2

 梅雨の晴れ間は長くは続かなかった。

 ぽつりぽつりと入って来る客の肩口は、一様に湿っている。


 そういえば、あの人が来る日は決まって、雨だなあ。

 からんとマドラーでグラスをひと混ぜして、ユリは苦笑いする。それから顔を上げて、隙あらば湧き上がってくる黒い幻影を振り払う。


「ユリちゃんのこれ、美味いよね」


 常連のガタイのいいお兄さんの声。


「このカクテルを本当の味に作るの、難しいんですよ。この子はこれが、得意技」


 珍しくカウンターに入っていた店長が、朗らかな声で応える。


「ロングアイランド・アイスティー。紅茶は一滴も入ってないのに、なぜかアイスティーの味がする……」

「そう、そして意外に強い。気づくとベロベロになってるカクテル」


 二人は声を合わせて笑いあう。



 初めて自分で作ってあの男に出したカクテルも、これだった。


 まだ、グラスの出し入れもままならない新米だったころ。春の宵、外にはやはり、霧のような雨が降っていた。

 閉店間際に滑り込んできた黒ずくめの人影に、一人でカウンターに残っていたユリはびくりとした。明らかに、不穏な気配をまとった男。前髪に隠れて、表情は見えない。


「あ、の。いらっしゃいませ」


 我ながら、怯え切った声が出た。しまったと思ったが遅かった。

 男は滑るようにカウンターに向かってくる。ユリは黙って、というかほとんど固まって男を見つめ続ける。


「……店長は」


 低い声にはっと息を飲み、慌てて店の裏につながるボタンを押す。その日は、にお客があると言われていた。


「来たら絶対、分かるから」


 とにかく物騒そうな男、とだけ言って店長は片目をつぶっていたけれど、もう少し詳しく教えておいてくれよ、と冷や汗を流しながらユリは思う。


「あらいらっしゃい。この子新人なのよ、可愛いでしょう」


 いつもの柔らかい声で店長が裏から現れる。豊かなロマンスグレーを上品に結い上げた、小柄な女性だ。ぽん、と軽く肩に手を置かれると、途端にユリの肩から力が抜ける。


「そんな目で見てやって下さんな。この子ももちろん、ワケありなのよ。あんたとはちょっと、事情は違うけどね……」


 全く躊躇なく、男の肘を取りぐいぐいと引っ張っていく店長に、分かってはいたがこの女傑の肝の据わり具合は常人離れしている、と嘆息しながら、ユリは二人の後姿を見送った。


 やがてから出て来た男は、先ほどとは少し違った空気を纏っていた。この店には、時々この男のような客がやって来る。実のところ、店長は、の仕事がメインなのだ。

 ユリには詳しいことは分からないが、店長が何かあまり表に出せない不思議な力を持っていることは、知っていた。自分もまたそれに、助けられたのだから。


「ユリちゃん、この人に、何かカクテル出してあげて」

「うえ、えっ」


 我ながらひどい声が出た。いやしかしそれにしても、まだカクテルの作り方を覚え始めたばかりの身に、この客はあまりにもハードルが高い。


「大丈夫よ、この人、味にこだわりがないのが取り柄だから。大分疲れてるみたいだから、冷たくてさっぱりしたのがいいかな。そう、どうせならうんと難しいのにしちゃおう。ロングアイランド・アイスティーをふたつ、ね」

