3

 さら、と何かが頬をかすめる感触で、目を開ける。

 すぐ目の前にある青みがかった双眸にぎょっとする。


「ユリさん」


 男が、ぼんやりとした笑顔で、ユリの頬にかかった髪をかきあげていた。その指先はひどく冷たい。


「お手間を、かけました。申し訳ない」


 瞬間、ユリは自分が意識を失う直前の出来事を思い出す。

 倒れ込んだ男の隣で、自分も横倒しになり眠っていたようだ。

 男は、意識はあるようだが、顔色は蒼白なままだ。


「……苦しいですか」

 ユリは、すばやく彼の傍らで起き上がり、自分の右手を握って魔力の戻り具合を確かめる。

 彼は目だけでユリの動きを追うと、微笑んだまま平静な声で言う。


「いいえ、おかげさまで。……しかし、……不甲斐、ないな」


 声を出すと苦しいらしく、息を切らしていた。ごろりと仰向けになり、顔をしかめる。彼のそんな顔を見るのは、初めてだった。

 そのまま腕で顔を隠す様子に、しばらくそっとしておくことにする。


 男は、いつもの彼とは違う、変わった服装をしていた。ユリの知っているところだと、神社にいる神主さんの服装に近い。

 まだ失血で身動きできない様子の男に点滴を入れ直しながら、ユリはつぶやく。


「お客さん……一体何が」

「俺の名前は、アベと言います」

「アベ、さん」

「仕事を、しくじりました。面目ない」


 彼は、横たわったまま、自分の手首の鉄枷をしげしげと眺める。


「これは、……兄貴も、本気だな」


 低いつぶやき。


「ユリさん。ここに人が来たら、俺を置いて、とにかく、逃げてください」

「まさか」

 ユリの返答に、やや苦し気な息遣いのまま彼は続ける。


「……いや、俺より、あなたの方が、危ない。追ってくるのは、俺の、身内です。あなたの術を、……あなたを、おそらく、消そうとする」


 その言葉に思わずユリは眉をひそめた。


「アベさん……仲間に、こんなことをされたって言うの」

「……追手のやり口の苛烈さは、見ての、通りだ。標的と決めれば、身内だろうが、女子供だろうが、容赦はしない。……お願いだから、逃げてくれ」

「出来るわけ、ないでしょう」


 アベさんは数回、荒い呼吸を繰り返す。


「……一生の、不覚だな」


 その声音に、ユリの胸は訳の分からない痛みに疼く。

 そっと、彼の腹部に手を当てる。自分の戻った魔力を、渾身の力で、送り込む。少しでも早く、傷の回復が、進んでくれますように。


 彼は身じろぎし、彼の手が、身体に当てたユリの手を、握った。

 冷たい、指。

 触れ合った箇所から、凍えそうな何かが、流れ込んでくる。

 彼の静かな、慟哭の波動。


「アベさん……」

「……これは死ぬ、と思ったところから、次に、目を開けたら、あなたがいた」


 かすれた、アベさんの声。


「かたじけない。ここに、来るべきでは、なかったのに」

「……馬鹿ね」


 ユリはつぶやく。


「来てから言っても、遅いのよ」


 ユリは左手で、彼の頬に触れる。


「……アベさん。生きていてくれて、良かった」


 早朝の薄明かりが、店内をぼんやりと照らし始める。扉の外の雨の音はもう、やんでいた。





「……おやおや、何の騒ぎ」


 ガチャガチャと派手な音を立てて鍵を開け、扉を開いた店長は、そこにいた二人の様子に眉を上げた。

 

 男は座り込んだ状態でふらつきながらも、手を印に構え、鋭い視線を放っている。その前にかばうように片腕を広げたユリの顔は、緊張で引きつって見えた。

 二人は店長の顔を見たとたん、ほっと全身の緊張を緩める。男はそのまま横倒しに倒れ込み低くうめいた。


 ユリの左手首にあるはずの腕輪がないことを見てとり、店長はため息をつく。


「ユリちゃん。……思い出したの。もしかして、術を使った?……体調は、大丈夫?」

「はい」

 

