十五枚目 名酒揃 志ら玉

 次の日。


 山積みになった段ボールの間で目を覚ます。七緒はまだ、三好の研究室にいた。後一日だけ、どうしてもデータを取らせてくれと懇願されたからでもあるし、連日の疲労がピークに達していたからでもあった。


 それに何より、七緒自身、まだ迷っていた。


 このまま此処を離れていいものか。


 無事『睡蓮』を見つけ出し、だが同時に、博士の善意溢れる研究の一環を知ってしまった。

『人工才能』。

 この発明が世に出れば、能力至上主義の現代社会は、少なからず混乱をきたす事になるだろう。さらにそれを利用しようとする『地下組織』の存在、予言めいた『戦争』への示唆……。


 何か……何か行動を起こすべきだと、責任感や焦燥感が、七緒の心の扉をドンドンと叩き続ける。このままでいいはずがない。それは分かっている。だが今はまだ、扉を開ける気にはなれない。やがて扉の向こうで、ななかの声がした。幼い少女の声が七緒の心に問いかけてきた。


「ねえお姉ちゃん。なんであの人たちは、あたしたちにひどいことするの? どうしてあたしたちがきらいなの?」


 七緒は答えられなかった。ドンドン、ドンドンと音が強くなって来る。扉の前に立ち尽くし、彼女は頭を抱えた。


 違うのよ、ななかちゃん。

 違うの。あの人たちじゃないの。


 あなたたちにひどいことをしてたのは、私なの──。


 ──七緒は思考を振り切ってベッドから身を起こした。まだ少し頭痛が残っている。足取りは重いが、昨日ほどじゃない。埃と薬品の臭いから逃れるように、色彩のない、冷え冷えとした地下室を出た。


「やあ、おはよう」

 階段を上がると、香ばしいベーコンの焼いた匂いが漂って来た。奥の台所から三好が、フライパンを片手に、ボサボサ頭で出迎えてくれた。夜通しデータを取っていたのであろう、目の下には六太のようなクマが出来ている。三好が笑いかけた。


「よく眠れたかい?」

「ええ」

 七緒は笑顔で嘘をついた。


 食卓というものが、この家にはないらしい。玄関の隣、物置のような別室には、これまた大量の書類や実験器具が積まれていた。物物の隙間から、ソファとテーブルの一片が辛うじて顔を覗かせていて、そこに腰掛けるよう三好に言われた。座って待っていると、やがてチューブの味噌汁やら固形スナック型のご飯やら、インスタント食品が次々と運ばれて来た。七緒は少し迷った挙句、原子レンジで温められたお茶を手に取った。

 

 ……あれほどの空腹を味わったというのに、中々食が進まない。頭痛がだんだんと酷くなってきた。七緒の中で、迷いが不安を呼び、不安が恐怖を呼び覚ましていた。


『無能』は人間である──……。


 今度は黒服の少年の言葉が蘇ってくる。七緒は今の今まで、全く真逆のことを信じていた。それが当たり前だったのだ。物心ついた時から、世の中はそうなっていたし、そう教えられて育って来た。学校でも、家庭でも、友達の間でも、『無能は人間ではない』のが当たり前だった。凡人狩りが、『善いこと』だとすら思っていたのだ。それが……


 現実は180°違っていた!

 彼らは自分たちと同じように血を流し、泣き笑う、同じ生き物だったのだ。

 

 ……この不安を、この恐怖を、どう言葉を尽くせば伝えられるだろう?


 地球は平らだとずっと信じていたら、ある日丸いのだと教えられたような。

 尊敬し愛すべき父親が、ある日人間を喰らう化け物だと知らされたような。

 食卓に並べられた肉や魚が、元々は命ある生き物だと気付かされたような。

  

 今まで立っていた地平が、ガラガラと音を立てて崩れ去るような、そんな恐怖を七緒は味わっていた。『善いこと』だと思っていたのは自分たちだけだったのだ。悪い異星人が実は人間で、正義の味方を気取っていた自分たちこそが悪だった。そんな趣味の悪いSFを、虚構として割り切ることも出来ず、おとぎ話は生々しい現実となって七緒の心をさいなんでいた。


 今までこの手で、殺しただろう?


