第4話

「紙に彩られた世界……?」


 理解が追いつかず、ノエの言葉を繰り返す。ノエをそれを見て近くから一冊の本を手に取った。


「分かりやすく、簡単に言うと、この本を売るということです」


 ノエは手に持った本を左右に振った。その本は深緑色に金箔の装丁がされていた。タイトルは日本語ではないのか、サクラには読むことができなかった。


「本を売る……つまり本屋さんってことですか?」

「サクラさんの分かりやすい表現をするなら、多分それで間違っていません。ですが、この店で取り扱っているのはサクラさんが想像している様な本ではありません」


 ノエはそう言いながら手に持っていた本をサクラの前に置いた。それはどこからどう見てもサクラの知っている本そのものに見えた。ただ、その文字をサクラが読めないだけで、何も変なところはない様に感じた。


 サクラは本から顔を上げてノエの顔を見る。ノエは変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべているだけだった。サクラは優しそうに見えていたその表情が、段々と胡散臭く思えてきた。


 サクラは心の中で小さくため息を吐いた。サクラはここに来るまでに通った、あの普通じゃない場所から元の世界に戻りたかっただけなのに。これでは化け物がヒトに、あの通りが訳の分からない本屋に変わっただけじゃないか。


 サクラはそう思うと、どっと疲れが込み上げてくるようだった。それを自覚すると、疲労感がサクラの心にどっと重い石のようにぶら下がり、だんだんとサクラは投げやりな気分になっていった。


 ノエはサクラに本を渡してからもただ笑っているだけだ。サクラはもう一度本とノエを見比べ、どうにでもなれという気持ちでその本を手に取った。


 本を手に持った感じは、少し高級感のあるだけの普通の本と同じであった。ノエの言うような、サクラの想像を飛び越えることのない、ただの本だ。


 サクラはこれがどうしたのかと言うように、ノエの真似をして顔の横で本を振る。本を振ることで何か音でも出れば、少しはサクラも驚くことができただろうに。


 それでもノエは顔色一つ変えなかった。ただ、微笑みながらサクラをじっと見ているだけだった。まるでその先を促しているように。サクラは怪訝そうに本とノエを交互に見る。


 きっとノエはサクラにこの本を読んで欲しいのだろう。しかし英語ならまだしも、この本はサクラの知らない言語で書かれている。どこの言葉かもわからない本を開いたところで、読めるわけないじゃないかと心の中で文句を言う。こんな訳のわからない本を読んで何の意味があるのだろうか。


 サクラは本を膝の上に置くと表紙を見つめる。何度見ても魔法のようにサクラの知っている言葉に変わったりはしない。


 ノエの方を見ても、ノエは説明をする気がないようなので、サクラはしぶしぶとその本を開いてみることにした。

 サクラはノエに見守れながらそっと本の表紙を開く。



 瞬間、世界が暗転する。



 サクラがそれを認知する前に、世界は再び光を取り戻す。まぶしさに思わず目を細める。


「な、何が起こったの……?」


 目が周りの明るさに慣れてくると、周囲の景色が見えてきた。

 辺りは先ほどまでいた、本だらけの部屋ではなく木々が生い茂る森の中だった。


「!?」


 一瞬で場所が移動したことにサクラは驚きが隠せなかった。サクラが驚きで声を失っていると、後ろからガサガサと草木をかき分ける音とガチャガチャと金属が擦れる音がした。そしてその音はサクラが振り返って確認するよりも前にサクラの元に辿り着いた。


「こんなところで何ぼさっと立ってるんだよ!」


 それは思いっきりサクラの背中を叩いてきた。サクラは突然のことに、驚きながら押された勢いで前に倒れる。


「な、何なのよ……いきなり……!」


 突然突き飛ばされたことに文句を言おうと振り返る。しかしその勢いは目の前に現れた人物の格好を見て失速する。


 サクラの目の前に現れたのは、ゲームの中でしか見ないような鉄製の甲冑に身を包み、腰からは剣のようなものを提げている人だった。その人はサクラと同じくらいの背丈で、髪は短く切り揃えられていたが、目つきや顔つきから女性だと分かった。


「こんなところで何してるんだよ!君の持ち場はここじゃないだろ、フローレンス!」


 "フローレンス"。


 名前を呼ばれてサクラの頭に多くの情報が一気に流れてきた。


 それは赤ん坊の記憶から始まり、今に至るまでの"フローレンス"の記憶だった。そしてその記憶の中心には一人の女性がいた。陽だまりの中、優しく微笑むその人は……。


「ナディア様……そうよ!ナディア様は!今どこにいる!?」


 サクラは我を忘れて目の前の女性に掴みかかる。いつの間に身につけていた鉄製の鎧が擦れて甲高い音が森に広がる。


「何言ってるんだよ!ナディア様を逃すために、みんな必死になって動いてるんだろうが!」


 目の前の女性に逆に胸ぐらを掴まれて、ぐっと息を詰める。


 そうだ。サクラは……"フローレンス"は敬愛するナディアを敵の手から守るために行動している途中だった。どうしてこんな大切なことを忘れてしまっていたのか。


 "フローレンス"は軽く頭を振って落ち着くために深呼吸する。"フローレンス"は掴んでいた手を離す。目の前の女性も同様に"フローレンス"から手を離す。


「すまない…少し、気が動転していたようだ」


 "フローレンス"は疲れたように笑う。すると目の前に立っていた女性も、気を緩めたように笑う。仲の良い友人にするように肩を軽く小突く。


「しかたがないさ。こんなことになるなんて、誰も予想していなかったんだからな」


 目の前の女性も目の下にクマを作っていた。みんなこの状況に着いていくだけで精一杯なのに、状況を整理する時間を相手は与えてはくれないのだ。攻め入る手を緩めることはなかった。今も少しずつ、"フローレンス"が命に変えても守るべき存在のナディアにその手を伸ばしている。


「心配かけてすまなかった。さぁ、行こう。ナディア様が待っている」


 我を取り戻した"フローレンス"が先導するように前に立つ。そして我が主人のもとに行こうと足を踏み出した時、その腕をぐいっと後ろに引っ張られた。

 "フローレンス"は何事だと腕を引っ張ったであろう女性に声をかけようとした。しかしその声は別の声によって遮られた。


「サクラさん」


 柔らかい、優しい男の人の声だった。


 その声にサクラの意識は海の底から引き上げられた。"フローレンス"の意識はサクラの意識が浮上するのとは対照的に下へと沈んでいった。

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