葉山理緒と九重美咲 41

「ゆあとの話は、これで全部」


 語り終えた理緒は、ちらりと壁の時計を見やった。かなりの時間が過ぎていて、夜も更けてきている。

 倉橋はほとんど相槌も挟まずに黙って聞いていた。うなだれるようして、大きく息を吐いている。吐き切った息に混ざって、つぶやきが聞こえた。


「ひどい」

「……そうだね、ひどいよ」


 胸の火傷はまだ残っている。消えそうにもない跡は日常でも気になってしまうことは多かったが、今はだいぶ慣れてしまった。鏡で見えてしまうとどうしても嫌な気持にはなるが、違和感のようなものは薄れている。

 ゆあとは、あれ以来一切関わっていない。

 学校で見かけることもあったがゆあの方から避けるようになったし、理緒も図書室には行かなくなった。

 ゆあが残した傷は心身ともに消えない。けれど心の方は回復してきていると思う。たまに脳裏に浮かんできて落ち込むこともあるが、その回数も少なくなり元気に過ごせるようになった。

 香澄や沙耶と一緒にいて、紫と会ったりする時間が理緒を癒した。大学生になってから友達も増えたし、一人と付き合ったこともあった。

 そして、美咲を好きになった。

 振り返れば順調に回復しているような気がしている。このまま何事もなく幸せになれるのかもしれないと、そんな希望を漠然と抱いていた。

 なんの根拠もない希望は、今は見る影もない。傷つき、美咲を遠ざけ、さっきは逃げ出しもした。

 結局のところ、何も変わっていなかったのかもしれない。傷ついたことは時間が癒したが、理緒は別に強くなったわけではない。

 重たい徒労感が両肩にのしかかったように思える。ひどいのは、自分のあり様でもあった。


「倉橋は言ったよね。同じ経験をしてるからわかりあえるって」

「……うん」

「恋人に暴力を振るわれたことはある?」

「それは……ない」

「じゃああたしと倉橋は同じじゃないよね」

「そうだけど」


 倉橋は嫌そうに唇を曲げる。

 理緒は気にせずに続けた。理緒だってこんなこと言いたくなんてない。ただ、倉橋の言葉にはどうしても頷けないものがある。

 それを認めてしまったら、何もできなくなる気がする。


「倉橋としかできない話はあるけど、だからって他の人と話せないなんてことないよ。あたしは良い友達もいるし、何度も救われてきたから」

「でも、僕の方が葉山の気持ちはわかる」


 倉橋の強い断言に、続けようとした言葉が止まる。

 身を乗り出すようにして倉橋が畳みかける。


「葉山の言うことはわかるよ。僕だって友達はいるし、みんな良い人だから。でもそうじゃないんだよ。知らなかったで葉山を傷つけるような人はそもそも違うじゃんか。さっきも言ったけど、葉山を理解して大切にできる人が葉山のそばにいるべきだっていいたいんだよ」

「……美咲は」

「そいつはダメだよ。葉山のことを傷つけるだけだ」

「なんでそんなこと言うの……?」


 美咲は理緒を傷つけた。事実を言われているだけなのに、胸の内に反発心のようなものが湧き出てくる。


「実際にそうだよ。葉山のことを理解できない。聞いたってわからない」

「あたしの経験だって、倉橋にはわからないよ」

「美咲にされたことで葉山が傷ついたことはわかるよ!」


 テーブルを叩いて声を上げる倉橋に、思わず身体がすくんだ。

 倉橋は目を伏せて「ごめん」と小さく謝り、細い息を吐いた。


「葉山が経験した全部はわからないかもしれないけど、されたことの痛みはわかるよ。僕もそうだったから、それがどれだけ気持ち悪くて嫌な気持ちになるのかはわかるんだよ。僕は、わかるよ……」

「倉橋……」

「葉山の元カノの話、聞けてよかった。知らなかったことを知れて……言い方は悪いけど嬉しかったよ。同じ経験はしてないけど、一方的に傷つけられる気持ちはわかるから」

「っ……」


 この話をしたのは初めてだ。香澄と沙耶、紫の三人をのぞけば、だが。三人にもしていない細かい部分も勢いに任せて話した。

 理解してほしかったわけではない、倉橋の話に合わせれば理解できるわけないのだから。

 理緒がしたのは、ゆあが最後にしようとしたのと同じだ。

 自分の過去を道具にした。理解からは程遠いものを求めて、倉橋にぶつけた。

 求めているものは違ったとしても、やっていることは何も変わらない。


「同じ経験って言ったけどさ、まったく全部同じである必要はないんじゃないかな」

「どういうこと?」

「葉山の辛さを全部はわからないかもしれない。でも、身近にいる人間に傷つけられるってことはよく理解できる。だから僕たちならわかりあえる」

「…………」


 確かに、その点でいえば倉橋に共感できる。けれど倉橋の言い方はどうしても他の人を拒絶しているように聞こえてしまう。

 自分の気持ちをどう伝えればいいのかわからない。というより、自分の気持ちが今どこにあるのかもわからない。

 確かなことは、いったいなんだろう。


「辛い目に遭ったことない人はみんな想像力がない、とまでは言わないけどやっぱりそういう傾向はある気がする。そういう人は無自覚にこっちを傷つけるんだよ。後から謝られても遅いってこともわかってない」


