第2話(8) 『睨み合いの果てに』

 ―メイト視点―



 森の奥深くの木に寄りかかりながら、オレは手に持つ木剣と共に膝を抱えていた。

 教会からどれだけ遠くに来たのだろう。

 一面木々で囲まれている森の中で方向感覚を掴むのは難しくて、今何処にいるのかすらわからない。


 一抹の寂しさを抱いていた。

 脳裏に思い浮かべるのはいつも教会のみんなのことばかりで、出て行った時に見てしまったあの顔がどうしても頭から離れることが出来ない。


 帰らなければならない。

 きっと聖女様はこんなオレでもまだ心配してくれている。


 けど……帰るわけにはいかなかった。

 みんなに必要とされるほど強くなるまでは、あの教会にオレの居場所なんてないんだから。


 必要ない人間は淘汰される。

 ただご飯を食べるだけの子供など、財産を貪り食う害虫でしかない。


 そんな人間を受け入れたいなんて思う物好きはいない。

 聖女様ですら、きっと何も出来ないオレを見たら失望してしまうだろう。


「なんで教会に来たんだろう、オレ……」


 こんな思いをするくらいなら、教会になんて来なければよかった。

 こんな一度手に入れた幸せを奪われるくらいなら、ずっと楽園を知らない方がマシだった。


 どんなにそう思おうとしても、頭の中にはいつも教会での日々が描かれてしまう。


「くぅ……!」


 駄目だ。

 泣いちゃ駄目だ。


 弱い人間のままでは必要とされなくなってしまう。

 地獄にいた頃は泣いたことなんてなかった。


 あの頃の方がまだ強かったはずだ。

 だから泣かないことは出来る。


 出来る、はずなのに。


「くぅ……くそ、くそぉ……!」


 零れ落ちる涙が止まることはなかった。


「どうやったら、必要とされるんだよ……どうしたらオレが……どうしたら……!」


 もっと強くなりたかった。

 強くならなければならなかった。


 でも、怖い。

 大人を相手に剣を向けてしまったら本当に戦いが始まってしまう気がして、いつも口先だけでしか抗うことが出来なかった。


 その結果が非教徒での一件だ。

 あの時、オレが煽らなければ非教徒が剣を抜いていることもなく、カイルも危険な目に合うことはなかったはずなんだ。


 オレは大人が怖いのに、オレと数歳しか違わないあいつは煽るように真正面から立ち向かっていて、力の差があることをあの時真の意味で気付いてしまった。


 だから出て行った時も、オレはあいつに戦いを挑むことが出来なかった。

 挑むつもりだった。

 絶対に膝を付かせてやると意気込んでいた。


 でもやっぱり怖くて、オレは逃げた。

 剣を抜く勇気が、オレにはなかった。


 言葉でも負けて、力でも負ける。

 その現実がずっとオレの心に強く、深くのしかかっていた。


 ――不意に茂みを掻き分ける音がする。


「――っっ!?」


 日は落ち始め、不安が増幅していたからだろうか?

 オレは木剣をぎゅっと強く抱え込み顔が強張っているのを自覚していた。


「グオオオオオオオ……」


「――ひっ」


 茂みから出て来たのは体長2m程ある熊だった。


 通常であれば、こういった街や人に害を成す獣は二番街の狩猟隊(所謂ギルド)によって討伐される。

 だがそれはあくまで街の近くに来るようになったらの話だ。


 生態系を完全に崩さないように森の奥深くの動物は狩らない。

 それがこの城塞都市【イクルス】のルールだった。


 そしてその森の奥深くに、オレは入ってしまっていたことをようやく身に染みて理解する。


 熊はオレの存在を視界に収めた。

 獲物を見つけた狩人のように、獰猛な目をオレへと向けている。


「……っ」


 怖い。

 手が震え、足が竦む。


 逃げなきゃ……!

 木を支えにオレは何とか立ち上がることは出来た。


 まだ逃げることは出来るかもしれない。

 きっと走って逃げることは出来ないだろう。

 それは熊を刺激するだけというのはオレでもわかるし、そもそも速度で勝てる相手ではない。


 ……だけど、本当に逃げていいのか? 内なるオレが語り掛けている気がした。

 いつも逃げていつも逃げて……そして、今も逃げるのか? 本当にそれでいいのか、と。


 良くなんかない。

 でも、身の安全を考えるなら逃げるべきだ。


 だが逃げるならなんでいつも剣を持つ。

 逃げるだけなら、剣が無くても出来るはずだ。

 それなのに、なんで。


 ――そんなの、戦うために決まってる。


「~~~~っっ!!」


 剣を握る手が、小刻みに揺れている。

 決意なんか、勇気なんか今のオレには一欠片も存在してはいなかった。


 それでも、前に出なければならない。

 こんなオレに生きる理由を与えてくれた教会のみんなに胸を張れるような人間に、必要とされる人間にならなければならない!


