第5話

 何度か瞬きをすると、目の前景色が鬱蒼とした森の中から、あの本だらけの空間へと戻っていた。


 サクラは自分が何を体験したのか理解が追いつかず、呆然と目の前でサクラの方に身を乗り出していたノエを見つめる。サクラが確かに開いたはずの深緑の本はノエの手によって膝の上で閉じられていた。


「え?……え?」


 サクラが戸惑い、混乱しているとノエが口を開く。


「すみません。説明するよりも実際に体験してもらった方がわかりやすいかと思ったんですけど、どうやらサクラさんは感応力が高かったようで……」


 ノエは再び椅子に腰をかけながら、眉間にへにょりとした皺を寄せ謝罪の言葉を述べる。


「怖い思いをさせてしまい、すみません」


 ノエは重ねて謝るが、サクラは未だに何が起きたのかを理解できず、ノエが何を謝っているのかもわからなかった。


「あの、今のは……」


 サクラは手元にある閉じられた本を見る。今の景色は何だったのだろうか。


 サクラは確かに"フローレンス"になっていた。"フローレンス"としてあの場に立っていた。


「サクラさんが今、体験していただいたものこそが、この店の売り物となります。この本に書かれた物語、つまりこの"フローレンス"という女性の記憶、感情、体験、それら全てを提供するのが僕の仕事になります」


 ノエはサクラから深緑の本を回収して言う。


「物語……今の、夢見たいな世界を売るってことですか?」

「正確に言うと、あれは夢でもただの物語でもありません。今しがた、サクラさんが見て、体験した世界は、実際に彼女、"フローレンス"の身に起こった現実です」


 ノエの言葉にサクラはついていけず、頭が混乱した。あの夢のような体験が、現実であるのならば、サクラは本の中に入ったことになるのか。それに何故サクラは"フローレンス"になったのか。そもそも"フローレンス"とは一体誰なのか。物語を売るというのは、どういうことなのか。


「サクラさんはきっと今、いろんなことを疑問に思われていると思います。できることなら僕も全ての疑問にお答えしたいのですが、残念ながら企業秘密の部分もあるので、この本の詳しい仕組みをお伝えする事は難しいんです」


 サクラの頭の中を覗いたのか、申し訳なさそうに目尻を下げる。ノエはすっかり冷めてしまったティーカップを口に運んだ。それを見たサクラはふと自分の口の中が乾ききっていることに気がついた。そしてノエの真似をするように自然とソーサーごとカップを持ち上げて口に含んだ。


 あっさりとしたオレンジの香りがする紅茶であった。サクラは普段日本茶しか飲んだことがなかったが、その紅茶が美味しいものである事はわかった。

 柑橘系の匂いに緊張していた体の筋肉が解れたような気がした。


「美味しい、です……」


 冷めてしまっていることがもったいないなと思った。ノエは紅茶を褒めもらえたことが嬉しかったのか、サクラが多少落ち着いて安心したのかにこりと微笑んだ。

 紅茶を飲み、一息ついたことで桜の気持ちは先ほどより幾分か落ち着いた。


「先程、サクラさんが体験したものは"フローレンス"の記憶そのものになります。もう少し言うと、その記憶は彼女の望んだ物語になります」


 ホッと一息をついているサクラを見ながらノエは再び口を開く。


「その、"フローレンス"って人は実際に生きている人なんですか?それに、あの世界、どう見ても私の知ってる世界じゃないと思うんですけど……」

「"フローレンス"と言う人物は実在する人です。でも、サクラさんが生きている時代よりももっとずっと前の人になります。これは難しいかもしれませんが、サクラさんの世界の過去に存在した人かどうかわかりません」


 ノエの言っていることが難しくて理解できなかった。サクラの世界という事はそれ以外の世界が存在するという事なのだろうか。しかし、サクラは今自分が生きている世界しか知らないため、別の世界がありますと言われても想像ができなかった。


「パラレルワールドという言葉を、サクラさんはご存知ですか?」


 その言葉ならサクラにも辛うじて分かった。よく漫画や小説、ゲームとかで出てくる言葉だった。


「その言葉なら知ってます。たしか、並行世界ってやつですよね?」


 その言葉の意味は曖昧だったがサクラは頷く。ノエは正解というように僅かに頷いた。


「わかりやすい例えになると良いんですけど……例えば、この世界は一本の大きな木でできていると考えてください。大元の根幹は変わりませんが、枝を伸ばし葉に至るまでにその木は幾重もの枝を伸ばします。その葉ひとつひとつに世界があり、その枝一本一本に歴史があると考えた時、サクラさんが今生きる世界と"フローレンス"が生きる世界を純粋に線で結ぶことはできると思いますか?」