 ……頭が痛い。急に自分の手が酷く汚れたものに見えて来て、七緒は寒気を覚えた。死んだ人間は生き返らない。たとえどんな『能力』を使ったとしても……一時的に生き返ったように見えても、『能力』を解除すれば結局元の黙阿弥だ。

 

 罪を消し去る『能力』などない。罪はきっと、傷痕のように残り癒えるものではなく、影のように付き纏うものなのだ。影を消そうとすれば本体まで消えてしまう。結局どんな『有能』な人間も、花形でさえも、影のない人生などあり得ない……。


 ……帰りたい。


 急にそんな思いがこみ上げてきて、七緒は不覚にも涙ぐみそうになった。帰りたい。母親の元に。仲間の元に。そう。ここはやはり、一人で悩んだりせず、会長に相談するのが一番だろう。今の政府関係者には、悠乃高校OBOGも多数いる。一番合戦いちまかせ会長ほどの『能力者』なら、話を通すくらいの糸口は見つけてくれるかもしれない。


 七緒は深く息を吐き出した。そうしていないと不安で、恐怖で、今にも悲鳴を上げそうになる。 


 とにかく、一旦落ち着こう。


 七緒は温くなったお茶を口に含んで、

「お?」

 その時、六太が部屋に入ってきた。


 六太は全裸で、局部を何故かラマの頭で覆っていた。七緒は飲みかけのお茶を噴射した。


「……ふざけてんの!?」

「いやふざけてねえよ。ああ、これ? いや聞いてくれよ。お前と別れた後、俺の大冒険をよォ……これには深ァいワケがあって」

「うるさい!」

 七緒は悲鳴を上げたいのを必死に堪えて、六太の言葉を乱暴に遮った。


「とにかく此処まで!」

 今までの感情を吹き飛ばすように、わざと大きな声を張り上げる。

「アンタとの冒険は此処で終わり!」

「おぉ?」

「此処でお別れにしましょう。『花』も無事に戻ったし、私もう、帰るから」

「何だよ? 急にどうした?」

「ああ、首輪の解除キーは市役所に申請して、後で郵送で送っとくから。博士ー?」

 七緒は六太を無視して、ソファを立ち上がった。


 博士は台所にはいなかった。地下室へ降りると、真っ暗闇の中に、昨日まではなかった機械羊駝パワード・スーツが、何本ものケーブルに繋がれていた。


「ああ二人とも。ちょうど良かった」

 暗室の奥から三好が顔を伸ばして、七緒と六太の姿を見るなり、白い歯を浮かべた。


「やっと改良メンテが終わったよ」

改良メンテ?」


 六太は目を輝かせ、七緒はというと、不安げに部屋を見渡した。昨日まであった翠色のビーカーが、ない。


「私の『睡蓮』は何処ですか?」

「ご覧よ! これがパワーアップしたラマ・スーツさ!」


 三好がパッと暗室の電気をつけた。眩い光に思わず目を細める。目が慣れてくると、白かった機械羊駝スーツの表面に、ほのかにピンク色の花模様が浮かんでいるのが見えた。


「機械獣に、本物の『才能』を組み込んだのさ! これまでの実験体とは比較にならないくらい……いやあ、凄まじいパワーだよ。これでもう充電も要らない!」  

「おお!」

 六太が喜んで両手を挙げた。

「私の『睡蓮』は何処ですか?」

 喜ぶ男二人を前に、七緒はしきりに左右を見回し、自分の『花』を呼んだりした。

 

 だが、胸にはずの『花』は呼んでも来ず、代わりに巨大な鉄の塊……機械羊駝スーツがズズズ……とケーブルを引きずり七緒に近づいてきただけだった。


 ……何かがおかしい。

 七緒の不安が、徐々に恐怖へと変わって行った。


「……私の、『睡蓮』は」

「此処だよ!」

 三好は、実に『善いこと』をしたとでも言いたげに、満面の笑みを浮かべて説明した。


「君の『才能』は! このラマと合体したのさ!!」

「い……」

「い?」

「いやぁああああああああッ!?」


 その言葉に七緒はとうとう悲鳴を上げ、その場で卒倒した。

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