第5話

 昼下がり、転職サイトにプロフィールを書き終えてパソコンを閉じると、夕食の準備のためスーパーに行くことにした。

 自転車が壊れているので、歩いてスーパーへ行きカレーの食材をそろえる。

 洗濯物も干したし、とりあえず自分が日常の家事でできることはすべてしたつもりだった。


 買い物をして家に帰ると、美沙の靴がなくどこかへ出かけたようだ。小海の靴の位置は、出かけた時と変わっていなかった。


 夕食を準備しているとチャイムが鳴った。

 小海が部屋から飛び出してきて、玄関に友達を迎えに行く。リビングを通って小海の部屋に入ったのは、小海の彼氏だ。

 黒の革ジャンを着ていて、メリケンサックのような指輪を装着している。

 ズボンの尻の部分が破れたダメージジーンズを履いて、白と青のストライプがはいったトランクスが破れた箇所からチラチラ見えていた。卓はその穴に、手にしている熱いおたまを当ててみたい衝動に駆られた。


「あ、ちーす」と娘の彼氏は振り返り、卓に笑顔を向ける。「もしかして前の試合のディフェンダーさんですか?」


「そうだよ」と卓は答えると、彼氏はバターが溶けたような顔になった。


「あれ、マジでウケるっす! 前半、犬みたいにボールに追って、何もしないし!」


「ああ……」卓の脳裏にプロとして最後に将棋を指した、対局相手の童顔がよぎった。


「ええっ、あの試合見たの?」小海は恥ずかしそうにツインテールの先端で口を隠す。


「見た見た。だって俺のチームだし」


「じゃあ、なんで来なかったのよ! 愛華も来てたんだよ」


「ちょっとバンドが逃げれなくって、って……まなちゃんもきたの?」


「……そうだよ。今日も来るって」


「……へぇ」彼氏は嬉しそうに軽くジャンプすると、卓の存在を忘れて小海の部屋に入っていった。


 なんであんな軽いチャラチャラした奴を彼氏にしたんだ、と卓は心の中で嘆く。

 まさに自分と正反対の性格だと卓は思った。

 小海は地味で暗いと将棋を罵ることがあり、その反動なのか派手な恰好を好み、彼氏もそうして選んでいるように見える。

 人参を娘の彼氏に見立てて切っていくと、細かくなりすぎてしまった。

 

 ルーを溶かしカレーが出来上がるころ、またチャイムが鳴る。

 小海が玄関にスライディングするかのように滑り込んで、愛華を迎え入れた。

 

「……あれ、彼氏さん来ているの?」と愛華は玄関の靴を見て気づいたようだった。


「もう部屋に入っているよ」小海が答えた後、愛華はしばらく沈黙する。


「ごめん、私かえろっかな」


「え、だめだよ! 今日の試合に勝てば……! だって……愛華が一番上手いんだからさぁ……」


 小海は玄関先で愛華を引き留めようと必死の様子だ。

 愛華の右腕を引っ張って、引きずられるようにリビングを通る。


「あ、お父さん、失礼しまぁす……」と愛華は声を小さくして、小海の部屋に消えて行った。



 炊飯器から炊きあがりを知らせるアラームが鳴る。

 卓は転職のため適性検査の本を引っ張り出して読んでいると、小海の部屋が何やら騒々しい。

 さきほどまでは静かだったのに、足音がバタバタと聞こえてきた。


「もぅやってらんねぇ。敵チーム強すぎんだろ」


 娘の彼氏が部屋から出てきて悪態をついた。今にも唾を床に吐きそうで、卓は思わず上半身を起こす。


「ちょっと待ってよ……どうするの後半戦?」

 小海は指をくねくねさせて、玄関に進む男のあとを付いていく。


「通信ぶった切れよ」そう言って、小海の彼氏は家を出て行った。


 遅れて出てきた愛華が、しょげた小海とリビングで目を合わせる。

 そして二人の視線は卓に向けられた。


「ところで、なぜそんなに熱心なんだ?」


 部屋の中へ入れようと、背中を押す小海に卓は振り返りながら質問した。


「……これに勝ったら、ゲームショウに出られるからだよ!」


「ゲームショウ?」と卓は聞きなれない言葉をつぶやく。


「まぁいいから」小海がそう言うと、愛華がコントローラーを卓に渡す。


 画面にはハーフタイム中とあり、得点が――5対3で負けていた。


「いや、無理だろ」


 前回の戦いでギリギリ3点入れたのだ。彼氏の話を聞く限り、敵は前より強い。同じように後半で3点入れるのは難しかった。それに、敵を分析する時間は後半戦しかない。


 ハーフタイム中の相手からのメッセージには、『絶対ディフェンダーは厨房』の文字。

 卓は思わず笑ってしまう。5点も大量失点しなければ余裕で勝っている試合なのだ。

 どうやらこれを見て、彼氏は心が折れたのだろう。


「もうお父さんしかいないんです!」目の前で合掌して手をすり合わせる愛華をみて、普段の家の風景が急にキラキラし始める感覚に襲われる。


 男は単純だ。

 卓は神の視点で自分を傍観しながら、馬鹿な男だと思う。

 四十手前の人間が今更、カッコつけてどうするんだ。分かってはいるが――俺は今まで将棋をやってきて、これほど人から必要とされたことがあっただろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る