3月5日の彼ら

 やわらかな淡青色に染まる空をふと見上げると、頭上へと伸びた桃の枝先に、蕾が顔を出し始めていた。

 まだ堅い蕾の表面に薄らと白い産毛を認め、青年は嬉しそうに目を細める。

「春っスねぇ」

 空気にはまだ冷たさが残るものの、正午過ぎの日差しはぽかぽかと麗らかで暖かく、うっかり発熱肌着など着込んでしまっていたら汗ばむどころでは済まなくなりそうだ。

 チェスターコートの下でラウンド巻きにしていたマフラーをほどき、洒落たノルディック柄が目立つように首にかけ直した青年は、大量の食料品が詰まったエコバッグの重さもなんのその、足取りも軽く住宅街の道を行く。

 その、数メートル後方を。

「春だねぇコンチクショー」

 つるつるとしたキルティングジャケットをもっさりと着込み、高機能マスクで顔の大部分を覆ったボサボサ髪の男が、洟を啜りつつの恨みがましい鼻声で雑言を吐きながら、のそのそと緩慢な歩みでついていく。

 前を行く青年は足を止めて振り返り、ともすると遅れがちな男が追いついてくるのを気長に待ちつつも、非難がましく眉根を寄せた。

「そんな言い方は春に失礼っスよ」

「そりゃ悪かった、春に罪はねぇわな。コンチクショーなのは春に浮かれてハッスルしてるスギ花粉だった」

「花粉にも罪は無いっス」

「お前にもいっぺん、この苦しみを体感させてやりたい。そんな偽善的な台詞、二度と吐けなくなるからな」

 この気候を歓迎しているのは人も樹木も同じのようで、細かく分類するなら、桃の木も杉の木も同じのようである。平年よりも早い花粉の襲来に、ボサボサ髪の男はすでに倦み果てているようだ。

「こんな日に出掛けるなんざ狂気の沙汰だった。食料も買い込んだし、今日は引き籠ってゲーム三昧で決まりだな」

 片手に提げたエコバッグの中の即席ラーメンやスナック菓子を覗き込んで首肯すると、男は俄かに歩行ペースを上げて、青年をずんずんと大股で追い抜かしていく。野菜や生鮮食品が詰まったバッグを肩にかけ直し、青年は口を尖らせながら男のあとに続く。

「こんな絶好の行楽日和なのに、引き籠るだなんて勿体ない」

「俺の目と鼻からひっきりなしに流れ出る水分のほうが勿体ないっつの」

「見てください、どこの家も車が無いっス。きっとみんな、陽気に誘われて遊びに出掛けてるんスよ」

 青年が指を差し差し言うとおり、辺りの民家の玄関先や車庫には、自家用車がほとんど見当たらない。がらんと空いた駐車スペースに一瞥をくれ、男はマスクの中で「へっ」と呟く。

「どいつもこいつも浮き足立ってお出かけか。そりゃ、空き巣にとっちゃ絶好の仕事日和――」

 やっかみ混じりの男の悪態が、ついでに歩みも、そこでぴたりと止まった。そのまま右斜め前を凝視する男に、後方にいた青年も怪訝そうに足を止めて目を凝らす。

 ボサボサ髪の男が見ていたのは、ありふれた民家の庭先だった。

 家の南側の壁には引き違いの掃き出し窓があり、室内から庭へ直接出られるようになっているのだが、その窓が音も無く開いたかと思うと、中からそろりと人が忍び出てきたのである。

 ほとんど反射的に、男と青年は左手側の電信柱の陰に身を潜め、息を殺す。

 人影は寸の間、きょろきょろと周囲を警戒していたが、やがてぴっちりと窓を閉めると、ごく当たり前のように堂々と、門扉を開けて生活道路へ出てきた。

 いかにも散歩中、といった雰囲気を纏いながらゆったりと数メートルを歩き、今度は一軒隣の民家の様子をさりげなく窺ったかと思うと、これまた役者顔負けの実に自然な所作で、するりと門扉の内へ入り込む。道からは見えにくい玄関扉の前にしゃがむと、ポケットから素早く工具らしきものを取り出して、鍵穴に躊躇なく突っ込んだ。

 時間にして、ものの五、六秒。鍵はカチンと小さな音を立ててあっさりと開いた。

 解錠に成功した人物が口元を綻ばせ、そっとドアノブに手を掛けた瞬間を見計らって。

「そこで何してんだ、姫さん」

 その背後に立ったボサボサ髪の男が、呆れ顔で声を掛けた。

 びくり、と分かりやすい反応を示した妙齢の小柄な女は、ごくゆっくりと振り返って声の主を確かめると、それはにっこりと、優しく可愛らしく微笑んだ。

「あらぁ、久しぶりねぇ。二人とも元気してた?」

 花のモチーフがついた手編みのカーディガンの裾と、一つに括った綺麗な黒髪を揺らしながら女は淑やかに立ち上がったが、その手には使いこまれたピッキングツールが握られているのだから、いくらなんでも誤魔化されるはずがない。

