6月30日の彼ら

 しとしとと雨が降っている。

 開け放たれた障子戸の向こう、軒と縁側に上下をトリミングされた横に長い風景の中に、濡れそぼった青色の紫陽花が美しい。

 天から注ぐ雨は苔生した地面をまんべんなく湿らせ、時折ゆるりと舞い込む風が、湿っぽい土の匂いを室内へと運んでくる。

 住宅街に埋もれる小さな寺の一角。ひっそりと小さな中庭を臨む、畳敷きの簡素な客間である。床の間には無骨な筆致の掛け軸が飾られ、庭から摘んだと思しき紫陽花が一輪、質素な花瓶に活けられていた。

 他に室内にあるものはと言えば、使いこまれた木製の文机一前を除けば、薄く潰れた座布団が数枚、部屋の片隅に整然と積まれているだけだ。

 刻限は正午を過ぎた頃だが、空を覆う分厚い雲のせいで、照明を点けていない室内は仄暗い。

 だが、文机の前に背筋を伸ばして座した男は、そんな暗さなど苦にもならない様子で、机上に広げた半紙に黙々と筆を滑らせていた。

 歳の頃は三十前後だろうか。濃紺の作務衣を涼しげに着こなしており、精悍な顔立ちに、手ぬぐいを撒いた青坊主頭がよく似合う。

 男は擦りたての墨の香を漂わせながら黙々と写経に勤しんでいたが、ふと、筆を動かす手は休めないままで短く声を発する。

「なんの真似だ」

 怒気こそ含んではいないが、どしりと落ち着いた低い声には得も言われぬ威圧感があり、相手が小心者であったならばたちまち竦み上がっていたことだろう。

 しかし、その声を向けられた当人たちはと言えば、竦み上がるどころか、坊主と思しき男の問いが聞こえてすらいないらしかった。

「私が正面から気を引くから、その隙に背後へ回り込んで縄をかけるのよ。いいわね?」

「いや、良くないっス、無理っスよ。成功したら一休禅師もびっくりっス」

「情けないわね、力自慢なんでしょ。年々中年太りつつある上司を引き摺って走るのが仕事なんだから」

「それとこれとは別と言うか、腕力以前に眼力で負けそうと言うか」

 一人は白のブラウスにミントグリーンのパンツを合わせ、長い黒髪を高い位置で括った気の強そうな美女。

 もう一人は、ボーダーのカットソーにネイビーの七分袖シャツを羽織った、細身の爽やかな青年。

 ルックスだけを見ればファッション誌の表紙を飾ってもおかしくなさそうな男女が、先のふざけた会話を繰り広げながら、山岳登山用の極太ロープを握りしめ、文机にジリジリとにじり寄る様を見せられては、坊主でなくとも「なんの真似だ」と問い質したくなるに違いなかった。

「年々太ってなんかないっての。痩せてもないけど」

 客間と濡れ縁の間の柱に背を預けて見物を決め込む、よれたTシャツ姿のボサボサ髪の男が、心外そうにぼそりと呟く。とは言え、口にスプーン、手にはコンビニで買ってきたカップ入り宇治金時ミルク氷となると、「太っていない」の真偽は疑わしい。

 ボサボサ髪の男の訂正が聞こえているのか、いないのか、見物される側の三人は特にコメントを寄越すこともなく、ぴりぴりと静電気のような緊張感を互いに迸らせる。

「ちょっとお縄にされて、ちょっとその辺に、ちょーっと吊り下げられるだけでいいのよ。楽な仕事でしょ」

 奇襲作戦は諦めたのか、親指と人差し指で小さな隙間を作って「ちょっと」を強調しながら詰め寄る女。坊主はさらさらと手を動かしつつも、眉間に皺を寄せ、ぴしゃりと告げる。

「そんな愚挙は仕事とは呼ばん。首縊り、もしくは偽装殺人と呼ぶ」

「誰が首で吊るされろって言ったのよ。報酬なら出すわ、時給これくらいでどう?」

「それ、僕の時給より遥かに高いんスけど。代わりに吊り下げられたいくらいっス」

 女が堂々と立てて示した指の本数に、傍らの青年が惨めな眼差しを送るが、坊主は一瞥すらくれずに矛先を余所へと向ける。

「そこの暇そうな保護者。警察沙汰にしたくなければ、こいつらをどうにかしろ」

「生憎、俺にそいつらの保護義務は無いの。例えそこの女社長が逮捕されたところで、週刊誌でお目にかかるだけだし、うちの従業員が捕まったら……まぁ、次はカモシカでも雇うとするか」

