夜と魔女とアイスティー

霞(@tera1012)

1

 その男はいつも、壁際に座る。



 今日は4月にしては異様な寒さで、扉を押し開けて入って来る客の外套は一様に冷たく濡れていた。

 皆、一歩店に踏み入れたとたん、暖かな空気と柔らかい灯りの色合いに、ほう、と吐息を漏らし、強張った肩を緩める。


 それを見るのが、もしかしたらこの仕事で一番好きな瞬間かもしれない。

 微笑んで客の外套を受け取りながら、ユリは思う。


「いつものを」


 目尻の皺を深めて、低い声音で白髪の紳士がユリに声をかける。


「はい」

 湿った外套が乾くように急いで広げてつるしながら、ユリはいつもの元気印の声で応える。

 スコッチのダブル。常温のミネラルウォーターを添えて。

 紳士の前にグラスを置いた時、もう一度扉が開いた。


 滑り込んできたのは細身の男だった。全身黒ずくめのタイトなシルエットの服に、鞄の類はいつも持たない。そして、ユリに一瞥をくれることもなく、いつもの壁際のスツールに腰かける。


「いらっしゃいませ。何になさいますか」


 カウンター越しに男の正面に回り、ユリは声をかける。

 男からは、冬の雨の匂いがした。

 長めの前髪に隠れた瞳がつと上がり、ユリの視線をとらえる。その何の感情も読み取れない瞳に、はじめの頃のユリは、何となくぎくりとしたものだった。


「……温まるものがいいな」

「今日、寒いですものね」


 男の瞳が微かに細まる。それが彼にとっての微笑みだと分かるまで、ここに勤め始めて数月は要しただろうか。


 ホットグラスに湯を注ぎ温める。手元をじっと見つめる男の視線を感じる。

 空にしたグラスにラムを注ぎ、熱湯を加えて軽くかき混ぜ、バターを一切れ浮かべた。


「ホット・バタード・ラムです」


 男の前にグラスを置くと、男はすん、と軽く鼻を鳴らした。

 湯気を立てるグラスに口を付けると、外から入って来た服装のままの男の肩からも、ようやくこわばりがほどけはじめるのが分かった。ユリはほっと息をつく。


 再び扉が開き、二人組のサラリーマン風の男たちが入って来る。ユリはちらりと黒ずくめの男に笑顔を投げると、彼の前を離れた。





 この店で働き始めて、2年ほどになる。

 慣れた手つきでグラスを磨きながら、ユリはざっと店内に視線を走らせる。開店前の店の中は、暖かくどこかよそよそしい空気を纏ってしんと静まり返っている。

 カウンターに数席。その後ろに、4席のテーブルがひとつあるだけの、小さなバーだ。暖かい色合いの間接照明でほんのりと輝く、飴色に磨き込まれた床や壁。落ち着いた配色のソファーと、壁際の棚にずらりと並んだ、静かに年を経ていくボトルたち。


 オーナーを兼ねた店長が趣味でやっているようなお店だから、あまり一見のお客さんは多くはない。ほとんど混みあうこともない、店員としては働きやすい店だ。


 18時。ユリは表の看板に明かりを入れる。

 6月の日は長い。扉を開けたまま、まだ明るい表の通りを見るともなしに眺めていると、ひょろりとしたシルエットが目の端に入った。


(珍しいな)


 こちらに向かって歩いてくるその黒い人影は、あの男だった。

 彼は普段はいつも、真夜中過ぎにやって来る。週に2日のことも、1か月ほど間が空くこともあるが、いつも壁際のスツールに腰かけ、たいていはユリか店長が見繕ったカクテルを1,2杯、ゆっくりと飲んでいく。


 ほとんど誰ともしゃべらないし、何ならほとんど、身動きもしない。それでも、彼が軽く目を伏せて手元のグラスを眺めながら、微かに流れる音楽に耳を傾けている様を見る時、ユリには、彼がリラックスしているのがよく分かる。