「――ああああああああ!!」


 走る。地を蹴る。

 木剣を握り締め、動く様子を見せない熊めがけて突進した。


「――グオオオオオオオオ!!」


「――ぃぃっっ!!」


 だがその小さな覚悟も、熊による巨大な咆哮によって簡単に散ってしまった。


 熊が巨大な剛腕を振るう。

 反射的に木剣で防ぐことで直撃までは行かなかったものの、力の差は圧倒的で身体ごと木剣は森の奥へと吹っ飛んでしまった。


「――があっ!!」


 勢いに呑まれ、身体は宙を飛び木の幹へと背中を打ち付ける。


 息が出来ない。

 痛みで涙が溢れ、視界が曖昧になっていた。

 それでも、そんな曖昧な視界でも巨大な影がゆっくりと近付いて来ているのはわかる。


 ……何も、出来なかった。

 どんなに覚悟を持っても、あの男のように上手くいくだなんて幻想は現実になることはなかった。


 結局オレはいつまで立ってもオレで、自分の中でようやく必要とされていなかったのだということが心の中にスッと入って来る。


 熊がすぐ傍まで来ているのがわかる。

 野生の圧がオレの身体を獲物として捉えているのがわかる。


 夢……だったのかもしれない。

 聖女様の柔らかな笑みも、みんなの笑顔も、平和で楽しい毎日も全部、夢だったのかもしれない。


 ……そんなわけ、ないだろ。

 全部本物だった。

 かけがえのない思い出だった。


 そんな思い出を、失いたくなんかない。

 あの悲しそうな顔を見せたまま、こんな奴に殺されたくなんかない……!


 初めて、死の恐怖を感じていた。


「ぃゃだ……まだ、ぁゃまって、なぃんだ……!」


 大粒の涙が零れ落ちる。


「はぁ、はあ……! みんなと、まだぃっしょにぃたぃよ……!!」


 そんな願いも虚しく、熊はもう一度大きな咆哮を上げると振り上げた剛腕を小さな身体めがけて振り下ろす。


 そして鋭利な巨大な爪は俺の腹を切り裂いて――


「――だったら、帰るぞ」


 その未来が起こる直前に、オレと熊の間に純白の髪を持つ天使様が、現れた気がした。




 ―メビウス視点―



 熊の剛腕を聖剣で受け流し、攻撃を横へとずらした。

 そしてそのまま勢いよく跳び熊の顔面に回し蹴りを放つ。

 熊の眼球を踵(かかと)が抉り、熊は絶叫を上げて大きく怯む。


 それでもやはり野生の獣ということもあり、獰猛な眼光を今度は俺へと向け続けていた。


 距離を離したところで、俺は探し求めていた少年へと視線を向ける。

 メイトは熊に戦闘を挑んだらしく、現状では苦しそうに倒れ込んでしまっていた。


 俺にはメイトの過去なんてわからない。

 コイツが何を思ってあそこまで教会に固辞しているかもわからない。


 それでも、コイツの言葉はしっかりと耳に届いた。

 であれば、俺はコイツをしっかりと教会へ送り返す義務がある。


「聖女様の家族相手に随分とまあ好き勝手やってくれたみたいじゃないか。お前、信者に殺されても文句は言えねーぞ」


 だから俺も鋭い瞳をこの獣へと向ける。

 お互いにお互いを牽制して出方を伺っていた。


 そして少し遅れてテーラも木々の先から飛び出してくる。


「ちょっ! 自分早いねん! ……き、君大丈夫か? 骨は……折れてはないっぽいね」


「ぃっ……!! お、お前どぅして……!」


「お前を教会に連れ戻しに来た。……帰るぞ」


「――っ」


 メイトは驚いたように目を丸くしながら俺を見ている。

 俺がそんなこと言わない、それどころかお前を目ざとく思っているとでも思っていたのか? だったらそれは大きく間違っている。


 正直に言わせてもらえば、俺は今猛烈にこの野生の獣に対して怒っていると自覚していた。


「グオオオオオオオオオオオオッッ!!」


 熊が怒りに身を任せ咆哮を上げる。

 そして巨大な足を大きく前へ一歩踏み出した。


「――」


 ――瞬間、俺の左腕に大きな火花が飛び散る。

 バチバチと絶え間なく鳴り響く破裂音はこの巨大な獣ですら怯ませる効果があった。


 一歩、また一歩と熊は露骨に後退し警戒していた。


「……お前の縄張りに入ったのは謝る。だがこれ以上痛い思いをしたくなかったらここから離れろ。俺達もすぐに離れるから」


 紅い瞳で熊を射抜く。

 魔力で作り出した火花は絶えず音を響かせ、左手だけでなく右手でも火花が新たに飛び散った。


「……」


「……」


 睨み合いが続く。

 そもそも言葉が通じているのすら怪しい。

 それでも、どうやらこの空気に勝利したのは俺だったようだ。


 熊は潰れた右目のせいで移動感覚が掴めないのか若干よろけながらも森の奥深くへと消えて行った。

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