羽柴紫
理緒が帰っても、しばらくそのまま煙草を吸い続けた。
家で一人になると、やたらとその空白を意識するようになってしまった。年を取ったということだろうかと自嘲する。理緒と6歳しか違わないし、まだまだ若いのだけど。
この雑貨屋という名の煙草屋は、祖母から引き継いだものだ。儲けなんてなさそうだった雑貨屋は、引き継いでみると本当に儲けなんてなかったことを知った。祖母にとっても趣味のようなものだったのだろう。
紫には一応の本業があり、イラストレーターをしている。ありがたいことに仕事はあり、雑貨屋を維持しながら生活していくことはなんとかできている。店番も雇うことができていて、今もレジで暇にしているはずだ。
勢いで継いだこの店への愛着は強い。子供の頃から祖母がいるこの店に入り浸ってばかりだった。高校生の時に煙草をこっそり売ってもらったりもした。考えるまでもなく違法だが、祖母なりの考えがあったことを後に知った。
同じことを今紫は理緒にしている。
その時はそこまで考えたわけではなかった。そうしなければいけない、というような衝動的な行動だった。
それが吉と出たのか、今になってもわからない。
雑貨屋を継いでほとんど経ってない頃、紫は毎日を頭を抱える思いで過ごしていた。
店を維持するだけでもそれなりの赤字になっている。祖母の運営用の資金がかなり残っているが、このままではそう遠くない未来に食いつぶしてしまいそうだ。
イラストレーターとしての仕事はまだまだない。なんなら月に一度もないことすらあるので、そのうち夜にバイトをしなければならないかもしれない。
焦りっぱなしの当時は、思い出すだけでも若かったなと苦い気持ちになる。今当時の自分と話せるとしたら、考えてばかりじゃなくて動けよとひっぱたくところだ。
ともかく、そんな状態の時に理緒に出会ったのだった。
初見の印象は、ガキが来たな、だった。15歳の理緒は現在よりも幼く見え、どう頑張っても中学生だとみるのが精いっぱいだった。
なんの店だろうと思ったり、度胸試しの感覚で子供が入ってくることはある。飲み物も売っているので買えるものがまるでないわけではない。祖母が経営していたころはたまに子供がお菓子を買っていくのを見たものだ。紫が継いでからは、なぜだかそんな客もぱったり絶えてしまったが。
店に入ってきた理緒をちらりとだけ見て、帳簿に視線を戻した。子供が飲み物を一本買ってくれるのはありがたいが、もっと具体的な解決策を考えなければいけないのだ。
とはいえ、理緒をちらちらと気にしてはいた。万が一万引きなどされたらたまったものではない。
理緒は狭い店内をぐるりと見て、ゆっくりとカウンターまでやってきた。
紫を見上げて、商品を一つ指さして注文する。
「この赤いの、ください」
「あ?」
理緒が指さしたのは紛れもなくカウンターの内側に置かれている煙草だった。
紫はあのな、と理緒を指さして説明する。
「これは煙草で、20歳過ぎてないと買えないんだよ」
「……知ってます」
「誰かに買ってこいって言われたのか?」
「あたしが吸うんです」
即答する理緒に、おいおいと頭を抱えたくなる。小学生の子供に煙草を売ったりなんかできるわけがない。
ふと、理緒の目が真剣そのものであることに気が付いた。すぐに記憶に浮かんできたのは、中高生の時の仲間だ。
当時荒れていた紫は、同じように荒れていた仲間とつるんでばかりいた。毎日のように学校をさぼって遊んだり飲酒をするといった今思えばロクでもないガキだった。
その時の仲間の一人が、目の前の子供と一致した。死んだような目が、そのものだった。
理緒はその目を紫に見せたまま、声を荒らげた。
「この煙草が欲しいんです、売ってくれないんですか!」
「いや……子供に売るわけには……」
かろうじて拒否すると、理緒は泣きそうな顔をして店から出てこうとした。
「おい、ちょっと待て!」
咄嗟に止めると、理緒はぐるりと顔だけで振り返った。
どうして煙草が欲しいんだ、とか様々な言葉が浮かんでは消える。最後に残ったのは、紫ではなく祖母の言葉だった。
『あんたに煙草を売ったのは褒められたことじゃないし、これが正しかったなんて思ってはないけど、そうしないと……』
こういうことだったのか、という戸惑い交じりの納得の中、理緒に声をかけた。
「売ってやる。家に入りなよ」
理緒は泣きそうな顔のまま信じられない、という顔で紫を見ていた。自分で買いたいといったくせに、と若干イライラしながら手招きする。
辺りを確認するように見回して、理緒はおずおずとこっちに歩いてきた。
カウンターにはベルを置いて、理緒と家の中に入る。
「一応確認するけど、何歳?」
「……15歳です」
「微妙な嘘つくぐらいなら、いっそ20歳って言っちまえよ」
「本当です」
「あ? ……まあいいか。売ってやるってのは撤回しないから安心しろ」
小学生に見えたのだが。どっちにしてもこんなところで嘘を吐くこともできない子供だ。
ここで堂々と嘘を吐けるのなら、こうして家に入れてもいないかもしれないけど。
「吸ったことはある?」
とりあえず訊いてみると、理緒は首をふるふると振った。
じゃあ、と自分の煙草を一本差し出してみる。理緒はおっかなびっくり受け取って、財布を出した。
「その一本はあげるよ。まず吸ってみて、それから売ってやる」
「……はい」
