5

 アベさんの体は一週間で回復した。

 それからの彼は、表向きは、バーの用心棒として、店が開いている日は、いつもの壁際の席に静かに居座っている。

 

 回復して初めのひと月、彼は、の部屋にこもり、早朝から夕方、疲労困憊するまで、技の修練をしていた。毎日夕方に顔を合わせる彼の表情から、その努力の成果があまり上がっていないことは、ユリにも分かった。


 ひと月経った時、店を出て行く、と、アベさんは店長に申し出た。

 店長の眉が上がる。


「どういう、つもりなの。私の結界が信用できない?」

「……いいえ。店長には、言葉では言い尽くせないほど、感謝しています。しかし俺は、最終的には自分で自分の身を守り、生きていく必要がある。この暖かい壁の中にいては、どうしても感性が、鈍って行ってしまう。外の空気に身をさらさなくては、駄目になってしまうんです」


 アベさんの決然とした目を見返し、店長は軽くため息をつく。


「止めても、無駄みたいね。……分かったわ。私の条件は、私がいいと言うまで、この店が開く日は必ず顔を出して、店が開いている間は、ここの結界の中で過ごすこと。……約束、できる?」


 アベさんの目に迷いが浮かぶ。やっぱり、もう来ないつもりだったんだ。グラスを磨きながら、ユリはこっそりと唇を噛む。

 彼の視線がちらりとこちらに向いたことを、横顔で感じる。


「……お約束、します」


 ユリはそっと息をつく。彼が、恩人との約束を破るような人でないことは、分かっていた。



 アベさんが落人となってから、季節は巡り再びの春が訪れようとしていた。

 彼は、律義に店長との約束を守っていた。毎日、店の看板の明かりを灯すとしばらくして、押し開けられた扉からするりと滑り込んでくる黒い影を見つめ、ユリはほうっと安堵の息をつく。


 初めて唇を交わしたあの日以降、彼がユリに触れようとしたことはなかった。何なら、店のカウンター越し以外では、二人きりになることすら、避けているようだった。

 ユリには、どうしたらいいのか、まるで分からなかった。

 壁際に座る彼の動かない横顔から放たれる気配は、変わらず優しく甘やかにユリを包む。それでも、彼の視線がまともにユリをとらえることはない。


「……周囲を警戒することから、自分の意識が一瞬でも逸れることを、恐れているのよ。鎖と重りをぶら下げた状態で、術使いが自分の気配を同業者に隠し続けるのは容易なことじゃないわ。……でも、この結界の中でくらい、ゆるめないと、あの緊張感では長くはもたないと思うんだけれどね。そのためにわざわざ毎日店に来てもらってるっていうのに、全然気を緩められないのね。まあ、彼らしいか」


 二人の関係をからかわれて、思わずぽろりと弱音を漏らしたユリに、店長は穏やかな声で言う。


「ユリちゃんと見つめ合っちゃったりしたら、夢中になって他のことなんてそっちのけになるって、自分が一番よく分かってるんでしょ。不器用過ぎて、気の毒だけど、まあ、事実よね……」


 ふふ、と、悪戯っぽく笑う店長の言葉に、ユリはますます、どうしていいか分からなくなる。

 せめて自分ができることで、彼を労わりたい。

 ユリは、毎日の仕事終わりにいつも、一番得意なカクテル、ロングアイランドアイスティーをアベさんの前に滑らせる。

 彼はそれを、ゆっくりと味わう。そして最後まで飲み干すと、ありがとう、と一言を残して、扉を押し開け店を出て行くのだった。




 今年の桜は、開花と同時に訪れた花冷えのおかげで、長く美しさを保っていた。

 からん、とドアが開き、薄紅色の花びらをまき散らしながら入って来る老紳士に、ユリは知らずに笑顔になる。


「あら、今日は素敵な、同伴者が」

「ああ。遠回りして桜並木の下を歩いてきたら、連れてきてしまったね」


 老紳士の口調も笑みを含んでいる。

 薄手のコートを受け取りながら、その肩口についた花びらをつまみ上げ、瞬間、ユリは違和感を感じた。


 その花びらにはあるべき滑らかな感触がなく、ざらざらとしていた。そう、まるで、和紙のように。


「ユリさん‼」


 アベさんの厳しい叫び声が聞こえる。しかし次の瞬間、ユリの周囲の空間が歪み、その声の残響も掻き消えた。


 ぐわりと空間が裏返るような感触がして、気がつくとユリは、球状の空間の中にいた。周りは薄暗く、 がらんとして何もない、ように見える。しかし、ユリは数m先の淀んだ闇の中に、禍々しい気配を感じた。


