9月15日の彼ら

 マウスを操ってメールアイコンの上にポインターを滑らせ、ひと思いにクリックすべく、人差し指の先に力を込める。

 だが込めたはずの力は、カチリと音が鳴る寸前、「はあ~」という異様な長さの溜息とともに抜けて雲散霧消した。

 ごちゃごちゃと生活雑貨が散らかる狭い居間の隅。安っぽいスチールラックの上に設置された、もしもメーカー修理に出そうものなら「部品が生産終了してるので直せませんね、買い換えたほうがいいですよ」と冷淡に告げられそうな、古いデスクトップPCの前。

 耳馴染みのない怪しげなスポーツブランドのポロシャツを着たボサボサ髪の男は、口をへの字に曲げながら、全面に薄らと埃が付着したモニターをジト目で睨みつけていた。

「やっぱり、明日からにするか」

 マウスから手を離して両腕を組み、うんうん、と頷く男の背後で、濃紺の七分袖シャツの上からエプロンをかけた青年もまた、口をへの字に曲げている。ただし、睨んでいるのはモニターではなく、ボサボサ髪の男の後頭部である。

「それは明日も同じ台詞を言う流れっスね。つまり却下っス」

「明日からは本気出すってマジで」

「今朝は『昼からは本気出すってマジで』で、昼は『夜からは本気出すってマジで』だったんスけど、僕は一体、いつになったら上司のマジな本気を見ることができるんスかね」

「ああもう、分かったって。やればいいんだろ、やーれーば!」

 逆切れ半分、自棄半分の勢いで、男は今度こそ無駄に力強くマウスを左クリックし、最大画面でメールボックスを展開させた。

 その途端、ウィンドウの縦一列をびっちりと埋め尽くす大量の未開封メール。

 男は声も無く、両掌で顔を覆って天井を仰ぐ。その後ろからモニターを覗き込んだ青年も、眉を顰めて「うわぁ」と赤裸々な感情を声音に滲ませた。

「テレビで『クリスマス商戦スタート』って言ってましたけど、嘘じゃなかったんスねぇ」

「どいつもこいつも生き急ぎ過ぎだろ。クリスマスまで三カ月以上もあるんだぞ」

「僕らにとっては『あと三カ月ちょっとしかない』っスよ。文句を言う暇があるなら仕事しましょうよ」

「も~、い~くつ寝~る~と~、お正~月~」

「クリスマスが先っス」

 ぴしゃり、と叱りついでに、青年は冷たい麦茶が入ったコップをラック上にドンと置いて上司を促す。男は渋々、長期間放置していたゴキブリ駆除用品の中身を確かめるかのように嫌々と、電子メールの一通一通を開封し始めた。

 未読メールを上から順に開いては内容を流し読み、「あー」だの「うー」だの「いや無茶言うな」だの「それは彼氏にねだれよ、リア充爆発しろ」だのと、男は怪しい独り言を零し続けていたが、作業開始からわずか数分後、そんな独白とクリック音がぴたりと止まった。

 台所でせっせと手を動かしていた青年は、上司の気配を敏感に察知し、嫌味たっぷりに声をかける。

「まさか、今日はこれで終業だなんて言わないっスよね」

「そう言いたいのが本音だけどな。お前もちょっと見てみろ、このメール」

「メール?」

 コンロの火を消した青年は、エプロンの裾で手をぬぐいつつ、ちょいちょいと手招きしてくる男の後ろからモニターに顔を寄せた。


『今宵、月をいただきに参上する。怪盗ムーンビューイング』


 短いメールを二度三度と読み返して、二人は胡散臭げに視線を見交わす。得体の知れない大容量ファイルが添付されているわけでも、不審なリンクが貼られているわけでもない。差出人のアドレスは、なんの変哲もないフリーメールである。

「迷惑メールだな」

「迷惑メールっスね」

 あっさり意見は合致して、男がメールを受信トレイからゴミ箱へドラッグアンドドロップしようとした、その時。

「おやおや、折角の予告を無視するとは。諸君の呑気さには呆れを通り越して感心させられるよ」

 南向きの掃き出し窓に嵌められたオンボロ網戸が、「ズッ……ギギ、ギギズザズズ……」とストレスフルな音を立ててスライドしたかと思うと、秋冷の快い夜風とともに一人の男が室内へと入り込んできた。

