葉山理緒と九重美咲 2

 電話に出たのは中年と思われる女性で、九重和香ここのえわかと名乗った。

 猫を保護したという理緒に和香は電話口で何度も礼を言い、ご面倒でしょうが近くの公園へ連れてきてもらえるかと丁寧に頼まれた。娘を向かわせるという。

 黒猫――ユキという名前だそうだ――を運ぶ手段がないと言うと、何か袋に入れてくれれば大丈夫だと言われた。さすがにそれはどうなのだろうと思ったのだが、ユキは袋が好きなようで入ってさえいれば大人しくしているそうだ。猫のことをまったく知らない理緒はそういうものかと納得することにした。

 電話を切り、さっそく袋を探す。とはいえビニール袋に入れるのもあんまりだろうと思い、あまり使っていないトートバッグに入れることにした。あとはどうやって入れるかだったが、トートバッグの口を開けてみるとユキはゆったりとした足取りで入っていきそこが家であるかのようにくつろぎだした。


「……猫はよくわかんないな」


 頭を搔いてぼやき、外に出る支度をすることにする。さすがにスウェットで出かけるわけにもいかない。

 適当に服を着こんで、トートバッグを抱えて家を出る。

 春先のまぶしい日差しに目を細めて、かすかに眩暈を覚える。4月も下旬だが、札幌ではようやく少し暖かくなってきたという程度だ。さすがに道に雪は残っていないが、公園の端っこにわずかに残っていることもある。

 トートバッグを抱えなおす。持ち手でぶらさげていくのも気が引けたので、右腕の方は下から抱えるようにして運んでいる。

 中を覗いてみると、くつろいだ様子で呑気にしているユキが理緒を見上げて目が合った。耳をぴくぴくさせて、体を丸めだす。このまま眠ってすらしまいそうだ。確かにこれなら逃げ出したりはしなさそうだ。

 指定された公園は歩いて5分ほどのところだった。猫がそんな遠くに行くとも思えなかったが、やはり九重家は近所にあるのだろう。歩いていけば、すぐにでも着く。

 日差しは思いのほか強く、服を着こみすぎたかなと若干の後悔を覚える。しかしユキを抱えているので、上着を脱ぐのも手間だ。

 ふと、ユキはどうして脱走したのだろうと思った。

 自由を求めて旅に出たのだろうか。

 それとも。


「お家が嫌だった?」


 訊いたところで返事があるわけがないのだは。

 どの道ユキは丸まったままだ。本当に寝ているのかもしれない。帰りたくないのか帰りたいのか、何もうかがうことはできない。

 公園にはすぐに着いた。

 だが人影はまるでなかった。土曜なのだから子供がいてもおかしくはなかったが、そういうこともあるだろう。つまり、和香が言っていた娘の姿もない。

 そういえば、娘の特徴どころか年齢すらわからない。理緒と同じぐらいなのか上か下かも。まあ、約束した公園でトートバッグを抱えている人が一人でいるのだからすぐにわかるだろう。理緒の方は一応名前も教えている。

 ベンチが濡れていないかどうかを確認してから腰かける。ユキは変わらず寝ていた。なんとなく観察していると、ユキが不意に顔を上げた。

 つられて理緒も顔を上げると、一人の少女が息せき切って公園に駆け込んできたのが見えた。その顔が見えて、理緒は目を見開いた。


「ゆ、あ……?」


 いや、違う。

 少女が理緒を見つけて向かってくるにつれて、もっとはっきりと顔が見えるようになった。人違いだ。似ているような気がしたが、はっきりと別人だ。

 高校生ぐらいに見えるその少女は、栗色の長い髪を揺らしながら近づいてきて理緒の前で屈んで目を合わせた。


「はや……りお、ちゃん……?」


 息を整えながら確認してくる相手に小さくうなずいて、トートバッグの口を開けてユキを見せた。


「ユキ!」


 少女ぱっと表情を輝かせて、トートバッグに両手を差し入れてユキを抱き上げた。ユキはなーと鳴き、少女は顔を寄せて何やら囁いている。

 目鼻立ちが整ったはっきりとしたわかりやすい美人だ。目がとてもキレイで、さぞかしモテるだろうなと思える。ただ、それとは関係なく心臓がやけに脈打つのを感じる。


(別人、だって……!)


