第4話 逃げ出した後で



「ひぃぃっ!」


 ガリガリガリ、ガッ!

 嫌な音に続けて衝撃が手に伝わってきた。


「うあぁ、ああぁ!」


 悲鳴にすらならない声を上げながら、ルフスは必死で木の盾で敵の爪を押し返す。

 武器は持っていない。背中の荷物袋の中にはあるが、ルフスには扱えないだろうと盾しか渡されなかった。


 ――身を守ることだけ考えていろ。

 ――とにかく、荷物を失くさないこと。


 アイヴァンとジエゴはそう言った。

 モンスターを倒そうなんて考えるなと。


 ルフスに渡されたのは木の盾。盾と呼ぶのも怪しい、板切れに取っ手をつけたような粗末なもの。

 見くびられている。

 農家の小僧に何もできないと。


 ルフスだってそれなりに体力はある。

 朝から晩までくわを振るったり、畑の隅までたらい一杯の水を運んだりして生活してきたのだ。

 畑を荒らす猪や猿を仕留めたこともあるし、ヤギを狙う狼を追い払うために戦ったことだってあった。


 本職の戦士ではなくても少しは戦える。

 こういう心持でダンジョンに挑み、呆気なく死んでしまう人間が多いのだろう。

 ガリガリと木の板を削る爪の音で思い知った。



 取っ手を握るルフスの手に感触と共に感情が伝わってくる。

 殺す、殺す。

 殺意に満ちたモンスターの攻撃は、畑を荒らす害獣を相手にするのとはまるで違った。


「ひぁっ!?」

「ギィィィッ!」


 盾の縁に爪がかかり、今度は引っ張られる。

 ルフスを守る木板を引っぺがして殺そうと、ゴブリンが覗き込んできた。


 青白い禿頭にぎょろりと大きな瞳。白目はほとんどなく泥のように濁った色の。

 ルフスが落とした松明の光を、ゴブリンの濡れた青い肌が反射する。体が濡れているのは地下水なのか体液なのか。


「ゲハァァ」


 見ぃつけた。

 ルフスと目が合って、喜色を表すように口を開く。

 生臭い息。肉と魚を腐らせぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような。


「ギッヒィ!」

「うぁっ」


 盾を引っぺがそうとするのと反対の手が突っ込まれた。

 ルフスの首元に。

 掠めた爪がわずかに肉をえぐり、痛みが脳天に突き抜ける。


「いやだぁぁぁぁ!」

「ルフス!」


 誰の声だったのかはわからない。

 涙が溢れそうになった目をぎゅうっと閉じて、とにかくゴブリンを押し返す。


「ベフェッ」


 ルフスの盾を引っぺがそうとしていたゴブリン。

 その腹に向けて全力で押し返して、倒れたゴブリンを踏みつけてそのまま走った。


「止まれルフス!」

「待てっておい!」

「グヘァァ!」


 アイヴァン達の声よりも、すぐ後ろに聞こえたのはゴブリンの唸り声。

 待っていたら殺される。

 何も考えずにそのまま走った。

 ルフスを食い殺そうとする敵が、とにかく怖かった。



  ◆   ◇   ◆



「……こっちだ、ジエゴ。モーリッツ」


 アイヴァンが後ろに向けて呼びかける。

 洞窟内に反響する呼び声。

 しばらくしてから、低く響き返すモーリッツらしい声があった。


「無事なようだな、ルフス」

「……あぁ」

「隠し部屋か」


 無我夢中で逃げて、逃げて。

 壁に這う植物――蔦なのか根っこなのか、それに覆い隠された隙間に逃げ込んだ。

 転がり込んで、息を潜めて。

 どれくらい過ぎたのかよくわからない。とにかくゴブリンは追ってきていない。


「荷物は失くしていないな。上出来だ」

「……」


 ルフスが背負っていた探索の為の荷物。

 捨てていれば身軽になっていただろうが、そんなことを考える余裕もなかった。

 だけど、死ぬ思いをしたルフスのことよりも荷物の方が心配なのか。

 多少、善い人だと感じていたアイヴァンの言葉に、遅れて腹が熱くなってくる。



「荷物なんか……」

「……」

「ついさっき俺は死にそうになったんだよ。こんな荷物――」

「黙れ」


 短い言葉と共に胸倉を掴まれ、立ち上がらされた。

 ルフスには抗いようがない剛力。


「俺たちは探索者だ。探索をして生活している。探索の為の荷物は俺たちの命綱だ」

「そんなの……」

「探索で成果がなければ自分も家族も飢える。草の根を噛んで夜を過ごし、冬を越える為に木の皮でも食う生活をしたことは?」

「……」

「お前が背負っている荷物は」


 アイヴァンが手を離し、ルフスはまた尻から地面に落ちる。

 背中の荷物の重さが増したような気がして、踏ん張れなかった。


「身軽な方が探索に有利だと考えて荷物持ちを雇っている。指示を聞かず逃げ出すような奴に荷物を預けていたらむしろ危険だ」

「だって……」

「決して俺たちから離れるなと何度も言ったはずだ。できなければお前は俺たちを危険にするだけだ。そうなら俺が殺す」

「っ……」



 役に立たないのなら雇う必要はない。

 荷物ごとどこかに逃げ出されるくらいなら、自分たちで持つ方がマシ。

 どうせ借金奴隷のようなもの。ここで殺して捨てていくことも辞さない。


「ころ……」

「……脅しではない。だが寝覚めのいい話でもない」


 恐る恐る見上げたルフスに対して、深く息を吐いた。

