姿を消した。アンは両手を腰に当ててまた踏ん反り返っていた。

 

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