 薄紫色の燕尾服に長いマント、シルクハットという漫画のような出で立ちのその人物は、敷居を跨ぎ越してから一旦くるりと振り返ると、庭先で脱いだ革靴を丁寧に揃えてから改めて二人に向き直る。シルクハットの鍔をついと摘み、夜空の月を背景に歯を見せて笑った。

「美しい月に誘われ、怪盗ムーンウォッチング、予告通り参上した」

 室内の二人は、突然の闖入者を凝視したまま、数秒ほど口を半開きにしていたが。

「メールじゃ『ムーンビューイング』だったぞ。自分で決めた名前くらい、きっちり覚えとけよ」

「その衣装、率直に言ってダサいっス。少なくともサテン生地は止めた方がいいッスよ、幼稚園のお遊戯会みたいっスもん」

「生地以前の問題で、その純日本人ヅラと短足と中年体型じゃ、どう足掻いたってサマにならないんだよ。腹のボタンがぱつぱつで切ないんだよ」

「あ、虫が入るんで、網戸はちゃんと閉めてくださいね」

 冷め切った声と表情で、辛辣な駄目出しを一気に浴びせかけた。

 怒涛の精神攻撃に容赦無く心臓を突き刺され、「うぐっ」と呻いた中年の小男は、その場で膝からがくりと崩れ落ちる。先ほどの不敵な笑みは何処へやら、畳を拳で叩いて項垂れた。

「俺っちだって薄々気付いてたんだよ、これは相当痛々しいんじゃないかって! それでも無理して頑張ったんだから、もっと優しく対応してくれよぉ」

「そこで無理して頑張っちまうあたりが、あんたの一番痛々しいところだな。一体誰のプロデュースだよ、その愉快な仮装は」

「ジャック・ランタンくん」

「そりゃ人選ミスだ」

 一人称もすっかり野暮ったくなった小男の返答に、ボサボサ髪の男は憐憫の視線を禁じ得ない。OAチェアを九十度回転させて正対し、改めて尋ねる。

「それで、なんの用だって? 怪盗ムーンなんとか、こと、お月見泥棒さんよ」

 従順に網戸を閉めていた小男は、その質問にハッとした。揉み手をしながらおずおずと切り出すことには。

「だ、団子をくれなきゃ悪戯するぞ?」

「行事が違う。何をハロウィーンナイズされてんだよ」

「いやほら、俺っちってマイナーだからさ。似たようなもんだし、近年のハロウィーン人気にあやかろうかと」

 悪びれもせず、照れ臭そうに頭を掻く小男に、ボサボサ髪の男と青年は呆れ顔を見合わせた。

 「お月見泥棒」とは、中秋の名月に各家庭で供えられる月見団子を、近所の子どもたちが貰っていくという地方行事である。昨今でも全国各地で細々と続けられてはいるものの、他の祭事と比べれば知名度が圧倒的に低いのは確かだろう。とは言え。

「子どもの悪戯って言うと可愛らしいんスけど、中年男性の悪戯って言うと、いかがわしい感じが否めないっスね」

「俺っちもそう思う」

「そう思うならやるな、っつってんだろうが」

 青年の意見に真顔で同意する小男を、ボサボサ髪の男はチョップを入れるジェスチャーで唐竹割に斬り捨てた。さも面倒くさそうに話を戻す。

「メールにあった『月をいただきに』ってのは、月見団子のことなんだな? 要は団子をたかりに来た、と」

「そうそう。ここはトナカイくんがマメだから、ちゃんとお月見してそうだなと思ってさ。ウァレンティヌスさんとジョルディくんのところも寄ったんだけど、お月見を知らないって言うからびっくりだよ」