 ぼんやりとした灯りに、アイヴァンの疲れたような表情が浮かぶ。

 そういえばこの周辺は松明なしでもわずかに明るい。周辺の天井や壁が薄っすらと光っていた。



「もう一度言う、指示を聞け。近くにいれば助けてやれる。だから何があっても離れるな。指示を聞け」

「……うん」

「俺に、お前を殺させるな。ルフス」


 アイヴァンはあまり口数が多いタイプではない。

 ここまでの道中も、心構えや注意点などの説明はモーリッツとジエゴが主にしていた。

 軽い口調の彼らの言葉を真剣に聞いていたかと言われれば、そうとは言い切れない。


 寝覚めが悪い。

 殺させるな。

 ひどくぶっきらぼうな言い方だが、紛れもなく彼の本心なのだろう。



「……ごめん。わかったよ、アイヴァン」

「そうそう、やっぱ死ぬくらいの思いしねえと身に染みてわかんねえよなぁ」

「ま、結果良しってとこで」


 アイヴァンに謝罪したところで、ちょうどモーリッツ達が合流してきた。

 ジエゴの片手にルフスが落とした松明がある。それをモーリッツに押し付けてルフスの前にかがんで、首に手を当てた。


「サポートが遅れたこっちも悪かったし。ほら、これ持って」

「ん?」

「――聖字をなぞる熱は命の力となり。聖句は蜜と流れ傷痛を忘るる」


 驚いた。

 普段はオネエっぽい喋り方のジエゴが、真剣な顔で目を閉じて聖典の一節を紡ぐ。


「癒しの……奇跡?」

「祈れ」


 ルフスの手に握らされていたのは、女神の横顔が描かれた半月の護符。

 慌ててそれを握り直して目を閉じた。


「リースス・レーニス、女神のご加護を」


 護符を握って主たる女神の名前を口にすると、首に残っていた傷口がじわりと熱くなり、次第に痛みが消えていった。

 癒しの奇跡。

 使える人は非常に珍しいと言われているはず。



「……す、っげぇ。初めて見た」

「ま、治癒するほどの怪我じゃなかったけど」

「治癒したんなら清浄はいらねえ……って、ひでえ有り様だな。これ使え」


 立ち上がり半月の護符をジエゴに返すルフスに、続けてモーリツから木の札を渡された。

 一般で使われているものとは明らかに違う、何かの文字が書かれた木札。


「戦神にして天上の掃除夫、ポラスカサーロのありがたい祝福だ」

「ポラスカサーロ……」

「それひとつ神殿で買うだけで、お前が借りた金額くらいになっちまうんだけどな」

「……」


 農家出身のルフスにはあまり縁のない神様。戦神ポラスカサーロ。

 恐る恐る両手で握り込み、心の中で祈りを捧げてみると――


「……なんか、剥けた? けど」

「それでいいんだよ」


 ぺりっとした感触と共に木札の表面がめくれた。

 その分だけ少し小さくなった木札が手に残り、同時にルフスにへばりついていた泥などの臭いが消える。


「あ……あれ?」


 逃げ回り転がり込んだ時にまとわりついた泥や、ゴブリンのものかもしれない糞尿。

 そんなものが、木札の表面が剥がれるのと一緒に消え失せた。



「清浄の祝福ってな。ダンジョン探索中に病気になられても困る」

「そうか……ごめん、ありがとう」

「なくなるまで使えるから持っとけ。予備もある」


 モーリッツが視線でルフスの荷物を指す。

 長期間にわたるダンジョン探索に必須の道具で、複数準備しているもの。

 これ以外にもきっと高価で貴重な道具をルフスに預けているのだ。それを背負ったまま逃げ出してしまった。


 アイヴァンが怒ったのも当然だ。

 お遊びでやっているわけではないダンジョン探索で、必要な人員としてルフスを雇った。

 役割を知っていたはずなのに指示を聞かず放棄した。



「正直に言っちゃうと、さっきはモンスターに慣れさせる為に少し見ていたってわけ。あんさんが気にしすぎることもないってことね」

「えぇ……そうなの?」


 治癒の奇跡に清浄の祝福。

 妙に優しいと思ったら、モーリッツ達の方にも負い目があったというわけだ。

 ルフスがゴブリンに襲われるのを助けずに見ていた、と。

 それを聞いてつい表情が険しくなってしまうのは仕方がない。


「ひどいじゃないか」

「わりぃわりい、まあ結果良しってことにしてくれ」


 先ほどジエゴが言ったようなことを言って肩をすくめるモーリッツ。

 確かに、ルフスの肝を据えるには必要なことだったかもしれないけれど。



「それにしたってよ、ルフス」

「なに?」

「ゴブリンも俺らも置き去りにして逃げ切っちまうなんて大した逃げ足だ。そっちの方が想定外だったんだって」

「ヒカリゴケを頼りにしたってこの足場で荷物も背負ったまま、ねぇ」


 ぽんと肩を叩かれた。

 ジエゴから感心の溜め息が続き、アイヴァンが無言で二度頷く。


「そんだけの足腰あるならいい荷物持ちだ。頼りになりそうで嬉しいぜ」

「……まあ、これくらいは」


 悪い足場なんて慣れっこだった。

 日が昇る前からぬかるんだ足場での毎日の農作業。夜遅くまで続くことも珍しくない。

 農家に生まれた経験がこんな形で役に立つとは思わなかったが、ベテランの探索者から褒められてちょっと嬉しくなってしまう自分も単純だなと苦笑せざるを得なかった。



  ◆   ◇   ◆

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