葉山理緒と九重美咲 54

 倉橋と無言で歩きながら、美咲は相当の緊張を味わっていた。

 どこか話せるところに行こうと言われて、近くの公園に向かっているところだ。たまにちらりと振り返り倉橋がいることを確認して、暗い気持ちが深まっていく。

 初対面で色々と言われた相手だ。理緒とのことを責められて、言い合いになったことは脳裏に浅くはないぐらいには焼き付いている。

 あの時ははっきりと馬鹿にした表情をしてきたのを覚えている。敵意は感じたが、嘲るような態度が強かった。

 それが、憎悪を感じるほどの目に変わっていることは美咲の緊張をいやにも煽った。こうして前を歩くのもできればしたくない。

 公園が目に入ったときは、内心の安堵にそっと吐息した。このまま無言で歩き続けるのは、精神が摩耗してしまう。

 誰もいない公園のベンチに座る。理緒と座ったベンチはなんとなく避けてしまい、一つ隣のベンチにした。無駄にベンチを一つ飛ばすことになったが、倉橋は特に指摘してこなかった。

 憎むような眼差しはそのままに、倉橋はうなるように確認してきた。


「理緒と付き合うの?」

「……まだ、わかりません」

「付き合う気はないってこと?」

「違います……理緒さんが話したいことがあるって言ってて、その話が終わってからってことです」

「理緒がいいって言ったら付き合うつもりなんだ」


 嘲るような声に、小さく頷く。

 今度ははっきりと嘲りを込めて、倉橋は不愉快そうに眉をゆがめた。


「理緒を傷つけておいて、そんな図々しいことをよく言えるな」

「…………」

「僕は認めない。理緒を傷つけるようなやつが、理緒の傍にいていいわけがない」


 膝の上の手をぎゅっと握る。手汗がじとじとするのが気持ち悪い。

 心臓に特大の棘が刺さった心地だった。理緒を傷つけたのは、大きな後悔となって美咲の中には残っている。反論なんてできない。

 けれど、


「決めるのは、理緒さんだと思います」

「付き合うなんて絶対に許さない」


 美咲の言葉を聞いて、それでも倉橋はそれを無視して告げた。

 倉橋は顔を寄せて、重々しく囁く。


「理緒はこれまでさんざん傷ついてきた。こっちに来ても、同じことばっかりだ。僕が傍にいれなかったから、こんなことになったんだ。だから、今度こそ僕が理緒を守る」

「…………」

「理緒の前から消えろ」


 吐き捨てるような口調に感じたのは、恐怖だった。

 明らかな憎しみを込めて、目の前で詰めてこられた経験なんてない。人の敵意を知らないわけではないが、眼前で自分に向けられるとこんなにも怖い。

 怖いけど、痛いけど、ここで引くわけにはいかない。

 この人はきっと理緒が大事なんだろう。理緒のために、美咲に消えろと言っている。


「理緒の話を聞いても、なにもできないよ」

「そんなのわからないじゃないですか」

「わかるよ。お前じゃ理緒と一緒にいられない、理解できない……本当の意味じゃわからないんだ」

「……そうだとしても、諦めません」


 勇気を奮い起こして、倉橋を見返す。

 倉橋の話はわからない。少なくとも、話を聞く前から判断できることではない。


「理緒さんが好きなんです。理緒さんが受け入れてくれるなら、わたしから身を引く理由はありません」

「そうやってまた傷つけるのか?」


 イライラした口調で、倉橋が語気を強める。


「またそうやって! お前らは人を傷つける! 消えない傷をつけて、それでも平気な顔して生きてる! いい加減にしろよ、消えろよ。消えろ!」


 誰もいない公園に、倉橋の声が響き渡る。

 遠くの車の音が聞こえる。それ以外の音はなく、倉橋の言葉が頭の中で反響している。

 倉橋が果たして美咲に話しているのかわからなくなった。きっと、美咲に何かを重ねて話している。

 デジャブのような感覚に、軽いめまいを感じた。何を言っても届かないのではないかという思いが頭をもたげ、言葉が浮かばなくなる。