(恐ろしい、魔力。……魔獣? 多分私では、太刀打ちできない)


 微かな唸り声と、舌なめずりするような獰猛な気配に、全身が総毛立つ。あきらめるつもりはなかったが、事実として、おそらく自分はここで、この魔獣にいたぶられて死ぬだろう。ユリは静かに息を吐く。

 右足を軽く下げ、半身になる。今自分にある武器は、この肉体だけだ。


 その時、背後から声がした。


「……ちょっと、下がっていて」


 いつの間にか後ろに立っていたアベさんは、ユリの肩に軽く手を置くと、普段通りの声で言った。

 振り返ると、その目は軽く細められて、正面の何かを凝視している。特段、その顔のどこかが普段と変わっているわけではないけれど、なぜだかユリの背中には悪寒が走る。

 ユリは慌てて、アベさんの後ろに回り込む。


 ふいにアベさんの右手が、自分の首にかかった。パキンと、ごく微かに氷が爆ぜるような音がする。

 その瞬間、透明な煙のような何かが、ぶわりとアベさんの背後に湧き上がった。

 パキン、パキン。微かな音は、しばらく続く。

 やがてアベさんの手が首から離れると、アベさんの首元と手足にはめられていた、重たそうな金属の枷は、粉々に砕けてばらばらと地面に落ちた。

 風が吹いているわけでもないのに、アベさんの髪と上着が、つむじ風の中にいるように、舞い上がる。

 

 突っ立っていたアベさんが右足を上げ、とん、と軽く前に踏み出した。

 その瞬間、稲光のように青白い光がジグザグと地面の表面を走り、数m先に、突然トカゲの化け物のようなものが現れ、声も立てずにばったりと倒れるのが見えた。


 ぎゅるりと、再び空間が裏返るような感触。


「兄貴、いるんだろ、出て来いよ。それとも、引きずり出してやろうか」


 聞いたことのない、底冷えするような、アベさんの声がする。

 空間の壁を割り、長身の男が姿を現わした。裾の絞られた、平安装束のような服装。鋭い切れ長の目は冷たく底光りしている。酷薄そうな薄い唇は引き結ばれ、顎には汗が滴っていた。


「おのれヨシナリ。お前ごときが私の術を破るなど、身の程知らずな。……思い知らせてやる」


 鋭い声と共に、長身の男の右手が横に払われると、その指先から、黒い旋風が巻き起こりアベさんに殺到する。その威力とスピードに、ユリは思わず目をつぶる。

 何の物音もしなかった。

 目を開けると、アベさんはほとんど姿勢も変えず、無造作に右手を前にかざしていた。旋風はその掌の前で静止しており、やがてもやもやとした黒い霧となり、掌に音もなく吸い込まれる。


「なっ」


 長身の男の目が見開かれる。


「……兄貴。俺は、安倍の家のみんなには、幸せに、穏やかに暮らして行ってほしかった。みんなに憎まれようとも、育ててもらい、魔力と共に生きるすべを教えてもらった恩は消えはしない。みんなが安心するなら、この枷をはめたまま、日陰者として何とか生きて行こうと、思っていた」


