葉山理緒と人見ゆあ 18
ゆあを目の前にすると、自分が揺らぐのを感じた。
気持ちがではなく、身体がだ。ゆあを待っている間もひどい緊張を感じていたが、本人を目の前にすると一瞬でピークに達した。
「どしたの、具合悪い?」
「話があるの」
「なに?」
テーブルをはさんで座っているゆあはいつもと変わらず、にこやかにほほ笑んでいる。
好きだったはずのゆあのすべてが、理緒を威圧するものに思えてしまう。
(……ゆあと、別れる)
そう決意した。本人に告げれば、それで終わるはずだ。
心臓が痛いぐらいに鳴っている。言わなければいけない言葉が、喉でつっかえて出てこない。
「やっぱり具合悪いの? 寝ててもいいよ」
親切そうに言って、理緒の顔を覗き込むようにする。
気遣うようなことなんて、言わないで欲しい。今まで理緒がどれだけやめてと言ってもやめなかったくせに、そんなことを言われると……
胸の奥に感情があふれてくる。怒りと、悲しみと。
その勢いに任せて、言葉を絞り出す。
「別れたい」
「…………」
理緒が告げた言葉には、沈黙だけが返ってきた。
ゆあの表情は、怖いぐらい何も変わらなかった。
やけに長い沈黙の後に、ゆあはゆるやかに微笑んだ。
「私はそういう冗談、嫌いだな」
「冗談じゃない、から」
「いいって、理緒。そういうの」
理緒が必死に紡ぐ言葉に、ゆあはいつも通りのペースで返してくる。自分がしようとしていることが何の意味もないように感じられて、焦りに手を握りこむ。
全身に嫌な汗が流れている。理緒が何を言ってもゆあはまるで本気にせずに軽くいなしてしまう。
無力感すら感じる理緒の耳に、ゆあの言葉が聞こえた。
「いつもみたいにいちゃいちゃしようよ。理緒だって好きでしょ?」
ぷつんと、理緒の中で何かが切れた。
気付くとテーブルを思い切り叩いて、身を乗り出してゆあを睨みつけていた。
「な、なに……?」
身を引きながら眉をひそめるゆあに、今度こそ決定的な言葉を叩きつける。
「もう嫌なの。ゆあとは付き合えない。別れて!」
「……なんで?」
数秒した返事は、本気で困惑した声と戸惑った顔だった。
「なんでそんなこと言うの? 私がなにかした?」
「っ、ゆあに触られるのが嫌なの。無理だって言ってもやめてくれないし、辛かったのにゆあはあたしのことを考えてくれない。ほんとに、もう無理……」
こみ上げる涙をぬぐうこともせずにわめくように続ける。
ゆあの不思議そうな態度は、むしろ理緒の方がおかしいことを言っている気にさせられる。まるで自分が間違っているように思えるが、それだけは認めてはいけない。
間違っていたっていい、このままではいられない。
「……本気で言ってんだ」
ゆあはぼそりとつぶやいて、立ち上がりテーブルを回りこんでくる。
はぁ、と小さくため息したかと思うと理緒の頬をひっぱたいてきた。
衝撃に倒れる理緒に馬乗りになり、何度も頬を叩いてくる。
「やめ……やめてっ」
「理緒が悪い」
無感情に告げて、ゆあは叩くのをやめない。
抵抗のために自分の顔を隠すようにした両腕を掴まれて、ぐいと顔を覗き込んでくる。
何の感情も見せない真顔が、とても怖い。
「こんなに理緒が好きなのになんでわかってくれないの? 理緒だって好きって言ったよね? キスもえっちもいっぱいしたのになんで今更そんなこと言うの? 理緒も、私を捨てるの?」
「なに言ってるの……」
ゆあの目の焦点がどこか合ってないように見える。理緒を見ているようで、別のものを見ているような。
また頬を張られた。ゆあは何か言いながら叩いているようだが、何を言ってるのかはよくわからなかった。
顔が痛いというより熱くて、頭がぐわんぐわんと揺れている。二日酔いとはまた違う気持ち悪さだ。吐けば楽になれるかと思ったが、そういう気持ち悪さではない。
いつの間にかゆあの暴力が止まっていた。軽く息切れしているようで、吐息とともに言葉を落としてくる。
「理緒。今なら許すよ」
「…………」
「別れるなんて嘘だよね」
「……別、れる。も、いや……」
途切れ途切れに口にする。
