葉山理緒と人見ゆあ 19
「いっ、た……」
起き上がるとずき、と脇腹が痛んだ。
シャツをめくりあげて、脇腹に貼っていた湿布を少し剝がしてみる。露になった皮膚は相変わらずの紫色をしていて、昨日と何も変わっていなかった。
ゆあに蹴られたところだ。
あのあと意識をを取り戻した理緒は、何もできずにずっとベッドに横になっていた。ゆあの暴力を受けたところはくまなく痛かったが、腫れあがり紫になっていた脇腹は特別強い痛みを発し続けている。
骨が折れているのかもしれないと思うほどだ。スマートフォンで適当に検索してみたが、折れているのかヒビなのか打撲で済んでいるのかよくわからない。不安なら病院に行きましょう、という一文を見てスマートフォンを閉じ寝ることにしたのだった。
脇腹だけではなく、腹にも何か所かあざができている。誰がどう見ても、暴力を受けたと断定するしかない状態だ。
映画かなにかで見たような気がするが、事件性のある外傷があれば警察に通報される、らしい。そうなれば、ゆあのことが露見する。ゆあが行ったことは障害でしかないので、逮捕される、のだろうか。
そのあたりも調べてみようかと思ったが、億劫でやめておいた。
一夜明けても脇腹の状態は変わらないので、病院に行くべきなのだろう。だが、それよりも考えたいことがある。
結局。
「別れたって言えない……よね」
昨日のことを思い出して曖昧にうめく。
別れると告げはしたがゆあは承諾しなかったし、撤回させるために暴力を振るってきたのだ。最後はなぜか呆然として帰っていったが、別れるということは最後まで認めてはいなかった。
ぶるりと身体が震えた。ゆあはその気になれば家にいつでも来れるし、無視したとしても夏休みが終われば学校で顔を合わせることにもなる。
親友にもちゃんと別れると宣言しておいてこの様だ。甘かったとしかいいようがない。
ゆあと向かい合って話せる気はもうしない。何をされるかわからない、というのはもちろんだけど、ただただ怖い。
ゆあにこれまで振るわれた様々なかたちの暴力は、嫌でも頭に身体にこびりついてしまっている。こんな状態では、理緒もまともに話せそうにない。
「……どうにかしないと」
自分でもむなしく響く言葉だった。
香澄と沙耶に相談するしかないか、と息を吐く。これ以上一人で考えてもまた変な袋小路にはまってしまう気がする。
とりあえず一服しよう、とベッドを下りる。
タバコに火を点けると、ずき、と胸が痛んだ。
シャツの上から指をあてる。タバコを押し当てられたところはひどい火傷になっていた。跡になって残るのは間違いないだろう。それはまあ、どうでもいいといえばいいのだけど。
紫煙を吸い込むと、火傷が痛むような気がする。どうしても気が散るので、諦めてタバコを灰皿に揉み消した。
ずるずると壁に背をつけて座り込む。痛みすくむ身体に嫌なことを思い出した。
目の前にいないのに、身体を縛られる感覚。やった本人がいなくたって、されたことは全身に刻まれていて身体が重たく感じる。
この感覚が死ぬほど嫌いだ。どうして、いつまでもあいつらのやったことに苦しみ続けなければいけないんだろう。
忘れたい。忘れられなくても、そんなものをはねのけられる強さが欲しい。
「ほんと弱いな……あたしって」
自嘲する声もか細く、自分の存在も不確かなものに思えてくる。
もちろんそんなわけはなく、理緒は確かにここにいる。そしてそれは、受けた傷も確かにあると認めることにもなる。
しばらく座っていたが、寝直そうと立ち上がる。脇腹のためにも、安静にして寝ていた方がいいだろう。
寝室に戻ると、ベッドに乗っているスマートフォンがメッセージの着信を示していた。
送り主は、ゆあだった。
☆☆☆
「……理緒」
「話って?」
理緒がすぐに切り出すと、ゆあは迷うように視線を巡らせた。
ゆあの用件は、要はもう一度話したいというものだった。
承諾したのは、内容が今までのゆあのものとは少しトーンが違っていたからだ。まず昨日の行為の謝罪から始まり、別れるということも了承していた。
メッセージは、理緒ともう一度だけ話したいと締められていた。
正直なところ嫌だった。メッセージではこう言っていても、顔を合わせたら何をされるのかわかったものではない。
それでも会うと決めたのは……自分でもよくわからない。
家で会うのは避け、ファストフード店で話すことを提案するとゆあはそれも認めた。まあ、これを認めなかったらさすがに会うことはしなかっただろう。
ゆあの様子がいつもと違う。しおらしいというか、妙におどおどしている。いつもの微笑みもなく、落ち着かない様子で理緒を見ている。
理緒は、激しくなる鼓動を抑えるのに必死だった。
ゆあと向かい合うと、どうやったってされたことを思い出させる。傷が余計に痛む気がするし、今すぐ走って逃げだしたい。
「……家以外って会うって、あまりしてなかったね」
ゆあが小さい声でつぶやく。
付き合う前はそうでもなかったが、付き合ってからは理緒の家にゆあが来るばかりだった。
懐かしい、のかもしれないが、理緒はその話を断ち切った。
「本題に入ってよ」
「理緒……」
「話したかったのがそういうことなら、あたしは帰るよ」
毅然と告げると、ゆあは少し驚いたように目を見開いた。
そうだね、とつぶやくとテーブルの上に深々と頭を下げる。