 彼が、動かない影のように壁際の席に居座っているとき、自分もまた、何故だかいつもより安心して仕事をこなしていることにも、ユリは気がついていた。

 いつからだろう、彼の視線と自分のそれが、頻繁にかち合うようになったのは。


「……いいかな」


 店の入り口に立ち尽くしたまま、男が歩み寄って来るのをぼんやりと眺めていたユリは、正面に立った男の言葉に我に返る。


「え、ええ。今開けたところです。ごめんなさい、ぼんやりして」

「いや、明るい時間に来るのは、初めてだから。……びっくりした、かな」


 男の唇が動き、それから唇の左右の端が持ち上がる。

 笑ったのだ、と気がつくまで数瞬かかった。

 男の瞳が、はじめてみる、きらめく光を宿している。その瞳を目にしたとたん、ユリの首の後ろから両耳が、かっと熱くなった。


「……どうぞ」


 慌てて身を退き、男を薄暗い店内へと導く。彼が自分の頬の赤さに、気づいていないことを祈りながら。


「何か少し、つまめるものをもらえるかな。すごく、腹が減ってるんだ」


 男は羽織っていた上着を脱ぎ、いつもの壁際のスツールに腰かける。彼が服を脱いだのも、これほど長くしゃべるのを聞くのも初めてで、ユリは何故だか少々うろたえる。


「少し、お時間いただいて、よろしいですか。……卵、お嫌いではないでしょうか」

「好きだよ」


 笑みを含んだ声に、どきりとした。

 グラスの水に口を付けながら、男は卵を割りほぐすユリの手元をじっと見つめる。


「……ビールが欲しいな。君も、飲まない」


 やがて作り上げたチーズオムレツをカウンターに置いたユリに向かって、男が柔らかな声で言った。

 本当に、いつもとは、別人みたいだ。

 ユリはますます混乱しながら、二人分のビールをグラスに注ぐ。


「美味しい」


 オムレツをほおばり目を細める男の様子に、ビールをぐいとあおり、とうとうユリは口に出した。


「あの、お客さん、いつもと、全然、違いますね」

「いつも? ……ああ……」


 男はもう一度微笑み、グラスに目を落とす。

 グラスに添えられた、男らしく骨ばった、意外に大きな手。


「いつも寄らせてもらうのは、仕事終わりだったから。なかなか、切り替えが、ね」

「切り替え」

「そう。ここに来たくなるのは、たいてい、あまり気分の良くない仕事の、後だから……」


 男はグラスのビールを一気に飲み干した。仰向いた顎と、のどぼとけの動きに、ユリは思わず目を奪われる。

 グラスを置いた男の舌が軽く唇を舐めるのを見た時、ごくりとつばを飲み込み、ユリははっきりと認識した。

 私はこの男に惹かれている。

 そしておそらく、この男も。

 

「……いつもこの時間は、いてるの」

「そうですね、やっぱり、こういう店は、夜が更けてからの方が」

「そうだろうね」


 男の視線が、ユリの指先から肩をかすめ、上気した頬をたどり、瞳をとらえる。


「今夜、閉店ごろに、また、来てもいい」


 すうと男の左手がカウンターの上で動き、その人差し指が、ユリの人差し指に触れた。思わずピクリと手を引くユリの瞳の奥を、男の目が容赦なくのぞき込む。


「……ええ」


 ユリが応えると、男が軽く息を吐く。その仕草に、ユリの胸が甘く疼いた。


「お待ち、しています」


 ようやっと絞り出したユリの言葉に、男の唇の両端がもう一度持ち上がる。

 この蠱惑的な微笑み。ユリの背筋がぞくりとする。


「ごちそうさま」


 からん。軽い音を残して、扉が閉まる。

 一人店内に残ったユリは思わず、左の拳を唇に当てる。胸の疼きは、治まるどころかどんどんと強さを増して、彼女の胸を甘く満たしていく。

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