ライターを渡す。理緒は煙草を口にくわえて、先端にライターを近づけた。
完全に小学生が煙草を吸っている絵面で、取り上げてしまいたい衝動に駆られる。そんなことを思う自分に驚いた。紫だって未成年の時から喫煙している。そんな自分が、目の前で未成年が煙草を吸うのを本音では止めたいと思っている。
丸くなった、ということなのだろうか。自分の変化に戸惑うが、できればこんな形で実感したくはなかったなと内心で溜息を吐く。
「あ、あれ」
理緒は煙草に火が点かないことに戸惑っているようで、何度もライターをかちかちと点けている。
まあそうだよねと頭を掻いて、理緒に教える。
「あー、息を吸いながら火を点けるんだよ」
「吸いながら……」
アドバイスすると、すぐに煙草に火が点いた。まあ難しいことなんてなにもないのだが。
煙を吸い込んだ理緒は、予想通り盛大にむせた。涙目でげほげほと吐き切って、もう一度煙を吸い込む。
またむせそうになっていたが、こらえたようだった。細くゆっくりと煙を吐き出して、涙目のまま紫を見上げる。
「美味しく……ない」
「当たり前だ。辞めるか?」
「……やめません。ひと箱買います」
「……わかった」
なんで煙草なんか吸うんだ、と訊くのは簡単だったかもしれないが口にすることはできなかった。
理緒が指定した煙草を売り、二人して改めて煙草を吸う。
理緒はもう慣れたかのようにふるまっていたが、無理をしているのは明らかだった。
「ここに来れば売ってやる。他の客には見られないようにな。そんで、ここで吸ってけ」
「……はい」
紫の言葉に素直に頷く理緒を見て、これで良かったんだろうかと疑問に思う。
きっとこの思いを、ずっと抱くことになるんだろうなという予感があった。
それから理緒は店に通うようになった。最初は黙々と喫煙して帰るだけだったが、数回で紫とも話すようになってきた。
理緒が本当に高校生だったり(あまり信じていなかったが)、一人暮らしをしていたりと事情についてもぽつりぽつりと聞いた。
理緒の高校生活もうまくいくようになってくると、次第に元気な顔を見せるようになってきた。そのたび、内心でほっとしていたものだったが。
紫の祖母は、かつて紫にこう言った。
『煙草を買えなかったら、他の買える店を探すだろう。そうしているうちに同じようなやつとつるむようになって、どんどん良くない方向に行く人を何度か見てきたんだ。それならいっそ、うちで売ってやれば少なくとも様子を見ていられるだろ』
『買いたい子供全員に売ってたらやばいんじゃないの』
『全員になんか売るか。誰かそうなるかなんてわかりゃしないんだけどね……正当化できることじゃないよ。でも、やっちまった』
口調に反して、後悔している表情ではなかったことを覚えている。もっとも満足しているともいえない複雑なものだったが。
紫が祖母から煙草を買っていたことについて訊ねた時の話だ。
当時は仲間内で煙草を吸いたいという話が出ていて、紫もほとんどそのノリで煙草を探しただけだ。紫は買えたが他の仲間は買えるところが見つからなかったり、匂いがするのが嫌だとかで結局誰も喫煙者になることはなかった。紫だけが、祖母の家で吸い続けた。
自分が喫煙者になったことを、誰かに積極的に話すことはなかった。祖母が売ってくれたのは自分が孫だから、という理由もあっただろうし、祖母が話してくれたことから何かを削って紫に煙草を売っているように感じたからだ。
紫は祖母の店に入り浸るようになり、祖母に色々と話すようになった。中高生時代に道を大きく踏み外しきらなかったのは、そのお陰が大きいと感謝もしている。
理緒に煙草を売ることにしたのは、その時のことを思い出したからだ。
予感通り、これで良かったのかと悩む日々が続いた。理緒が元気になっている姿を見て安心し、理緒が来るのを楽しみにしている自分にも気が付いたが、そうした思いは小さくも残っていた。
祖母が何を削っていたのかをなんとなく理解した。煙草を売らなくても、理緒の信用を得られるように行動できれば未成年に煙草を売ることなんてせずにどうにかできたかもしれない。きっと、そうできる人はそうするのだろう。
紫にはそれはできなかった。祖母もたぶん同じ思いを抱いていたはずだ。
紫が理緒を救っただとか、そんなことまではいくらなんでも思っていない。理緒は死ぬような辛い思いをしてきたが、それでも自分の足で立って生きている。人を恨まらない分自分を責める傾向があるが、強さを持っている人間だと思っている。紫のしたことはただの余計なお世話だったのかもしれない。
もっとなにか良いやり方があったかもしれない。けれど当時の紫にはそれができなかった。だから後悔はない、とは言えるのだが。
きっと、理緒がいくつになってもこんな気持ちを抱くのだろう。
灰皿に乗った吸い殻が両手の指を越えたあたりで、一息つくことにする。
したことの責任はとる。そういう気持ちはあるが、理緒を妹のように大事に思っている自分がいる。店が理緒にとっての居場所の一つにでもなればいい。
「……仕事でもすっか」
んっと伸びをして、パソコンデスクまで移動する。
理緒が次に来るときは、なんらかの良い知らせが聞けたらいい。
妹のような友達に、幸せになってほしい。
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