 胸中で叫ぶのだが、鼓動は速いままだ。ユキは渡したしこのまま逃げ出したかったが、それができないままベンチから動けずにいる。

 少女はユキを片手で抱えなおして、にっこりと笑いかけてきた。


「ユキを連れてきてくれてありがとう。理緒ちゃん、だよね?」


 少女の問いに小さく顎を引く。少女は空いた方の手で理緒の頭に手を乗せた。体がびくりと震えたが、なんとか堪える。


「わたしは九重美咲ここのえみさき。ユキの飼い主だよ」


 理緒の様子を緊張かなにかととったのか、美咲の声色は柔らかく優しかった。それとも、素でこういう性格なのか。頭を軽く撫でる手も優しくて、やめてほしいとも言い出しにくかった。

 やめてほしいと強く思っているわけではない自分に気づいて、ぎゅっと目をつむった。美咲は、何も関係のない初対面の人間だ。だったら、普通に話すことができるはずだ。


「ユキがごめんね。理緒ちゃんの家にいたの?」

「その子、うちのベランダにいつの間にか入ってきてて」

「そうなんだ。いつの間にかいなくなってて心配してたんだ。本当にありがとう」

「うん……」

「理緒ちゃんは、ひとりで来たの?」

「え、うん」


 頭を撫でる手を離してそっかぁとうなずく美咲を見て、妙な心地を味わっていた。

 おそらく、いや確実に子供に思われている。美咲は恐らく高校生、いって大学生に見えるので年は上ということはないはずだ。子ども扱いされていることは「またか」という諦観があり、明るい人懐っこさにわずかな戸惑い、それから先の動揺を引きずった心の底にわだかまるものがないまぜになって自分でもよくわからない複雑な感情が渦巻いている。


(大丈夫、大丈夫……)


 呪文のように胸中で唱えて、湧きあがりかけた自己嫌悪に蓋をする。

 美咲が何かを言うより先に、トートバッグを押し付ける。


「ユキちゃん、これに入れてってあげて」

「え?」

「抱いて運んでいくのもあれだし、これ使ってないやつで持ってっていいから」

「うーん」


 美咲はトートバッグを受け取らずに、理緒の提案に少し考えてから「ちょっと待ってて」と立ち上がった。

 背中を向けてスマートフォンを取り出して少し離れていく美咲を見ながら、所在なく座りなおす。

 美咲の後ろ姿を見ながら呼吸を深くする。記憶の人物とは似ていない。どうして最初にそう思ったのかわからないほど、美咲とあの人は違う。

 小さく、こっそりと溜息をつく。

 過去の記憶が断片的に浮かんでくる。ダメだ、止めようと思っても一度浮かんでしまえば止めることができない。記憶を振り払えていないことが、自分の不甲斐なさを責めるスイッチになってしまっている。

 気持ちが沈む自分に嫌気がさす。もう、どれぐらい経ったと思っているんだ。


「――理緒ちゃん?」


 名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。美咲の大きい目が、理緒の顔を覗き込んでいた。電話は終わったようだった。理緒が気づかないままうつむいていたせいで、不思議そうに小首をかしげている。


「どうしたの? 具合悪いの?」

「ううん……大丈夫」


 理緒の否定を聞いて、美咲は小さくうなずいた。続いて理緒に向かってにっこりと笑いかけた。その真っすぐな瞳が理緒をとらえて、次の言葉を告げてきた。


「理緒ちゃん、うちに来ない?」

「………………はい?」


 思い切り、素の声が出た。

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