 倉橋の言葉に、ゆあとの最後のやり取りを浮かんでくる。

 あの時理緒は遅い、とばかり思っていた。もっと早くそうしてくれたら、と手遅れになっていることもわかりながら訴えたかった。


「ゆあも、そうだったよ。たぶん辛い思いをしたけど、あたしを意識的に傷つけた」

「……例外はいくらでもいるけどさ」


 苦い顔の倉橋に、やりにくくなって顔を伏せる。

 無意味な反論だったかもしれない。倉橋の言うことにただ言い返したいだけにしか思えない。自分の幼稚さに、嫌気がさす。


「……今日はもうやめよう。葉山も休んだ方がいいよ」

「あたしは……」


 言葉が続かなかったのは、また無意味に言い返そうとしただけだったからだ。

 それに、実際に続く言葉はなかった。

 過去を吐き出したことで力尽きてしまったのかもしれない。理緒にとって過去とは、家族とゆあが大きく占めている。楽しいことや大事なことはいくらでもあったはずなのに、どうしたって出てくるものは辛かった記憶だ。

 これが大嫌いだ。嫌なものに縛られ続けるのが、本当に嫌いだ。

 自分が一歩たりとも進んでいないことをいつだって思い知らされる。


「葉山の気持ちを一番理解できるのは、たぶん僕だよ。僕なら、葉山に辛い思いなんてさせない」

「…………」

「あのさ、泊っていってもいい?」


 倉橋の伺うような視線に、なんて返事をすればいいのかがわからない。気持ちが沈み込んでいてどうしても二の足を踏んでしまう。


「無理ならもちろん帰るけど、葉山を一人にしたくないんだよ。あの時みたいに、一緒にいたい」


 中学生の時、理緒は毎日倉橋の家にいた。もしその日々がなかったら、おそらく理緒は今こうして暮らせていない気がする。倉橋の家は理緒にとって最後の砦で、それを支えにどうにか生きてきた。

 あの時みたいに、と言われると二つの記憶がよみがえる。

 倉橋と過ごした日々と、家族に傷つけられた記憶を。

 辛いことを思い出したいわけがない。良いことだけを思い出して、幸せに暮らしていきたい。それなのに、どうしたって嫌な記憶は消えてなくならない。

 そもそもゆあの話を勝手に始めたのは自分だ。人にぶつけようとした過去で自分がダメージを食らってしまっている。笑いたいぐらい馬鹿な自分を、笑うことができない。

 一人で考え込みすぎるのはよくないということだけはゆあの一件で学んだ。あれ以来精神的にマズいかなと思いとすぐに人に話すクセがついた。これが良いクセなのかはよくはわからないが、とにかくそうしている。

 そこまで行くことは滅多にないのだが、今は精神面がかなり不安定な自覚はある。

 目の前には倉橋がいる。中学時代にさんざん頼ってしまった相手だ。ゆあのことも話した今、理緒のことをもっとも知っている人の一人になっている。

 泊ってもらって、一緒にいてもらえば少しは安心できるだろうか。

 それは、倉橋の言葉通り中学時代とまったく同じではないだろうか。一方的に頼るばかりで、何も変わっていないことを認めることにしかないのではないか。

 考え込みすぎてる。その自覚があってもどうにかなるものでもない。

 倉橋は理緒の返事を辛抱強く待っている。このまま黙っていればなにかしら察して言ってくれるだろうが、さすがに甘えがすぎると嫌になる。


「……ごめん、一人になりたい」

「わかった。何かあればいつでも話聞けるから」


 倉橋はあっさりと頷いて、立ち上がる。じっと理緒を見下ろして、迷った様子で目を泳がせる。よそを向いた唇が、言葉を落とす。


「わかってると思うけどこれだけは言っておくよ。美咲は、ゆあって人と同じだよ。葉山を傷つけるだけの人だから、離れた方がいい」


 言い置いて、さっと玄関に歩いていく。慌てて見送りにいこうとするが、倉橋は軽く手を振るだけで出て行ってしまった。

 半端な体勢で固まってしまった理緒の耳に、倉橋の言葉が反響している。


(美咲は、ゆあと同じ……)


 胸の火傷が痛んだ気がして、顔をしかめる。

 倉橋の言葉にどうしてこんなに反発を感じてしまうのか、自分でもよくわからない。

 わからないことばかりの自分が、たまらなく嫌だった。 

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