「俺よりこいつより、あんたが元気過ぎてビックリだよ。忍び込みは俺らと月見泥棒の専売特許だぜ。手際が良過ぎてドン引きしたわ」

「うふふ、その道のプロから褒められちゃった。今年の冬には私も雇ってもらえるかしら」

「薄給だからお勧めできないっス」

「お前はちょっと黙ってろ。サンタに勧誘する気は無いが、泥棒もお勧めできねぇな。さっきから見てりゃ、人様の家にこそこそ上がり込んで、通報されても文句は言えねぇぞ」

 女のように門扉の内にまで入り込むような度胸は無く、敷地の外側から苦言を呈する男に、女も流石に笑顔を消して、ぷうと頬を膨らませた。

「だって、このおうち、雛人形がまだ片付いていないんだもの」

 拗ねたような女の回答に、男二人の目が見事な点になる。

 声も無いまま首を回して、窓越しにリビングを覗き込んでみれば、部屋の奥には立派な七段飾りの雛人形が飾られていた。

 二人が顔の向きを元に戻し、目つきだけで説明を求めると、彼女は両手をぎゅっと握りしめて上下に振りながら、プンプンという擬音まで添えてまくし立てる。

「今日はとってもいいお天気で、絶好のお片付け日和なのに! まだ出しっぱなしのおうちがこんなにあるだなんて、私もう、とてもとても我慢できなくて」

「じゃあ、なんだ。まさかあんた、雛人形がまだ出てる家に、片っ端から侵入して――」

「片っ端から勝手に片付けてたんスか」

「うん」

 こっくりと頷き、きっぱりと肯定した女に、男と青年は顔を見合わせ、返す言葉をしばらく見つけあぐねる。

 雛人形を片付けるのは啓蟄の時分がいいとは言うし、片付けが遅れると婚期が遅れる、という云われも、よく聞くものではあるが。

「放っておけよ。人の家のことは」

「まあ、あんまりだわ。人形を片付けなかったせいで、こちらのお嬢さんが行き遅れちゃったらどうするの」

「どうもしねぇよ。それこそ放っておいてやれ。昨今はそういうお節介をマリッジハラスメントと呼ぶんだよ」

「マリハラ以前に、いくらなんでも家宅侵入はまずいと思うっス」

 二人から口々、常識的に諭されて、彼女は一度こそしゅんと項垂れたが、しかしすぐさま開き直ったのか、がばりと面を上げて決然と二人に言い放つ。

「でも、いざお嫁に行きたくなった時に後悔しても遅いもの! できるうちにできるだけのことをしておくのが、母心というものでしょう!」

 言うが早いが、彼女はおっとりとした佇まいからは想像もつかない敏捷さで、玄関扉を開けて中に滑り込み、内側からガチャリと鍵を掛けてしまった。

 門扉の前に残された二人は、固く閉ざされた玄関を暫く呆然と眺めていたが、近所の目が気になることもあり、そそくさとその場をあとにするしかない。

 離れる直線、男が窓越しに覗き見た家の中では、使命感に燃えた女が、恐ろしいほど手際よく、けれど、見惚れるほど丁寧に、出しっぱなしの雛人形をてきぱきと片付けていた。

「放っておいていいんスかね、あれ」

 後ろ髪を引かれた様子で青年が尋ねるが、男はむしろ前髪をぐいぐい引かれているようで、振り返る素振りすら見せない。

「放っておこうや。っていうか、これ以上関わらないでおこうや。まぁでも、旦那に連絡くらいは入れてやっても――」

 尻ポケットから携帯電話を取り出し、連絡先を呼び出そうとした男の手と口と足が、横に並んで歩いていた青年の足とともに、再びぴたりと止まる。

 二人の右手に見える民家の庭先には、家屋の掃き出し窓をそろそろと開けて、抜き足差し足、周囲を伺いながら庭へと降りてくる不審な人影があった。

「レフトミニスター応答せよ、こちらエンペラー! 三丁目十七番地の復元作業を完了した、次の目的地への誘導を頼む。エンプレスの動きが早過ぎる、ハンドドラムとフルートを応援に寄越してくれ!」

 真剣そのものでキビキビと指示を出すのは、手編みのセーターを着込んだ醤油顔の優男である。片手に持ったスマートフォンからは、「レフトミニスター、了解致しましたぞ!」という、威勢のいい老年男性の声が聞こえてきた。

 きりりと表情を引き締め、よし、と気合を入れ直してその場を離れようとする優男を。

「あんたも大変だな、殿さん」

 心からの同情を込めて、ボサボサ髪の男が垣根越しに慰労した。

 思いがけない知人の登場に驚いたのか、スタンディングスタートのポーズのまま硬直していた優男は、姿勢を改め、赤面しながらオホンと一つ咳払いをする。

「姫の母心とやらも分からなくはないが、事情は家それぞれだからな。こちらのお節介で勝手な真似をするわけにはいくまい。それに――」

「それに?」

「可愛い娘に永遠に嫁に行って欲しくない父心も、分からなくはない!」

 真顔できっぱりと言い切るなり、優男は「では」と告げて深々と一礼すると、老人から電話越しに伝えられた住所を目指して脇目も振らずに駆け出した。

 またもその場に取り残された二人は、互いの心情を確認するように、ゆっくりと視線を交わし合う。

「放っておいていいんスかね、あれ」

 走り去って行く優男の背中を見送りつつ青年が尋ねるが、男はくるりと背を向け、そっけなく答える。

「放っておこうや。っていうか、これ以上関わらないでおこうや」

 一旦は取り出した携帯電話をぐいと尻ポケットに押し込んで、盛大にくしゃみをぶちまかしてから、男はのろのろと億劫そうに歩き出す。

 あとに続く青年には聞こえないような、小さな鼻声で呟いた。

「嫁に行こうが行くまいが、幸せでいてさえくれりゃいいってのが、真の親心ってもんなんだからよ」

 詰まった鼻でも微かに嗅ぎとれる、ツンとした樟脳の匂いに混じって、まだ咲かない桃の花がふわりと香った気がした。




 Fin.

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