「カモシカはシカ科じゃなくてウシ科っス」 

「牛の何が悪いのよ。酪農男子、最高じゃない」

「へいへい、ノロケならよそでやってくれ」

「『他所よそでやれ』は此方こちらの台詞だ。用もなく馬鹿騒ぎをするだけならさっさと帰れ」

 どんどんと逸れていく話題に業を煮やした坊主がにべもなく追い出しにかかるが、青年と女は今が機会とばかり、再度坊主へ詰め寄っていく。

「用があるから来たんスよ、用が済まなきゃ帰れないっス」

「ならば、その用とやらを颯と済ませろ」

「だからさっきからお願いしてるでしょ。ちょっと軒先にぶら下がって頂戴、って」

「己が如何いかに奇天烈な発言をしているか気付いていないのか?」

 眉間に深々と二本目の皺を寄せる坊主の苦言は的確だが、女は問答無用とばかり、じれったそうに畳を叩いて一喝した。

「いいから今すぐ、この雨を止ませなさいよ。それがあんたの仕事でしょ、てるてる坊主!」

 乱暴に名を呼ばれた坊主の眉間に、三本目の皺が刻まれる。サア、という穏やかな雨音と、ボサボサ髪の男がショリショリと氷を食する音が、森閑とした和室に小気味よく響く。

 ほんの一瞬、しかし確かに辺りを満たした不穏な空気を気にも留めず、女はさらに二度三度と畳を叩き、忌々しげに声を荒らげる。

「いくら梅雨だからって、毎日毎日、こうも雨続きじゃ堪らないわ。髪は全然纏まらないし、化粧のノリは最悪だし、少し外出しただけで服も靴も染みだらけになるし」

「そうなんスよ。風呂場はすぐにカビだらけだし、生鮮食品もヘラジカ並みに足が早くなるし」

「お客様も出不精になるから売り上げは下がるし、書類も梱包もヘロヘロのクタクタになるし」

「買い出しは勿論、ゴミ出しに行くだけでも億劫だし。折角植えたゴーヤも根腐れしちゃいそうっス」

 青年までも一緒になって、ばんばんバシバシ、ぐちぐちブツブツと、長雨への不平不満は延々と続く。

 いつの間にか坊主の写経の手が止まっていることに、ボサボサ髪の男だけが目を留めたが、愚痴合戦に夢中の二人は全く気付かない。畳を叩いていた片手は両手になって、平手は握られ拳になって、入る力もだんだん強くなる。

「何より、溜まる一方の洗濯物っスよ。上司のパンツが頭上に干された職場はもうウンザリっス!」

「それより何より、昨日発生した台風よ。このままだと一週間後に直撃なのよ、飛行機が飛ばなかったらどうしてくれるのよ!」

 最後に一度、四つの拳が力いっぱい畳を殴りつけたところで、言いたいことを叫びつくした二人の動きと口は止まった。

 ボサボサ髪の男のかき氷はすでに食べ尽くされ、無音となった和室に次に響いたのは、カタン、という小さく軽い音。

 プラスチックカップを九十度以上傾け、緑色の砂糖水を口の中に滴らせていたボサボサ髪の男が顎の角度を戻せば、筆を筆置きに預けた坊主が、口を真一文字に結んで立ち上がるところである。

 無言で縁側へと移動する坊主の挙動に気付いた女と青年が、期待に目を輝かせたのも束の間。

 徐にしゃがみ込み、頭と両掌を床板につけた坊主は、流れるような所作でピタリと見事な三点倒立を完成させた。


 紫陽花の咲き誇る静かな庭と。

 微動だにせず逆立ちする坊主。


 他の三人はたっぷり十秒、その異様な光景を声も出せずに眺めていたが、やがて青年と女が恐々と声をかける。

「あ、あの」

「あんた、一体何を」

 顔を引きつらせる二人をカッと睨みつけ、坊主は敢然と言い放った。

「今の私は『てるてる坊主』ではない。『るてるて坊主』だ!」

「なんて?」

 反射的に短く聞き直した女と青年を露骨に無視し、黙りを決め込んだ坊主の代わりに、ボサボサ髪の男が気だるそうに教えてやることには。

「逆さに吊るすと雨乞いになるっていうだろ。ほれ、地域によっちゃ『雨雨坊主』だの、『降れ降れ坊主』だのって。アレだアレ」

 雑な解説を聞いた途端、「雨乞い?」と悲鳴を上げてサッと青ざめた青年と女は、泡を食って坊主の足元、いや、頭元にすがりついた。

「ごめんなさい済みません、僕らが悪かったっス! だからこれ以上の雨は勘弁してください!」

「二度と軒先にぶら下がれなんて言わないから! お願い、台風だけは絶対に寄越さないで!」

「るてるて坊主ー、るて坊主―、あーした豪雨にしておくれー」

「その歌やめてぇぇぇ!」

 二人は坊主の姿勢をどうにか元に戻そうと、足を掴んで躍起になって揺さぶるが、むっつり顔のまま抑揚も付けずに歌う坊主は、頑として倒立を崩さない。

 古寺の静けさにそぐわない喧騒を、口にくわえたスプーンを揺らしながら傍観していた男は、ふと、チカリと目に感じた光に顔をもたげた。

 そして一人、密かにニヤリと笑う。

 雨はいつしか止んでいた。厚く空を覆う雲にできた微かな割れ目からは、陽光が白い筋となって地上に差し込み、紫陽花の水滴に弾かれて眩しく輝く。


 夏は間近だ。




Fin.

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