「はあ、ええ……」


 カウンターに並んで座る、見事に対照的な黒と白の色合いの二人に見つめられながら、初めて人に飲ませるカクテルを作る。何の苦行なのだろう、ユリは冷や汗が止まらない。


 でも。

 すう、とひとつ息をつくと、目を閉じ、暗記しているレシピを呼び覚ます。そして目をひらけば、もうユリの手は震えない。

 なぜだか、自分は集中すれば、己の指先を完全にコントロールできると、自信があった。

 鮮やかと言える手つきで二人分のカクテルを作り上げ、ユリは軽く息をつく。


 男は黙って表情を変えず、老婦人はゆっくりと目を閉じながら、そのカクテルを口に含んだ。


「うん、美味しいわ」


 店長が目を細める。


「さすがなものね……」


 店長のつぶやきは、おそらく、自分が封じてもらった過去の記憶に関係があるのだろう。でもそれを知りたいとは、その時の彼女は思わなかった。

 男は無言で、しかしきっちりとロングカクテルを飲み干す。



「……気に入ったみたいね」


 それから、表の店を黒ずくめの男が数度訪れた時、目元に笑いを含ませ、店長はユリにささやいた。


「ユリちゃんのカクテルか、それとも、ユリちゃん、かな」


 まさか。男のちらとも動かない影を視界の端にとらえながら、ユリは乾いた笑いをこぼす。

それが、2年前の春の終わりのことだった。



 今夜は彼に、久しぶりに、ロングアイランドアイスティーを出そう。客足の途絶えた店内で、軽く片付けものをしながらユリは微笑む。


 それにしてもひどい雨だった。

 日暮れ後間もなく降り出した雨はどんどんと激しさを増し、夜半過ぎには土砂降りになっていた。ざあざあと、店の中にまで雨音が響いてくる。ここまでの降りでは、今夜は彼は来ないかもしれない、ユリはちらりと思う。


 その時、扉が開いた。現れたずぶ濡れの男の姿に、ユリは息を飲む。

 扉を開けた姿勢のまま、男は膝をつきゆっくりと店内に倒れ込んだ。


「……っ。大丈夫ですか」


 ユリは慌てて駆け寄り、男を引き入れて扉を閉める。男は目を閉じたまま、切れ切れに荒い息をついている。その顔面は蒼白だ。

 助け起こそうとして、違和感を感じる。目を眇めて彼の首元を見つめ、ぼんやりとそこに見えたものにぎょっとした。


(……鎖)


 動悸が激しくなり、手が震える。

 何度か深呼吸をすると、ユリは震える右手で、自分の左手にはまった腕輪を引き抜いた。

 

 途端にはっきりと像を結んだ男の姿に、もう一度息を飲む。

 彼は、首元と四肢を金属の輪でつながれ、全身を鎖でがんじがらめに縛られていた。おそらく、魔力による鎖だ。

 彼が身動きしようとするたび、首元の金属の輪が食い込んで呼吸を圧迫している。


(これは何? ……拷問? とにかく早く外さないと、呼吸が止まってしまう)


 とっさにユリは、その鎖に向かって手をかざす。

 彼の身体を拘束している鎖は、あっけなくはじけ飛んだ。だが、首元と手足の金属の輪と、その先の重しのような球を結ぶ鎖は、成り立ちが違うようで、ユリの簡単な術では、びくともしなかった。


 男が咳き込みながら激しく呼吸する。何とか、気道は確保できたようだ。


「お客さん、お客さんっ‼ ……大丈夫ですか」

 彼がうっすらと目を開いた。


「……ユリ、さん」

 その声はひどくかすれていて、一言出すだけで、彼は再び激しくせき込んだ。


「……なん、で、俺、ここに……」

「今は、しゃべらない方がいいです。少し、休んで」


 ユリは彼の喉元に手をかざしながら声をかける。

 喉ぼとけの軟骨が、折れている。残忍な手口だった。素早く治癒魔法を入れながら、彼の身体の内側を透視して、ユリはもう一度息を飲む。


 外側からは分からなかったが、内臓がひどく傷ついている。しかも、致命傷とはならない、ゆっくりと出血が続くような傷つけ方だ。肋骨は何か所も折れている。肝臓と脾臓は、破裂まではいかないが、かなり切り裂かれているようだ。

 腸管が傷ついていないのは、幸いだった。もし穿孔でもしていれば、外科的に対処しなければとても手に負えない。


 いったい、何が。ユリは唇をかみ、気管、肋骨、肝臓と修復を進めていく。脾臓の表面の漿膜を修復するところまでで、彼女の魔力は尽きた。


「ごめんなさい。ここまでしか……失血がひどいから、苦しいだろうけど、頑張って」

 つぶやき、静脈路ルートを確保しから持ち出してきた点滴をつなぐ。全開で落としはじめたところで、限界が来た。

 何とか扉に鍵をかけ、彼に毛布を掛ける。瞬間、ユリの意識は暗転した。

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