葉山理緒と九重美咲 53

「綾乃、授業終わったよ」

「……ああ、うん、知ってる」


 授業中机に突っ伏して思い切り寝ていた綾乃は、適当すぎる嘘を口にしてぐっと伸びをした。ついでにあくびもして、鞄からペットボトルの水を取り出して飲む。

 一応教科書とノートは出しているものの、ノートは当然のように白紙だった。


「また夜更かししてたの?」

「いや、違う……してない、して……」

「綾乃?」


 要領を得ない返答に心配になるが、綾乃はかぶりを振ってもう一度あくびをした。


「夜更かしはしてない……はず」

「……なんか変なことしてないよね」

「してないよ」


 あっさりと答え、綾乃は次の授業の準備を始めた。が、違う教科の教科書を出しているのを見て、綾乃に時間割を示す。

 綾乃は半眼になり、面倒そうに正しい教科の準備をした。


「あんまり授業中寝てばかりじゃダメだよ。ちゃんと起きてないと」

「起きようとはしてるよ。昼間に学校やってるのがおかしいんだよ。夜だったら起きれるのに」

「綾乃……」


 呆れるようなことをいう綾乃だが、さすがに本音ではないだろうと思う。たぶん。


「なんか悩んでるなら言ってよ」

「悩んでるなんて言った?」

「顔に書いてる」


 指摘すると、綾乃は本気で心外そうな表情を見せた。


「マジ、なんでも顔に書いてある美咲にそんなこと言われるなんて……」

「誤魔化してないで、言えないことなら無理には聞かないけど」

「そういうんじゃないけど……ちょっとやらかしてさ。助けてくれた人にお礼を言いたいんだけど、どうしたもんかなって考えてるだけ」

「なにしたの?」

「……言わない」


 言わない、と言われれば無理には聞けない。気にはなるけど、こういう時に無理に聞いても綾乃はきっと言わないだろう。

 それにしても、と首を傾ける。


「どうしたもんかなって……相手がどこの誰だかわからないとか?」

「連絡先の交換はした」

「じゃあありがとうございましたって送ったらいいんじゃ……」

「それでいいかな」


 気弱な顔を見せる綾乃に、意外な気持ちで応える。


「いいと思うけど……直接会ってもいいだろうし」

「会って……」


 悩むように眉を寄せる綾乃に、本当に珍しいなと感じる。

 綾乃はいつも冷静で、淡々としている。意外に感情的な性格でもあるが表には出さないし、こんなにわかりやすく表面に出るのは珍しい。


「とりあえず送るだけ送ってみたら? 遅れると余計やりにくくなるよ」

「……簡単に言う」

「えっと、そんなつもりはないんだけど」

「……ごめん、今のは八つ当たりだったかも。わかってるよ、こんなに悩むことでもないって。でも美咲だって理緒相手だったら簡単にメッセージ送れないでしょ」

「え?」


 思わず聞き返すが、綾乃は「なに」と不機嫌そうに目を細めた。

 というか。


「綾乃、その人のこと好きなの?」

「は!? そんな話してないでしょ」

「だってわたしと理緒さんに例えるってことは……」

「言葉の綾! いいから席戻って」


 肩をぐいと押され、仕方なく席に戻る。もう次の授業も始まるので潮時ではあった。

 授業が始まり、ちらっと見てみると綾乃は起きていた。頬杖をついて遠い目をしているので聞いてはなさそうだったが。

 綾乃が悩んでいるのなら力になりたいが、できることもなさそうだ。話ならいくらでも聞けるので、後でまた聞いてみようと思う。

 理緒の名前が出たことで、思考が引きずられる。いや、嘘だ。綾乃が言わなくたって、理緒のことは何かにつけて頭に浮かんできてしまう。

 週末に話をするといってから、ずっと落ち着かない。家でも何も手につかずにゴロゴロしてしまう。まだ火曜日というのが信じられず、朝起きたら週末になってないかなと願う始末だ。

 本当に今すぐにでも話したい。だが理緒の都合が当然あるし、時間をちゃんととった方がいいと言われればそうするしかない。

 本当は理緒がどんな話をしても受け入れる準備に費やすべき時間だったが、良い想像と悪い想像が交互に浮かんできてそれどころではなくなっている。

 考えていると黒板の板書が消されてしまった。思わず声をあげそうになって、白紙のノートを見下ろす。


(やっちゃった……)


