第4話
朝、小海が朝食の時間に顔を出し、卓は驚いた。
「珍しいな」
ツインテールをとった小海は背中を隠すほどの長い髪で、何度も櫛で
卓は小海の前に自分のために焼いたパンを置いた。小海は何も言わずにパンにかじりつく。
片方の手でスマホをスクロールさせて、何かを発見すると取り憑かれたようにフリックしていた。
すると今度は玄関から鍵を開ける音が聞こえる。
妻の美沙が帰ったのだった。
美沙はブランデーの臭いを髪にまとわせて、卓が朝一で淹れたブラックコーヒーをポットから注ぐ。
お互いすれ違いの生活をしており、朝に美沙と会うのは久しぶりだった。
卓は美沙と会えるのがいつになるのか分からなかったので、この場で話をすることに決めた。
いつかは切り出さないといけない。早い段階で行動を起こさないと取り返しがつかなくなる、卓はずっと考えていた。
「プロ棋士を辞めようと思っている」
美沙に言うと、小海はパンをかじるのを止めた。
テレビの女性アナウンサーの元気な声が、リビングに響く。
「……辞めて、どうするつもり」美沙は酒焼けした低い声で問いかけた。
「どこかの事務職か、雇ってもらえなければパートを探そうかと」
美沙は何か言おうとしたが、その言葉を飲み込んで、目をそらした。
「いいんじゃない」
それだけだった。
美沙はテーブルにつくとパンを手に取る。
卓はあまりにも呆気ない美沙の承諾に、急に不安になり、しばらくキッチンに立ち尽くしていた。
――美沙は離婚しようとしている。稼ぎがない四十歳手前の夫を、身を削って養う理由がない。
それを止める権利は、果たしてあるのだろうか。卓はもう少し先に考えていた現実が、すぐ足元に迫って焦燥した。
「今日にでもハローワークに行くつもりだ。なに、もともと棋士としての稼ぎも少なかったし、収入は取り戻せるさ」
美沙は食事を続けた。
「……あのさ」と小海がパンを片手に口を開く。
「今日、外せない試合があって、一応、おっさんには家で待機しておいてほしいんだけど」
「試合ってなに?」美沙は眉間に皺を寄せた。
「サッカーのゲーム」と小海が答えると、美沙は卓をなじるように睨んだ。
「あんた、仕事もしないでゲームしてんじゃないわよ!」
美沙はコーヒーカップを机に叩きつけ置くと、テーブルにコーヒーが飛び散る。
はっと美沙は我に返って、小海と目を合わせると、寝室に逃げ込んだ。
むしろ怒って頬を叩いてもらいたいぐらいだった。
卓は痛々しい美沙の背中を見送る。
小海はそそくさとスマホをポケットにいれ、パンと櫛を手に自分の部屋へ退避した。
誰もいないダイニングテーブルに卓は腰かけて
すぐにでもハローワークに行きたいところだが、今日は休日だったことをすっかり忘れていたのだった。
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