2
梅雨の晴れ間は長くは続かなかった。
ぽつりぽつりと入って来る客の肩口は、一様に湿っている。
そういえば、あの人が来る日は決まって、雨だなあ。
からんとマドラーでグラスをひと混ぜして、ユリは苦笑いする。それから顔を上げて、隙あらば湧き上がってくる黒い幻影を振り払う。
「ユリちゃんのこれ、美味いよね」
常連のガタイのいいお兄さんの声。
「このカクテルを本当の味に作るの、難しいんですよ。この子はこれが、得意技」
珍しくカウンターに入っていた店長が、朗らかな声で応える。
「ロングアイランド・アイスティー。紅茶は一滴も入ってないのに、なぜかアイスティーの味がする……」
「そう、そして意外に強い。気づくとベロベロになってるカクテル」
二人は声を合わせて笑いあう。
*
初めて自分で作ってあの男に出したカクテルも、これだった。
まだ、グラスの出し入れもままならない新米だったころ。春の宵、外にはやはり、霧のような雨が降っていた。
閉店間際に滑り込んできた黒ずくめの人影に、一人でカウンターに残っていたユリはびくりとした。明らかに、不穏な気配をまとった男。前髪に隠れて、表情は見えない。
「あ、の。いらっしゃいませ」
我ながら、怯え切った声が出た。しまったと思ったが遅かった。
男は滑るようにカウンターに向かってくる。ユリは黙って、というかほとんど固まって男を見つめ続ける。
「……店長は」
低い声にはっと息を飲み、慌てて店の裏につながるボタンを押す。その日は、
「来たら絶対、分かるから」
とにかく物騒そうな男、とだけ言って店長は片目をつぶっていたけれど、もう少し詳しく教えておいてくれよ、と冷や汗を流しながらユリは思う。
「あらいらっしゃい。この子新人なのよ、可愛いでしょう」
いつもの柔らかい声で店長が裏から現れる。豊かなロマンスグレーを上品に結い上げた、小柄な女性だ。ぽん、と軽く肩に手を置かれると、途端にユリの肩から力が抜ける。
「そんな目で見てやって下さんな。この子ももちろん、ワケありなのよ。あんたとはちょっと、事情は違うけどね……」
全く躊躇なく、男の肘を取りぐいぐいと引っ張っていく店長に、分かってはいたがこの女傑の肝の据わり具合は常人離れしている、と嘆息しながら、ユリは二人の後姿を見送った。
やがて
ユリには詳しいことは分からないが、店長が何かあまり表に出せない不思議な力を持っていることは、知っていた。自分もまたそれに、助けられたのだから。
「ユリちゃん、この人に、何かカクテル出してあげて」
「うえ、えっ」
我ながらひどい声が出た。いやしかしそれにしても、まだカクテルの作り方を覚え始めたばかりの身に、この客はあまりにもハードルが高い。
「大丈夫よ、この人、味にこだわりがないのが取り柄だから。大分疲れてるみたいだから、冷たくてさっぱりしたのがいいかな。そう、どうせならうんと難しいのにしちゃおう。ロングアイランド・アイスティーをふたつ、ね」
「はあ、ええ……」
カウンターに並んで座る、見事に対照的な黒と白の色合いの二人に見つめられながら、初めて人に飲ませるカクテルを作る。何の苦行なのだろう、ユリは冷や汗が止まらない。
でも。
すう、とひとつ息をつくと、目を閉じ、暗記しているレシピを呼び覚ます。そして目を
なぜだか、自分は集中すれば、己の指先を完全にコントロールできると、自信があった。
鮮やかと言える手つきで二人分のカクテルを作り上げ、ユリは軽く息をつく。
男は黙って表情を変えず、老婦人はゆっくりと目を閉じながら、そのカクテルを口に含んだ。
「うん、美味しいわ」
店長が目を細める。
「さすがなものね……」