 彼女の短い返答と青ざめた顔に、店長は気づかわし気にもう一度息をつく。


「アベさん。何なのその恰好は」

「……これは、私の一族の正装で……」

「いやあね、違うわよ。聞きたいのは、そのジャラジャラつながってるもののこと。何なの、その、鎖と鉄の球。大昔の奴隷そのものじゃない」


 店長が右手をすくうように動かすと、男の身体が数センチほど、ふわりと浮いた。


「いやだ、重いわね」


 つぶやきながら、店の中を横切りへの扉を押し開け、入っていく。その後を引かれるように男の身体が滑って行った。


「ユリちゃん、とりあえず、店の掃除をお願い。店全体は結界が張ってあるから、侵入者の心配はないわ。……この人の事情は今から、確認するから」


 有無を言わさぬ店長の声に、ユリは黙ってうなずく。パタリとしまったの入り口のドアを眺め、ぐるりと辺りを見回すと、ユリは細く震える息を吐いた。




 しばらくして出て来た店長は、いつもの落ち着いた表情をわずかに曇らせていた。


「ユリちゃん」

 その声に、ユリは覚悟を決める。


「何を話すか、話さないか、アベさんから任されたから、まず私が話すわね」

 ユリの顔を見て、店長はふ、と目元を緩める。


「その顔。あの人とおんなじね」


 あの人の話をする前に。店長はつぶやくと、ユリの額に右手を当てた。ひんやりとした掌に、過熱した頭の中が鎮められていくのが分かる。


「腕輪を外したのは、あなた自身の決断よね。そのことを、後悔はしていない?」

「……していません」


 ユリは目を伏せ、自分の内に問いかけ、答えた。


「封印を解くには、強引なやり方だったわね。力を取り戻すと同時に、辛いことを一気に、思い出したでしょう。体調は本当に、大丈夫なの」

「……少なくとも、今は心も体も、大丈夫、だと、思います」

「……そう」


 店長の声が少し遠くから聞こえる。


 2年と少し前。ユリは突然家族を失った。母と、祖母。それがいつか起こるかもしれないということは、幼いころから繰り返し、言い聞かされてきた。覚悟はしていたつもりだったけれど、それでもユリは、自分の身に降りかかった出来事を受け止めきれなかった。ずっと、その時には自分も一緒にいなくなるものだと、思っていた。たった一人で取り残されるとは、夢にも思っていなかったのだ。


 感情が制御しきれずに力を暴走させかかったユリの前に不意に現れたのが、店長だった。その時ユリは初めて、この世界に自分たち以外にも魔女が生き延びていたことを知った。


 一人で背負うには、この力は、血は重すぎる。死なせてほしい、と懇願するユリに、全てを忘れてただの人間として生きる道もある、と、店長は静かに言った。ユリは、自分の力と、先祖たちから脈々と引き継がれ自分に与えられた、その力を使うわざを、店長に記憶ごと封印された。


「いつかどうしてもその力を使いたいと願ったとき、あなたはその血の重さを背負って生きる覚悟ができるでしょう。その時、あなたはこの腕輪を外すことになる。あるいは、そんな出来事は一生、起こらないかもしれない。それはそれで、きっと、幸せな人生よ」


 ユリの左手に腕輪をはめてくれながら、店長は微笑んだ。




 ユリの手から外された腕輪を弄びながら、店長はあの時と同じ、静かな声で話し出した。


「あの人は、落人になった。幼いころから養われ、従属してきた組織を、抜けようとして。……許されず、あんなひどい折檻を受けて、逃げ出してきたのよ」


 ユリは息をつめた。

 

「どうして彼が組織を抜けようとしたのかは、彼に直接、聞きなさい。私が今、ユリちゃんに話すべきことは……彼にも、私たちとは違うけれど、似たような力がある。そして、彼を追う者達にも。私には彼を匿う力があるけれど、もちろん、完璧ではない。いつか、あの時あなたの家族に起こったのと同じことが、ここで、彼や、私たちに起こるかもしれない。それでも、彼を助ける、覚悟はある?」


 今、彼をここから追い出すことは、すなわち彼の死を意味する。でも、もしも彼を一時的にでも匿ってしまったら、おそらく彼の属していた組織は、ユリも、店長も、見逃しはしないだろう。


「私は、もうずっと昔に、魔女として生きる決断をした。この世界から抜け出すことはできないし、こうなった以上、これから一生、追われ戦う以外の道はない。でも、今のユリちゃんは、もう一度すべてを封印して、ただの人として生きる選択をすることも、可能なのよ」


 あくまで静かな店長の声に、ユリは深く息を吸い、答えた。


「腕輪を外すとき、覚悟を決めました。でも、……アベさんと直接話して、確認したいことがあります。最後のお返事は、そのあとでも、構いませんか」

「分かったわ」


 店長は静かに微笑む。


「それにしても、さすがに癒し手の一族ね。彼の怪我の処置も、そのあとの補液も、完璧だったわ。まあ、失血がひどいから、まともに動けるようになるまでには1,2週間はかかるでしょうけど」


 店長の言葉に微笑みを返し、ユリはへ続くドアを開いた。



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