第32話 喪失

 目を覚まして時計を見るとさっきから一時間ちょっと経っていて、陽君は座布団を枕にして寝息をたてている。


 両手をいっぱいに伸ばしてひと伸びして、洗濯物もそろそろ乾いた頃だと思って、陽君を起こすことにした。


 彼の肩をゆさゆさしながら名前を呼ぶとすぐに薄目を開けて目を覚ましたかと思ったが、次の瞬間にはその目がぎょっと見開かれて転がるようにうちから離れた。


「陽君、どないしたの?」

「よ、夜見さん、あ、頭、耳」


 驚きと恐怖が入り混じった声を聞いて全てを理解した。自分の部屋でリラックスしすぎて耳と尻尾隠すのを寝ている間にすっかり忘れていたのだ。


 一気に血の気が引いて手足が冷たくなるだけでなく、横隔膜を引っ張られるような感覚に襲われて息をするのさえ難しい。


「だ、大丈夫、怖がらんで」


 いつもの姿に戻ろうとするが、焦ってしまって上手く術が使えない。こんなことなら、もっとまじめに練習しておけばよかった。


「でも、尻尾まで……、お、俺は食っても美味くないから」

「陽君、何言うてるの? なんでうちが陽君を食べなあかんの?」

「だって、ここに俺を連れて来たのも俺を食うためじゃないの」


 部屋の壁まで追い込まれた陽君は肩で息をするようにしながら話している。


「落ち着いて、うちはこないな姿やけど、別に陽君を食べたりも襲ったりもしいひん。ただ、普通の人よりちょっと耳が大きくて尻尾が生えてるだけや。それに食べるつもりならわざわざ起こしたりしいひんのちゃうん」


 少しは納得してくれたのか呼吸も整い始めて目からも恐怖の色が消えてきた。


「本当に、本当に何もしない?」

「もちろん、安心し――」


 ばんっと勢いよく部屋のドアが開けられたかと思うと、そこには兄と同じく長身で、でも、細身の兄と違って肩幅もあって顔もいかついお父さんが立っていた。家族以外なら大人が見てもビビってしまいそうな見た目で、うちの中ではお父さんのテーマ曲はスターウォーズの帝国のテーマかワルキューレの騎行だ。


 まずい、これはすごくまずい。お父さんはうちが術が上手くないことにとても厳しかった。特に何かの拍子にこの姿になってしまうことについては今までも何度も雷を落とされてる。


 さっきまで引いていた血の気が今度は一気に逆流してきて身体が熱くなってきた。


 朝から留守にしていたのにどうしてこういうタイミングで家にいるのだろう。本当に間が悪い。


 ただ、今日のお父さんはいつも怒っている時のような様子はない。むしろ、ちょっと柔和な雰囲気さえ出している。だけど、それがうちにとっては逆にいつも以上に怖く感じられる。


「……お父さん、急に入って来てどないしたの?」

「いや、大きな声がしたさかいどないしたか思てな」


 お父さんはうちの姿のことには触れることなく、そのまま座っている陽君の方に歩いていき、目線の高さを合わすようにしゃがんだ。


「君が陽君だね。話は妻から聞いているよ。美月が驚かしてしまって申し訳ないね。君はこの姿を見て怖くないのかい?」

「えっと、最初見た時は驚いたし怖かったです。夜見さんに食べられるかと思ったんですけど、その様子もなさそうなので、怖さはだいぶなくなってきました」

「そうか、それはよかった……」


 お父さんはそう言うと、陽君の頭を手でぽんぽんと軽く撫でるように叩いた。


 すると、陽君は急に気を失ったようにころんと倒れて、それをお父さんが支えた。


「お父さん、陽君に何したの……まさか……」

「……陽君の記憶を消した。お前に関すること。私や家族に関することすべて」


 お父さんはうちの方に背中を向けたままでいる。


「な、なんで、そないなことする。陽君は言うたやない。うちのこの姿を見ても怖くのうなってきたって」

「阿呆、そないなことが問題やない。陽君がどこかでお前のこの姿のことを話したり、この家のことを話したらどないするんや。そないなことになれば、ここには住めん。場合によってはお父さんも仕事を続けることが出来んようなる」


 先ほどまでの柔和な表情は消え、いつもの数倍の勢いて雷が落ちてくる。


 いつもなら、首こうべを垂れて素直に聞くところだけど今日はそうしなかった。


「陽君はうちのこの姿のこと黙っといてって言えば誰にも言わんよ。それにお父さんが心配してるんは、うちのことやない。仕事のことばかりや。仕事に影響が出るのがかなわんから陽君の記憶を消したんや」

「どうして、彼が黙ってるなんてわかるんや。まだ、仲ようなって数日やろ。それだけで彼の何がわかるんや」

「長いとか短いとか関係あらへん。なんで、なんでお父さんはそないなこと言うんや」


 最後の方は泣いてしまいちゃんと喋れていなかったと思う。


 お父さんはうちの問いに答えることをしないまま、陽君を抱えるとそのまま部屋を出て行った。


 部屋に一人残ったままただただ泣いていた。時折彼の名前を呼ぶがもう彼はここにはいないし、おそらく、二度と彼に会えることはないだろう。仮にどこかで会うことがあっても彼はうちのことを一切覚えていない。初めて会ったあの日のことも今日のことも全て失われてしまった。


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 次回更新は1月5日午前6時の予定です。

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