痛い、怖い、何もかも嫌だけど、ここで踏みとどまれないと何もかも台無しになってしまう。
(こんなことなら、家で話すんじゃなかったかもだけど)
そんな後悔がよぎるが、今更だ。
ゆあが理緒から退いた。ふっと軽くなり、わかってくれたのだろうかと期待がにじむ。
と、ゆあが理緒の腹を思い切り蹴りつけた。
あまりの衝撃に身体をくの字にして、蹴られた腹をおさえつける。
「なんで、わからないのっ!」
ゆあは執拗に理緒を蹴り続ける。腹部への衝撃に声も出せずに、ただ体を丸くする。
「理緒には、わたしが必要なの! わたしにも理緒が! それがわかんない理緒が、全部悪い!」
蹴られ、踏まれ、抵抗する力がどんどん奪われていく。
制止は通じず、漏れるうめき声も小さくなる。このまま死ぬのかもしれないと他人事のように思う。
ゆあの踏み付けが理緒の脇腹に深く入った。これまでとは違う類の衝撃が起こり、「ぎっ……!?」とおかしな声が出た。
痛いということ以外なにも考えられないぐらいに痛い。されていることも何もかも吹き飛んで、痛む脇腹をおさえて体を丸める。
わずかに痛みがおさまって、ゆあがいないことに気が付いた。
(帰った……?)
確かめるために起き上がろうとすると、脇腹の痛みが跳ねた。
仰向けになり酸素を求めてあえぐ。動けそうにもなくずきずきという痛みが全身を支配している。
呼吸が整わない理緒の耳に、ゆあの咳が聞こえた。
「けほっ……よくこんなの……」
理緒を見下ろすゆあの指に、火の点いたタバコが挟まれている。
ゆあはくすりと笑って、タバコをひらひらと振って見せた。
「理緒が吸ってること、知ってるよ? バレてないと思ってる理緒も可愛かったけど……今日はおしおき」
言うなり理緒のシャツを掴んでめくりあげる。咄嗟に身をよじると脇腹が痛んで動けなくなった。
ゆあはおもむろに火の点いたタバコを理緒の胸に押し付けた。
「――ああ! ああああああああああ!!!」
絶叫する理緒に、ゆあは満足そうに微笑んだ。
「理緒が私のものだって証」
目の前が真っ白になっていた。ちかちかと頭の中で何かが明滅している。痛いというよりとても大きい違和感が胸の真ん中にあるような、とにかく気持ちが悪い。
身体は動こうとしない。呼吸も小刻みに浅いものしか出てこない。
現実が戻ってくる。真っ白だった視界も形を取り戻してきて、何が起こっているのかを理緒に思い起こさせた。
視界を突然覆うように現れたのはゆあの顔だった。
唇を重ね、ゆあの舌が入り込んでくる。
「――っ!!」
右腕を思い切り振って、ゆあの横顔にぶつける。
ゆあはあっけなく吹き飛んで、床に転がっていった。それを横目で見て、床を押してどうにか身体を起こす。
髪の毛がぱらぱらと垂れて邪魔だったが、よける力もなかった。隙間から見えるゆあは、頬を抑えて呆然と理緒を見つめていた。
「帰っ、て……ゆあと、は……別れる」
「…………」
息も絶え絶えに繰り返す理緒に、しかし返事はなかった。
ややあって、ゆあはのろのろと立ち上がった。何をされても抵抗はできそうにないが、できることはこれだけだとひたすらに睨みつける。
ゆあは理緒を見ることなく、玄関に歩いて行く。理緒は動けないまま、ゆあの背中を睨み続けた。
「……ごめん」
そんな言葉が聞こえた気がしたが、本当にそう言ったのだろうか。
ドアを開けて、ゆあがいなくなった。
ドアが閉められる音がしても、しばらく動かずにドアを見つめていた。すぐに戻ってくるのではないかという不安と、早く鍵をかけないとという焦りがあったが、身体が動かない。
どれぐらいたったのか、痛む脇腹を抑えてよろよろと鍵をかけにいく。
がちゃりという音がやけに頭に響く。
(……終わっ、た?)
終わったとは、どういうことだろうか。
ゆあはただ暴力を振るって家を出ただけだ。理緒の別れるという言葉には、一切頷かなかった。
この時間に何の意味があったのだろう。
そんな自問に答えることができないまま、理緒は意識を失った。
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