店長のつぶやきは、おそらく、自分が封じてもらった過去の記憶に関係があるのだろう。でもそれを知りたいとは、その時の彼女は思わなかった。
男は無言で、しかしきっちりとロングカクテルを飲み干す。
「……気に入ったみたいね」
それから、表の店を黒ずくめの男が数度訪れた時、目元に笑いを含ませ、店長はユリにささやいた。
「ユリちゃんのカクテルか、それとも、ユリちゃん、かな」
まさか。男のちらとも動かない影を視界の端にとらえながら、ユリは乾いた笑いをこぼす。
それが、2年前の春の終わりのことだった。
*
今夜は彼に、久しぶりに、ロングアイランドアイスティーを出そう。客足の途絶えた店内で、軽く片付けものをしながらユリは微笑む。
それにしてもひどい雨だった。
日暮れ後間もなく降り出した雨はどんどんと激しさを増し、夜半過ぎには土砂降りになっていた。ざあざあと、店の中にまで雨音が響いてくる。ここまでの降りでは、今夜は彼は来ないかもしれない、ユリはちらりと思う。
その時、扉が開いた。現れたずぶ濡れの男の姿に、ユリは息を飲む。
扉を開けた姿勢のまま、男は膝をつきゆっくりと店内に倒れ込んだ。
「……っ。大丈夫ですか」
ユリは慌てて駆け寄り、男を引き入れて扉を閉める。男は目を閉じたまま、切れ切れに荒い息をついている。その顔面は蒼白だ。
助け起こそうとして、違和感を感じる。目を眇めて彼の首元を見つめ、ぼんやりとそこに見えたものにぎょっとした。
(……鎖)
動悸が激しくなり、手が震える。
何度か深呼吸をすると、ユリは震える右手で、自分の左手にはまった腕輪を引き抜いた。
途端にはっきりと像を結んだ男の姿に、もう一度息を飲む。
彼は、首元と四肢を金属の輪でつながれ、全身を鎖でがんじがらめに縛られていた。おそらく、魔力による鎖だ。
彼が身動きしようとするたび、首元の金属の輪が食い込んで呼吸を圧迫している。
(これは何? ……拷問? とにかく早く外さないと、呼吸が止まってしまう)
とっさにユリは、その鎖に向かって手をかざす。
彼の身体を拘束している鎖は、あっけなくはじけ飛んだ。だが、首元と手足の金属の輪と、その先の重しのような球を結ぶ鎖は、成り立ちが違うようで、ユリの簡単な術では、びくともしなかった。
男が咳き込みながら激しく呼吸する。何とか、気道は確保できたようだ。
「お客さん、お客さんっ‼ ……大丈夫ですか」
彼がうっすらと目を開いた。
「……ユリ、さん」
その声はひどくかすれていて、一言出すだけで、彼は再び激しくせき込んだ。
「……なん、で、俺、ここに……」
「今は、しゃべらない方がいいです。少し、休んで」
ユリは彼の喉元に手をかざしながら声をかける。
喉ぼとけの軟骨が、折れている。残忍な手口だった。素早く治癒魔法を入れながら、彼の身体の内側を透視して、ユリはもう一度息を飲む。
外側からは分からなかったが、内臓がひどく傷ついている。しかも、致命傷とはならない、ゆっくりと出血が続くような傷つけ方だ。肋骨は何か所も折れている。肝臓と脾臓は、破裂まではいかないが、かなり切り裂かれているようだ。
腸管が傷ついていないのは、幸いだった。もし穿孔でもしていれば、外科的に対処しなければとても手に負えない。
いったい、何が。ユリは唇をかみ、気管、肋骨、肝臓と修復を進めていく。脾臓の表面の漿膜を修復するところまでで、彼女の魔力は尽きた。
「ごめんなさい。ここまでしか……失血がひどいから、苦しいだろうけど、頑張って」
つぶやき、
何とか扉に鍵をかけ、彼に毛布を掛ける。瞬間、ユリの意識は暗転した。
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