 アベさんは静かな声で話しながら、一歩、踏み出した。長身の男は一歩、後ずさる。


「でも。……俺だけではなく、俺の愛する人に、こんなやり方で危害を加えようとするなら、話は別だ」


 もう一歩後ずさろうとした長身の男の体がよろめいた。カシン、と金属音が響き渡り、その足首に、金属の枷が現れる。


「な、何をする」


 カシン、カシン。狼狽した声を絞り出す男の首元にも、そして両手首にも、金属の輪が次々と填められていく。


「お、お前ごときに、秘伝の術が……」

「どうして、自分にできることが、俺にできないと思ったの。そこまで愚かになってしまったの、兄さん」

 アベさんの声は、哀しげだった。


「手取り足取り教わらなくたって、兄さんにできることは、俺には何だって造作なく、できるんだよ」

 丹念に相手の自尊心を折り取る、優しく残忍な声。


「兄さん、分かるかな。その枷は、兄さんが俺に付けたものとは、少し違う。少し、強力だよね。でも、それだけじゃない。その枷を外そうとしたものには、同じように枷がはまる。そして、俺がこの指を動かしさえすれば、そいつは、ぎゅうっと、締まるんだ。……こんな風にね」

「ぐっ」


 長身の男が一声呻き、くずおれた。球状の空間の外側から、微かなざわつきが聞こえる。


「みんなも、分かったよね。これからも、彼女に手を出すものは、容赦はしない。良く、頭に叩き込んでおいて。……兄さん」


 膝をつき荒い呼吸を繰り返す男にかけられるアベさんの声は、あくまで優し気に淡々としていた。


「鎖のついた身で生きるのは、大変だよ。四六時中、そこらじゅうの術使いや悪霊たちに、狙われ続ける。……ああ、兄さんは、俺にしたのと同じように、自分の式神たちも、痛めつけて遊んでいたよね。これから、彼らにどんな風に遊んでもらえるのかも、楽しみだね」


 すう、とアベさんの右手が動く。途端に、歪んだ空間はぎゅるりと動き、うずくまったままの長身の男も、空間の周りに見えた無数の影たちも、掻き消えていく。




 そして気がつくと、ユリは先程までと変わりない、店内にいた。


 壁際のいつもの席に座っていたアベさんが、静かに立ち上がる。そして、周囲の客にも頓着せず、まっすぐにユリに歩み寄ると、彼女の右手首を無造作につかんで引っ張った。


「え、ちょ、ちょっと、アベさん」


 アベさんはカウンターに回り込み、への扉を押し開けると、ずんずんと進んでいく。そして手前の部屋で書き物をしていた店長が目を上げるのとほぼ同時に、一言、発した。


「代わってください」

「……おやまあ。はいはい」


 ざっとアベさんの全身に目をやり、店長は軽い調子で立ち上がる。そしてすれ違いざまにユリにウインクし、軽やかにへと出て行った。


 アベさんはそのまま足を止めず、奥の部屋のドアに手をかける。


「アベさん、どうし……」


 奥の部屋に引き込まれた瞬間、きつく抱き込まれ息が止まる。


「無事で、よかった」


 震える声で男がつぶやく。

 ユリを抱きしめたまま、身体を震わせ荒い息を吐く男の様子に、ユリの胸が締め付けられる。


「アベさん……」


 彼の、激しい動悸。徐々に、先ほどの恐怖が、実感を持ってユリの胸に迫って来る。


「アベさん、怪我は。鎖が外れて、体に負担は……」


 ユリの言葉は、男の熱い唇で遮られた。ユリの胸に、熱く激しいものがこみ上げ、先ほどまで支配されていた恐怖を押し流していく。


「アベ、さん」


 唇が離れる。

 眼前に、燃え上がる炎を宿した、青みがかった双眸がある。


「……愛してる」


 熱をはらんだ声。

 胸に湧き上がる激情に、身の内が焼けるようだ。この熱を、切なさをどうしていいのか分からず、ユリは目の前の男に縋りつく。


「アベさん、アベさん」


 うわ言のように繰り返されるユリの声に、男はユリを抱き上げ、優しくベッドに横たえると、もう一度、きつく彼女を抱き寄せた。

 伝わって来る、震え。肌の、温もり。彼は、私は、生きている。

 ユリの嗚咽を、男は押し付けられた胸で受け止める。

 やがてユリの肩の震えが止まると、男は彼女の目尻に優しく口づけを落とした。


 二人は、身体の奥から突き上げる切望のままに、ぬくもりを求めあう。

 男の顔が押し付けられた首筋に、暖かい雫が伝うのが分かる。

 ユリはたまらず、男の頭を両腕で抱き込む。その彼女の目尻からもまた、涙がとめどなくあふれ出ていた。

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