7月17日の彼ら

 鮮やかな青一色に塗られた空に、むくむくと膨れ上がった白い雲が浮かんでいる。

 絵に描いたような夏空の下には、宝石のような美しい紺碧の海に、目にも眩しい白い砂浜が広がって――いたのならばリゾート気分も味わえたのだろうが、市街地からさほど離れていないこの海水浴場は、生憎、海の色も砂浜も冴えない灰色である。

 ベタベタと肌にまとわりつく潮風が運んでくる香りはどこか磯臭く、海岸に打ち寄せる波の音はバシャンバシャンと荒っぽく、無粋にすら聞こえる。

 じっとりと湿った砂浜の波打ち際は、小石や貝殻の欠片が大量に埋まっているため、裸足では痛くてとても歩けない。コンブかワカメか、打ち上げられてぐちゃぐちゃに絡まった海藻らしきものが、あちらこちらで妖怪じみた存在感を滲ませている。ゴミの類がほとんど見当たらないことに感心するほどだ。

 野暮ったい風景に魅力が無いせいか、それとも、駐車場も海の家も碌に整備されていないからか、真夏の、それもよく晴れた祝日の昼過ぎにも関わらず、海水浴を楽しむ人は数えるほどしか見当たらない。さして広くもない海岸線にぽつりぽつりと突き立てられたビーチパラソルが、空虚感を一層際立たせていた。

 そんな、すかすかとスペースが空いた砂浜の上。思い思いに遊び騒ぐ家族連れやカップルたちからも、飛沫が跳ねる海からも距離を置いた、砂以外には何もない場所。

 じりじり日差しが照りつけ、大気が熱に揺らぐ灼熱の中に、七、八歳ほどの年頃の少年が一人、膝を抱えて座り込んでいた。

 スポーツ刈りにした黒い髪と、健康的に焼けた肌には、ところどころに塩の結晶がこびりついている。ポップな魚のイラストがプリントされた青色の海水パンツからは、乾いた砂がぱらぱらと落ちる。

 顔は膝の上に置いた両腕の中に半ば埋もれていたが、隙間から覗かせた目は、気のせいか、敵意を込めて海を睨みつけているように見えた。

 直射日光をまともに浴びて熱くなった少年の頭を、不意に、ポスッという軽い音とともに、大きな影が覆って隠す。

「熱中症厳重警戒だってよ」

 同時に降ってきた気だるげな声に、麦わら帽子を被せられた少年が右斜め頭上を振り仰げば、サーフボードを抱えたボサボサ髪の男が億劫そうに少年を見下ろしていた。

 褪せた黄色のサーフボードを砂浜に突き立て、男は「よっこいせ」と口に出しながら、少年の横に尻を下ろして胡坐をかく。少年は物珍しげにサーフボードをまじまじと見つめた。

「サーフィン、できるの?」

「夏のサンタと言えばサーフィンだからな。テレビで見たことあるだろ」

「ない」

 マジかよ、と、つまらなそうに口を尖らせながら、男はヤシ柄のサーフパンツのポケットからオレンジジュースの缶を取り出して、少年の頬に押しつける。少年は小さく「ありがとう」と述べて、素直に缶を受け取った。

 男がもう一方のポケットからコーラを出して、結露の浮いたアルミ缶のプルトップを二人同時に開ける。派手に喉を鳴らしながら内容量の半分ほどを一気に飲むと、ぷはぁ、と大きく息を吐き出した。そのまま揃って、呆けたように海を眺める。

 ザ、ザブン。ザザ、ザ……。近くて遠い波の音。

 ちびちびと舐めるようにコーラを飲み、潮風に吹かれながら、男は横目でちらりと少年を窺う。両手でジュースの缶を持ち、唇を一文字に結んで押し黙る少年に、男はわざとらしく肩をすくめた。

「一回溺れかけたくらいで情けねぇなぁ。海に連れてけって、せがんだのはお前だろ」

 言葉だけなら咎めるようだが、声の響きには棘が無い、やんわりとした男の挑発。少年は赤くなった目で口惜しげに海を睨みつけたまま、ぼそりと零す。

「海は体が浮かぶから、泳ぐのも簡単だって聞いたんだもん」

「そりゃ海だからな」

「海水がこんなにしょっぱいなんて、知らなかったんだもん」

「そりゃ海だからな」

 素っ気ない男の生返事に、少年は項垂れてグズリと鼻を鳴らす。ザザ、ザバン、という波の音すらもぶっきらぼうに聞こえた気がして、ボサボサ髪の男は鼻で大袈裟に嘆息した。

「あんなに大口開けて泳げば、そりゃ海水も飲み放題だろうよ。息継ぎ以外は閉じるようにすりゃ、もう同じ目には遭わねぇよ。たぶん」

「だって、父ちゃんが泳ぐ時は」

「いくらお前の親父だって、海で口開けて泳いだりしねぇよ。俺の教えたとおりにすりゃ平気だって。たぶん」

 男の説得に説得力がないせいか、少年は「でも」と煮え切らない。男はぼりぼりと髪を掻き、いかにも面倒くさそうに、説得の方向性に変化を持たせる。

「そんじゃ、夕方までずっとそこに座って、俺のサーフィンテクに見惚れてるか」

「やだ」

「即答かよ」

 間髪入れない少年の拒絶に、作戦どおりとは言え若干のショックを受けたらしい男は、しかし、開き直って強気に畳み掛ける。

「だったら、もっかい挑戦しようぜ。内緒で特訓して、親父みたいに泳げるようになりたいんだろ」

 少年が手に持つアルミ缶が、ペキ、と小さな音を立てて僅かに凹む。

 一際大きく洟を啜った少年は、海を見据え、空を見据え、長い間を置いたあと、こっくりと大きく頷いた。

「うん。なりたい」

 きっぱりとした返事に、少年からは見えない角度で、男がニッと小さく笑う。「よっしゃ」と一声、男は少年の背中を平手でパシリと叩く。

「そうと決まったら行くぞ。こんなトコにいたら焼き魚になっちまう」

 残ったコーラを飲み干すと、空になったアルミ缶を砂浜に埋め置いて立ち上がり、男は少年の正面から右手を差し伸べた。

 少年は男の掌をじっと見つめ、心許なげに尋ねる。

「泳げるようになる? 父ちゃんや姉ちゃんたちみたいに」

 訊かれた男は、差し伸べた手とは逆の手を伸ばし、少年の頭から麦わら帽子をひょいと取り上げた。

「任せとけ。ガキの夢を叶えるのが俺の仕事だ」

 遮るものが無くなった日光の強さゆえか、少年はボサボサ髪の男を見上げ、眩しげに目を細める。

 男に倣ってジュースを飲み干し、ぐい、と雑に口を拭うと、少年は男の手を取って勇ましく立ち上がった。

 二人並んで水平線を遠く眺めれば、白い雲が波打つように浮かぶ空の下、海には白い波が絶えずさざめいている。

 その狭間を目指し、少年は男に先んじて走り出した。


 甍の波と 雲の波

 重なる波の 中空を


 躍るように海へと飛び込んでいく小さな背中を見て、男は楽しげに、季節外れの歌を小さく口ずさむ。

 

 橘かおる 朝風に

 高く泳ぐや 鯉のぼり




 Fin.

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