 せめて、と残りの授業はちゃんと聞いた。授業が終わると、すぐに友人に声をかけにいく。綾乃ではない、たぶんノートとってないし。

 スマートフォンをいじっていた香凛に声をかける。


「香凛、今の授業のノート見せて欲しいんだけど……」

「寝てたの? 珍しい」

「起きてたよ、ちょっとぼーっとしちゃって」

「まあ、いいけど。明日返してね」


 ノートを渡してもらい、香凛を拝むかたちで礼を言う。


「ありがとう、なんかおごるから」

「シャー芯切れそうだからそれでいい」

「りょーかい」


 香凛は細い目をさらに細めて美咲を見上げている。何かいいたげな表情を察して、立ち去らずに言葉を待つ。


「最近どうなの」

「元気だよ。毎日会ってるじゃん」

「そうじゃなくて……美咲の好きな人」


 言われて、ぴたっと硬直した。

 香凛が『女同士で付き合ってもいいことない』と言ったことは忘れていない。あれ以来その話はしなかったし、美咲も深く訊くようなことはしなかった。

 きっと何かあって言っているのだと思うが、安易に踏み込めない雰囲気を感じていた。

 話題も話題なので、顔を近づけてひそひそと囁いて答える。さすがに全部を説明しきれないので、美咲なりにまとめた。


「……今週末、告白の返事をもらうことになってる」

「そっか。忠告したのに」

「うまくいったら香凛は……おめでとうって言ってくれない?」

「……別れた時に慰めてはあげる」


 陰鬱に返されて、美咲も何も言えなくなる。とびぬけて元気な性格ではない香凛だが、ここまでネガティブなことを言ってくることもなかった。

 中学の時からの友達で、仲が良い相手だ。食生活にかなり気を遣っていて、同性の美咲から見てもキレイだと思えるぐらいのスタイルをしている。必要がなければお菓子などは食べないが、付き合いでファストフードなどに行ったときは普通に付き合って食べてそのあとはしっかりと運動をすると言っていた。

 これぐらいのことは知っているが、これより踏み込んだことは一切知らない。たとえばこれまでの恋愛とかも。

 香凛があんなことを言うには、意味があるはずだ。


「美咲?」

「え?」

「なんか固まってたけど」

「あ、うん」

「……なにか言いたいことでもあるの?」


 控えめだが挑発的な言い方だった。

 数秒かけて唾を飲み込んで、美咲は笑ってかぶりを振った。


「ううん、ノートありがと」

「……そ」


 美咲から視線も外した香凛に小さく頷いて、自分の席に戻る。

 はぁ、と小さく息を吐く。色々と感じるもやもやは、少なくとも週末までは続きそうだった。


 地下鉄の座席に座り、イヤホンをつけて音楽を再生する。

 綾乃に教えてもらった洋楽だ。歌詞の意味はわからないけど、ノリの良いリズムが気に入っていてよく聴いている。

 大体2曲いかないぐらいで駅に到着する。その間、考え事をしようとしたがまったくまとまらずにいた。


(早く週末にならないかな……)


 理緒に会いたい、理緒と話をしたい、理緒と……

 気付くと溜息が出てしまう。最近はすっかり癖になってしまった気がする。

 これでは家に帰ってもまたぐだぐだしてしまいそうだ。香凛から借りたノートだけでも写してしまおうと決める。

 頭がぐちゃぐちゃになっていても通学路の移動は体に染みついていて、駅に着くとほとんど無意識でも地下鉄を下り階段を上り改札を抜ける。

 駅構内を出ようとしたところで、不意に腕を掴まれた。

 びっくりして掴まれた腕を咄嗟に振り払う。あっさりとその腕が離れ、振り返る。


「……美咲、だね」

「…………」


 自分の名前を呼ぶ相手を見返して、思わず後ずさった。

 スーパーで会った、理緒の友達の人だ。

 あの時のやり取りで向こうがこちらをよく思ってないのはわかっている。だが、今は相手の目がひどく暗くなっているのを感じた。

 まるで、とても憎い相手を見るかのような。


「理緒のことで話があるんだけど」

「…………」


 応じない美咲に、相手はとても苛立った目を向けて舌打ちした。

 美咲は少し考えて、やがて小さく頷いた。

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