「そりゃご愁傷さん。ちなみに俺は、あえて海外勢ばかり狙って訪問するあんたの間抜けさにびっくりだよ」

「俺っちのことはいいから、とにかくほら、せっかくの十五夜なんだから団子を食べようよ。さあトナカイくん、月見団子を出してくれたまえよ」

 しゃきりと背筋を伸ばしてその場に正座し、小男は平手で畳をぺちぺち叩いて団子を催促する。

 だが、青年の返事はいたって簡潔だった。

「無いっスよ」

「……無い?」

「今年の十五夜は、もっと先っスから」

 さらりと当然のように答える青年に、小男は口をぱっくりと開けて絶句した。

 十五夜、いわゆる「中秋の名月」とは、旧暦の八月十五日前後の満月の日のことである。新暦九月十五日とは必ずしも合致せず、むしろ合致するほうが稀だ。「怪盗ムーンビューイング」を自称する以上、その程度は知っていて当然だと思われるのだが。

「はっはぁん。道理で、今日は月が丸くないわけだ」

 合点がいったとばかりに膝を打つ小男を見れば、彼が世間的にマイナーであることにも納得がいく気がした。

「分かったか、そもそも盗まれるような月見団子がねぇんだよ。こちとらきたるクリスマスに向けて大忙しなんだ。とっとと帰れ」

 シッシッ、と歯の隙間から息を吐きつつ、ボサボサ髪の男が片手を払って小男を追い出しにかかる。その発言に、小男はきょとんと目を丸くした。

「クリスマスまであと三カ月以上もあるのに?」

「あと三カ月ちょっとしかないんだよ」

 つい十数分前にも聞いたようなやり取りに、小男が「えー」と不満げな声を出す。だが、それ以上食い下がる粘り強さは無いようで、のろのろと表へ出て薄紫色の靴を履いてから。

「団子をくれなきゃ悪戯するぞ、だぞ~」

 聞くだけで脱力しそうな捨て台詞を残して網戸を閉め、マントの裾を翻しながらドタバタと走り去った。

 OAチェアから億劫げに腰を上げ、ボサボサ髪の男がこっそりと窓の外を窺う。小男が完全に見えなくなった頃合いを見計らって、徐に青年を振り返った。

「で、月見団子は本当に無いんだな?」

 男の勘ぐるような眼差しを真っ向から受け、青年は両腕を組んでこっくりと首肯する。

「本当に無いっス」

「『月見団子』は、無いんだよな?」

 執拗な、それも確信めいた念押しに、青年は渋面を作って暫く口をつぐんでいたが。

 やがて諦めたように大きな溜息を一つ吐くと、台所の戸棚からラップがかけられた大皿を取り出してきた。

「一本だけにしてくださいよ。このあと夕飯なんスから」

 皿の上に積まれていたのは、半透明の茶色い餡がたっぷりかかった、ツヤツヤと光る御手洗みたらし団子。

 十五夜ではないとはいえ、九月十五日という日付に特別感を抱いているらしい青年が月見団子の代わりの甘味をこしらえていたことを、ボサボサ髪の男はちゃっかりと把握していたらしかった。

「盗まれたほうが身の為だったかもしれないっスね。クリスマス当日にズボンが入らなくっても、僕はどうにもしてあげられないっスよ」

「あー、聞こえねぇなぁ。泥棒も追い返したことだし、プレ月見するぞ、プレ月見!」

 青年の脅しには耳も貸さず、男はいそいそと窓際に座卓を運び寄せ、その上に団子が載った皿を置いた。

「そんじゃ、お月さん。いっただきまー……」

 机の前に胡坐をかいて団子に向かって手を合わせ、網戸越しに空を見上げた男は、最後の「す」を唱えきれないまま硬直する。

 目は空に釘づけになったまま慌ただしく立ち上がり、ザリザリとやかましく網戸を開け放ったかと思うと、「やられた」と激しく毒づいた。

「ど、どうしたんスか?」

「あの野郎、性質の悪い悪戯しやがって……!」

 驚いて駆け付けた青年は、忌々しげに歯軋りする男の視線を辿って上空を仰ぐ。目を瞬かせてから、「あー」と呟き、肩をすくめて苦笑した。

 片足でドンと床を踏みつけ、ボサボサ髪の男は怒り任せに、空へと拳を振り上げる。

「こらぁ、ドロボー! お月さん返しやがれぇ!」

 つい先ほどまであれほど綺麗に見えていた下限の月は、今や厚い雲にすっかり隠され、影も形も見えなくなっていた。




 Fin.

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