「ごめんなさい」
「…………」
「理緒にしたこと、全部私が悪かった。理緒のことたくさん傷つけた……ごめんなさい」
「やめてよ」
ゆあが顔を上げる。申し訳なさそうな、見たことのない表情だ。
どうして。
「なんで?」
「……悪いことしたって気付いたから」
「そうじゃないよ。なんで今更謝るの?」
「許してくれないとは思うけど、ちゃんと……」
「違うよ!」
ゆあの言っていることはまるで違う。
「謝れるなら、悪いことしたって言えるならなんでもっと早くできないの!?」
「理緒、声が大きい……」
「あんなことする前に気づけたら良かったのに。そうしてたら……」
言葉が続かなくなって、涙がこみあげるのをぐっと堪える。
ファストフード店の中で大きい声を出したら周りに見られる。だからなんだ。気にするのはそんなことなのか。
人を傷つけて何も気にしていないのもひどく嫌で怒りを覚えた。けれど後から気にされるのはもっと嫌で、とても悲しい。
応じるべきじゃなかった。ゆあと直接会わずに終わりにしてしまえば良かった。
もしかしたらうまくできた道があったかもなんて、今更思いたくもない。
目を思い切り拭う。わざと乱暴な動作をして、どうにか気持ちを落ち着ける。
「そうだね、本当にごめん。今更って思うだろうけど、謝りたかったんだ」
繰り返しの謝罪に、今度は応じない。ゆあが何をしても、理緒を傷つける。暴力でも謝罪でも、何もまともに受け取りなくなんかない。
ぐっと見つめ返す理緒にひるんだように、ゆあは言葉を重ねる。
「私、理緒のこと好きで、それだけは本当で……でも独りよがりになっちゃった。理緒も喜んでくれるって勘違いして、それであんなことしちゃって」
「もうやめて」
聞いていられなくなって制止する。
「話って、謝りたいってこと? それならもういいよ……聞きたくない」
「理緒……」
「いくら謝られてもあたしも辛いよ。なんでもっと早くってそれしか思えない」
「気づいたんだ」
拒絶をはねのけるように、ゆあは言葉を強めた。
それだけで少し体がすくむ。それがわからなかったわけではないみたいだが、ゆあは止まらなかった。
「理緒に叩かれて、同じだってわかった」
「同じ?」
「うん……あのね、理緒」
ゆあが呼ぶ名前がくすぐったい。不快なものかどうかも、よくわからなかった。
「もう一つだけ話したいことがあるんだ、聞いてほしい」
「……なに?」
警戒を消せないまま聞き返す。口にした通り、今更何を言われても余計に辛いだけだ。
それでも席を立つこともできない。聞きたいと思う話なんて、もうないはずなのに。
「私ね……お母さんと二人で暮らしてるんだ」
「…………」
「それで、子供の時からお母さんは私に」
「待って」
強い調子でゆあの言葉を遮る。
まだ具体的なことは何も言っていない。それなのにどうしてだか話そうとしているものがわかってしまった。
勘違いだと思いたい。でも、続きを聞きたくないという拒絶が一番強く出た。
「そういう話?」
抽象的な問いだけど、理緒の想像通りならこれできっと伝わる。
ゆあもわかっていたのかもしれない。硬い表情で、小さく頷いた。
「理緒もそうなんじゃないかって思ってた。お父さん? にされた話は聞いたけど、理緒が一人暮らししてることとか考えると色々と想像つくものもあるし。私はそこまでじゃないけど、同じような……」
「やめてよ」
今度は弱弱しい声だったが、ゆあは止まってくれた。
とてつもない虚脱感に身体が重たくなった。ゆあが話そうとしてることはもう間違いない。要は、同じだと言いたいのだろう。
正直なところ、想像もしていなかった。ゆあが同じだとしても、別に嬉しくもなんともない。こうなってしまったからではなく、付き合い始めた時に話されたとしても同じだと思う。
聞きたくないのは、聞いたところでどうしようもないからだ。きっと怒りと悲しみがもっと大きくなって、余計に嫌な気持ちになる。
もう一つ、ありえないと思いつつ頭に浮かんでしまうこともある。
(最後まで聞いたら……許しちゃうかもしれない)
必要のない懸念のはずなのに、どうしてだか浮かんでくる。
とにかく、ゆあの話はもう聞かない。聞けない。
「ゆあの話はもう聞きたくない。もう終わり、あたしは帰る」
「待って」
立ち上がって帰ろうとする理緒の腕を、ゆあが強い力で掴んできた。
「や、やだっ!」
こみ上げる嫌悪感に任せて腕を振り払う。掴まれた腕をおさえて、警戒しながらゆあに向き直る。
ぞっとした。
ゆあの顔は、ひどく悲壮なものだった。傷ついた子供のようなゆあが、理緒にすがりつくような眼差しを向けている。
突発的な恐怖が理緒を満たした。様々な感情が膨れ上がって、身体が止まってしまう。
見つめあったのは数秒だっただろうか、必死にゆあから目を背けて足早に店を出た。
心臓がばくばく鳴っている。店を出てもしばらく早足で歩き続けて、途中で一度だけ振り返った。
ゆあがいないことにほっとして、ようやく人心地つく。
これでよかった、と内心で唱える。ゆあの話を聞いてやることなんてない。
話をする権利は、ゆあの方から捨てたのだから。
「……これで終わりだよね」
こうして、理緒とゆあの短い交際は終わりを告げた。
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