 スーパーで話したときは美咲も激しく動揺していたので、あまりちゃんと話はできなかった。倉橋の怒りは感じていたが、ここまでの強い憎悪をぶつけられていなかった。

 理緒を知りたい、と答えた。ちゃんと知らないと、自分のしたことがわからないからと。

 知りたいのは理緒のことだ。積極的に自分からそうしたいと思えるのは、それだけ強く想える相手だけだ。

 倉橋を知りたいとは思えない。だが主張はともかく、倉橋は理緒を想ってこうして話に来た。賛同できない話だとしても、それだけで拒絶ができない。

 言葉が喉でつかえる。いくつもの言葉が頭に浮かんで、同時に霧散していく。

 言わなければいけないことはなんだろう。


「あなたは、理緒さんが好き……なんですか?」

 

 出てきたのはそんな問いで、たぶん選択肢としてはこれではないというのがすぐにわかった。

 それを証明するように、倉橋が顔を真っ赤にして声を荒らげた。


「そういうことじゃねえよ! 好きとか好きじゃないとか、そんな簡単な話をしてんじゃないんだよ。僕は理緒を守りたいだけなんだ。お前みたいに人を傷つけるようなやつを排除しないと、安心して生きていけないんだよ」

「わたしは、理緒さんが好きです。傷つけたいなんて思っていません」

「でもやっただろ。好きだったら何してもいいのか?」

「違います。傷つけたことは事実ですけど、もうしません。理緒さんを知って、一緒にいて、一緒に考えたいんです」

「……話にならない」


 吐き捨てるように言って、倉橋は舌打ちする。


「お前のことなんてどうでもいいんだよ。何を考えて、何をしても、理緒を傷つけた事実は消えない。好きだから寝てる間に触れたりするなんてまともな人間のすることじゃないよ。なんでわからないんだよ」

「……倉橋さんは、理緒さんが大事なんですね」

「は?」

「そんなに怒るってことは、そうじゃないんですか?」

「大事だよ。でもお前とは違う。僕は純粋に、理緒を大事にしたい。守りたいんだ。お前みたいに、性欲をぶつけたいなんて思ってないよ」

「せ……」


 飾らない言い方に、言葉が詰まる。

 そんな美咲を、倉橋はますます馬鹿にしたように笑った。


「ほんとくだらない。好きとかなんとか言って、ようはヤりたいだけだろ。自分勝手な性欲を相手にぶつけることしか考えてないんだ」

「い、いや……」


 弱弱しく否定する。急に過激な言葉が出てきたせいで、動揺が跳ねあがった。

 倉橋は自分のひざを人差し指でとんとんと叩いて、突きつけるように訊ねる。


「じゃあ、ヤりたいって気持ちはないの?」

「え……え、ええ?」


 問いに思い切り声が詰まった。

 そんなことを言われても、なんと答えればいいのかわからない。というか、そんなことは考えたこともない。


(……ない、よね)


 自分に内心で問いかける。

 そういう知識は普通にあるが、経験自体はまったくないし、好んでそういう話もしてこなかった。

 理緒を好きだ。これは明確に恋愛感情だと自覚しているが、性欲というと首をかしげたくなる。

 キスをしたのは、そういう意味なのだろうか。

 わからなくなって、かぶりを振る。自分の気持ちに向き合うと決めたが、性欲なんてことは考えたことがなかった。


(理緒さん、と……?)


 美咲の頭に浮かぶイメージは我ながら貧困で、具体的なものが形になったわけではない。ふわふわした、理緒とくっついているぐらいのものだ。

 それだけで、心に熱が灯り、恥ずかしさに顔が熱くなった。


「なんだその顔」


 言われて、はっと倉橋を見る。

 とても汚いものでも見るような、軽蔑しきった眼差しを向ける倉橋が続ける。


「発情してさ、理緒に手を出そうとしてるのが気持ち悪いんだよ。やめろよ、本当に気持ち悪いよお前」

「……悪いんですか?」

「あ?」


 攻撃的に聞き返す倉橋に、言葉をぶつける。


「性欲があったら、ダメなんですか?」

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