十二枚目 近江八景 唐崎夜雨
どれくらい歩いただろうか。
未だ天は暗く、今にも一雨降ってきそうな空模様だった。
「休憩にするぞーッ!」
何処からともなくそのような意味の声が聞こえ、行列が緩やかに静止した。ざわざわと人の話し声や衣服の擦れる音が大きくなる。すると、今までゆっくりゆっくり歩いていた群れが今度は一転、前方に向かって忙しなく走り始めた。
「前の方でご飯やお水を配っているの」
ななかがそう教えてくれた。
なるほど大事そうに抱えていたあのかごの中には、食料が詰め込まれていたようだ。一日一回、日の終わりに配給があるのだという。
「お姉ちゃん、あたしたちも行こ! 早くしないとなくなっちゃう!」
ななかが急かすように小さく悲鳴をあげた。確かにあのかごの大きさでは、毎回毎回全員分用意するのは大変そうだ。それでいつも、軽く奪い合いになっているのだという。
「昨日はあたしも、運良くお粥を食べられたんだけど。だんだん量も少なくなってるの。今日はもう、どうなるか……!」
食料をもらえなかった『無能』は、次の配給までお腹を空かせて歩かなくてはならない。中には限界を迎えて行列から離脱したり、死んでしまう者も少なくないのだとか。それでも行進は止まらない。それが《桃源郷》を目指す者たちの、暗黙のルールになっているようだった。
人だかりが三つできた。
一つは、食料に群がる者。
一つは、水を求める者。
一つは、段ボールや毛布など寝具を求める者。
三方向に別れた人の山を見比べて、七緒は立ち止まって考え込んだ。優先すべきは……。
「待って」
そういうと、七緒は小走りに駆け出そうとするななかの手を引っ張った。すでに競争は始まっている。一番人気はもちろん、食料だ。押し合いへし合い、ごった返した行列を抜け、七緒は険しい顔で空を見上げた。
「食べ物は、また今度にしましょう。まず毛布を手に入れないと」
「え!? なんで!?」
ななかは吃驚したように目を丸くした。
「ご飯は一日一回しかないんだよ? ここら辺は木の実もないし……」
「昨日、食べたんでしょう?」
「お姉ちゃんはお腹空いてないの?」
七緒は微笑を浮かべて首を振った。彼女の胃袋は、すでに空腹のサインを送らなくなってきている。
「えー……でも……」
「分かったわ。じゃあななかちゃんは、食べ物を取りに行ってちょうだい」
「ダメだよ! 一人一つしかもらえないの! 三つ全部は無理なんだよ。早くしないとお姉ちゃんの分、なくなっちゃうよ!」
「私はいいの。じゃあ私、毛布をもらってくるから」
「あ! お姉ちゃん!」
ななかは少し寂しそうに七緒を見つめていたが、やがて空腹に負けたのか、皆と一緒に前方に走って行った。七緒はそれを見届け、一番不人気の、寝具の列に並んだ。目当ての段ボールと薄汚れた毛布を受け取り、雨風が凌そうな岩の窪みを探した。ようやく列から少し離れた所に、良さげな窪みを見つけた時、ちょうどななかが戻ってきた。
「ななかちゃん」
「お姉ちゃん、はい」
もらって来た自分の椀を差し出すななかに、七緒はほほ笑んだ。
「良いのよ。それはななかちゃんが貰ったものだから。ななかちゃんが食べて」
「良いの……? お姉ちゃん、お腹空いてない?」
「私は大丈夫」
七緒は頷いた。それに、今更栄養の少なそうな粥をほんの少し口にしたところで、事態が好転するとも思えなかった。それより今夜また、雨が降るかもしれない。屋根のある寝床を探す方が急務だった。
「地面に寝っ転がれば良いじゃない。あたしも、みんな今までそうして来たよ?」
「そうじゃないのよ……おいで」
粥を一口で飲み干したななかを招いて、七緒は巨大な岩の窪みに入って行った。見ると、他の者は、地面の上に麻布を敷いている。その場でゴロンと横になって夜を過ごすようだった。だが、彼らと一緒になって一晩明かすには、少々危険が大きすぎる。
「怖いよ。暗い。もしまた地震があって、岩が落ちて来たらどうするの?」
不安げに見上げる幼子を宥め、七緒は一緒に横になった。段ボールを敷き、お腹に毛布をかけてやると大分暖かくなった。
「ねえお姉ちゃん、明日には着くかなあ? あたし、《桃源郷》に着いたらお腹いっぱいご飯が食べてみたい。あったかいお布団で眠ってみたい……」