 サクラはノエの言葉を頭の中で想像しながら考える。例えば、サクラがその木に対して右側に生える葉っぱだとして、"フローレンス"の生きた世界がサクラの世界に至るまでの枝にあるとすれば答えは「はい」になる。

 しかし、その世界が全く関係ない枝や葉にあたるのであれば答えは「いいえ」になる。そして、おそらく「はい」という答えになる確率は限りなく低いと考えられる。


 そう考えればたしかに、"フローレンス"の世界がサクラの生きる世界の過去に存在するかどうかはわからないと言えるだろう。


 サクラは頭の中で自分なりに整理し終え、ノエの方を見た。


「分かってもらえたようでよかったです」

「それで、物語を売るってどういう事なんですか?」

「それは、先程サクラさんが体験した"フローレンス"のような物語を、妖に売るのです」


 サクラはここに辿り着くまでに見た化け物達を思い出す。同時にあの時感じた恐怖も思い出してしまい少しだけ体が震えた。


「逆に、サクラさん達のようなヒトにはこの物語をそのものを売っています」

「?」

「ヒトではないもの、つまり妖達にはこの物語に込められた想いや記憶を売るのです。妖はとても好奇心旺盛で、人間の心の仕組みを知りたいものが沢山いるのです。そしてサクラさん達のようなヒトにはこの物語を、サクラさん達が望んで描いた世界を売るのです」


 ノエの言葉にサクラは眉を顰める。ノエの言葉はいちいち難しくてサクラは理解するのに苦労した。


「簡単に言うとこの本はサクラさんや"フローレンス"が願った世界を現実にする本になります。つまり何でも一つだけ願いが叶う本になります」

「願いが、叶う本……!」

「どんな願い事であっても必ず叶います。その代わり、お代としてその願いに込められた気持ちや、それまでの記憶に一部あるいはそれに見合った代償をいただきます」

「代償を払えば、どんな……願い事でも……」


 それは子供のサクラには途方もないような言葉に思えた。そしてそのときサクラはユキネの顔を思い出した。


 何でも願いが叶うのなら、ユキネとの喧嘩も無かったことにできるのだろうか。


 何でも願いが叶う本をそんなちっぽけなことに使ってもいいのかはわからなかったが、今のサクラが叶えたい願いはそれしか思いつかなかった。それだけサクラはユキネとの喧嘩が堪えていたのだ。


「それは……その本は、私にも売ってもらえるんですか?」


 上目遣いで期待するようにノエを見る。ノエは今までの笑みとは一変して、怪しく笑った。


「もちろん。お代さえいただければ、もちろんサクラさんにもこの本を売ることはできますよ」

「………」


 サクラはごくりと唾を飲み込んだ。サクラとユキネの個人的なことを、こんな本当かどうかもわからない怪しいものを使って解決することは間違っているようにも思えた。


(だけど……)


 それでもサクラはこの喧嘩の発端が何であったのか本当に心当たりがなく、仲直りする糸口もわからなかった。何気ないサクラの一言だったかもしれない。日々の不満の積み重なりだったのかもしれない。何にしてもサクラからしたらユキネの態度が豹変したようにしか見えなかったのだ。


 そんなユキネとサクラはどうやって仲直りをすれば良いのか、八方塞がりな気持ちだった。わからないのならば、この夢のような本に頼ってみても良いのではないか。


 サクラはしばらく黙って悩んでいたが、やがて小さく頭を引いた。ノエはそれを待っていたかのように立ち上がった。


 急に立ち上がったノエに驚いていると、ノエは指をパチンと鳴らした。するとどこからともなく一冊の本がたくさんの本の隙間を縫ってやってきて、ノエの手の中に収まった。その本は淡い水色をしており空のような表紙をしていた。


「それでは、サクラさんにはこの本をお渡しします」


 すいっとサクラの前に本が差し出される。サクラは少しだけ怯みながらもその綺麗な本を手の中に受け取る。本を手にしたサクラはくるくるとその本を回して見る。やっぱりどこも変なところがない、一見普通の本だ。


「あぁ、その本はまだ正真正銘ただの本です。今は、ですが」


 くすくとサクラの行動を可笑しそうに見て笑ったノエに少しだけムッとする。バカにしているのかわからないが、ノエの態度は何も知らずにノエの手のひらの上で踊るサクラを見て楽しんでいるように思えたのだ。


「さぁ、アン。仕事ですよ」


 ノエはいつのまにか随分高いところに登っていたアンに向かって声をかける。アンはちらりと下を見たが、動く様子はなかった。ゆったりと尻尾を上下させて目を閉じている。


 ノエはそんなアンの様子に苦笑を漏らす。そしてサクラの方に改めて向き直り、仰々しく手を広げ、一礼する。



「それでは、改めて……願い屋彩紙耶堂へ、おいでませ」

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