すっかり懐いてしまったななかを腕に抱く。今夜は出来るだけ起きておくつもりだった。今の所誰もこちらに関心を寄せないが、こちらが女性とみて襲ってくるかも知れず、油断はできない。七緒は掌の中で兎の耳を握りしめた。
形見になった兎耳は金属製で先端が尖っていて、いざとなったらこれで突き刺してやるつもりだった。全く、『能力』が使えれば、こんな心配はしなくても良いのだが。それにしても『能力』がないとは、これほどまでに心細いものなのか。まるで銃弾飛び交う戦場を、裸で歩き回っている気分だ。普段『無能』たちはどんな気分で凡人狩りに遭っているのか、七緒は少しだけ垣間見たような気がした。
やがて夜が来て、七緒の予想通り、雨が降った。
雨は夜通し続き、だけど何も洗い流しはしなかった。黒煙も、溶岩も、疲れも汚れも。『無能』たちの恨み辛みも、この世の不条理も何もかも残したまま、雨は降り続けた。
細やかな雨粒をじっと眺めながら、七緒は随分長いこと物思いに耽っていた。
浮都に残してきた母親のこと。
いなくなった父親のこと。
六太という少年のこと。
ななかの素朴な疑問。
雨なんかで全てを綺麗さっぱり洗い流せるほど、この世のあれやこれやは、簡単じゃない。
朝が来て、ようやく雨が上がった。
まだ眠っているななかを窪みに残し、七緒は外に這い出した。
七緒は息を飲んだ。
外は、阿鼻叫喚の模様だった。死の匂いが、あちらこちらから立ち込めている。何処を見渡しても、死体。死体。死体。雨風に打たれ、衰弱し、死に絶えた者が多数地面に転がっていた。
体温を奪われたのだ。
サバイバルをする時に、『三の法則』というものがある。
これは、
①人は酸素が無くなると”三分”で死ぬ。
②寒さや暑さに”三時間”以上晒されると死ぬ。
③”三日”以内に水分や睡眠を取らないと死ぬ。
④食べ物を”三週間”程度取らないと死ぬ。
もちろん個人差や能力差はあるだろうが、過酷な環境下で生き残るための”三”にまつわる法則である。
上から順に優先順位が高い。ここで大事なのは、水や食料も確かに大事だが、それ以上に体温の確保が優先事項だということだ。食べ物は意外に後回しでも大丈夫だ。反対に、衣食住でも”住”の重要性は、案外見落とされがちかも知れない。
こうなることを、七緒はある程度察していた。三つに別れた人だかり、その全員が助からないことも。これは予知能力でも予言でもなく、科学的知識に基づいた予見である。
だが、彼女に何が出来ただろう?
たとえあの場で「食料は後回しにしろ」と叫んだところで、一体何人が聞き入れてくれただろうか?
七緒は恐る恐る列に近づいた。
わずかに生き残った者も、それはそれはひどい有様だった。空腹に耐えきれず、石や砂を食んで喉や食道を破き、血を吐いている者。喉の渇きに突き動かされ、酸性雨や、汚染された水たまりの水を飲んで、もがき苦しんでいる者。中には自分の血や、尿を飲んで身悶えている者もいる。血液も尿も塩分を多く含み、飲むと脱水が加速され、逆に体内の水分を消費する。
「お姉ちゃん……」
振り向くと、ななかが不安げな顔で起き出して来た。七緒は彼女に覆い被さるように、黙ってななかを抱き寄せた。
おかしなものだ。
下界で暮らすななかにとって、こんな光景は見慣れたものに違いない。むしろショックを受けているのは、七緒の方だった。人は死ぬのだ。こんなにも呆気なく。それでも幼気な少女に、こんな地獄を見せるのは忍びなかった。
それから七緒は、生まれたての死体が後生大事に抱えていた、飲みかけのペットボトルを集めた。雨が降っていたので、水の奪い合いはそこまでひどくなかったらしい。慎重に中身を確認し、持って行くことにした。死体からものを奪うという行為に多少罪悪感を覚えたが、しかし残った貴重な命の水は、生きている者にこそ必要なものだった。
「行くぞ」
それでも朝になると、誰となしに行進が再開された。動けない者は、その場に置いて行く。こうして昨日から、三分の一ほど数が減った。
「行きましょう」
「うん……」
七緒はななかと手を繋いで歩き始めた。出来るだけ死体の方を見ないようにして。苦しむ者が必死に手を伸ばし、足に纏わりつくのを振りほどいて。どうすることもできない。食料もなければ薬もない。水は、自分たちに必要なものだ。これから死に行く者ではなく、生きて行く者にとって。
人は
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