十三枚目 夜亥朱刻大地震焼失市中騒動図
牢獄の塀のように、ずらりと並んだ金網の、その数百メートル前に『秘密の通路』はあった。
「此処から下をくぐって、センサーを回避する」
七緒たちは黙って『通路』を下って行った。『通路』と言っても、中には明かりもなく、まるで鍾乳洞のように無数のつららが天井から足元から伸びていた。おまけに足元はしっとりと濡れていて、今にも滑って転びそうで、一歩進むのも大変だった。
「かつては此処にも、ずぅっと『地下の炎』が燃え盛っておった。それを我らのご先祖様たちが、文字通り体を張って炎を沈められたのじゃ。じゃからこの道を通る時は、偉大な先人たちに感謝せねばならぬのじゃ……嗚呼、『無能』の神に栄光あれ!」
信心深そうな老婆が、聞いてもいないのに七緒のそばに寄ってきて、そんな風なことを吹き込んだ。鍾乳洞は地下水が侵食して作られた洞窟なので、『地下の炎』云々はまるっきり作り話だと思う。もし『無能』の神がいるなら……『無能の神』というのも、妙な言い回しだが……信者に体を張らせている時点で、もはや誰も救えてないと思うのだが。
七緒は終わりの見えない暗闇の中で、慎重に足を踏み出し続けた。
視界も足場も悪い地下道を、『無能』たちが黙々と進み続ける。
「良かったぁ」
七緒の隣で、ぴったり体をくっつけて、ななかがホッとため息を漏らした。
「ネオ東じゃ『無能』は殺されてたから……此処まで来ればもう安心だねっ」
クスクスと囁くような笑い声が膝下から聞こえてきた。もう安心……とは、七緒には思えなかった。そもそも『有能』な人々が、この地下通路に気づいていないはずがない。それに、これから横切らなければならないのは、『無能』にとっては世界の中でも指折りの危険地帯なのだ。
「『泥梨』に入ったぞ」
低い声が前方から伝わってきて、列に緊張が走った。七緒も釣られて天井を見上げた。都境線。見えない壁の向こうに、金網がずらっと並んでいる……。
『無能』の扱いは、管轄する都によって違う。
ネオ東京では、『無能』は殺処分が善いとされている。
此処『泥梨』では、『無能』は
愉しむ……下手すればただ殺されるより非道い結末が、そこで待っているかもしれないのだ。七緒はブルっと体を震わせた。そして彼女の不安は、残念ながら的中することになる。
「此処からは空の下に出る」
「え……」
どれくらい歩いただろうか。足が棒のように固くなり、全身が汗でびっしょりとなった頃。不意に列の行進が止まった。そこで告げられた一言に、『無能』たちはざわついた。
「俺たちは今、『泥梨』の反対側の金網の近くまでいる」
先導していた『無能』のリーダーが訥々と説明しだした。
「後数百メートルで、向こう岸だ。だが『泥梨』とネオ関西を繋ぐ通路はない……地面の上に這い出て、出口まで走るしかない」
「そんな……大丈夫なの?」
不安げな人々に、リーダーが首を振った。
「行けば分かるさ」
とりあえず出口付近は背の高い雑草で覆われているから、外に出てみよう。
そんな風に言われて、『無能』たちは恐る恐る、白日の下に這い出した。七緒も慎重に後に続いた。数時間ぶりの太陽が目に沁みる。モグラになった気分だった。
洞窟を出ると、なるほど七緒の身長の倍はあろうかという長い雑草が、辺り一面に生い茂っている。足元は
『レディース、エェンド、ジェントルメェ〜ンッ!!』
突然大音声が頭の上から降ってきて、七緒は飛び上がった。
『”無能横断ウルトラレース”にようこそ! 大人気御礼視聴率90%ッッ! 今更説明不要のこのレース、しかし初心者の方のために今一度ルールを説明しましょうッ』
「何、あれ……?」
ななかが上空を見上げ、ぽかんと口を開けた。七緒も呆気にとられた。見ると、こちらに向けて、巨大な浮遊都市がゆっくりと降下していた。此処からでも、地面スレスレにまで近づいた『泥梨』の下がよく見える。
まるで気球とか、飛行船のようだ、と七緒は思った。浮都の底にはたくさんの『観覧席』が付いていて、そこで大勢の市民がくつろいでいる。みんな酒を呑んだり肉を食んだりして、興味津々で『無能』たちのいる草むらを覗き込んでいた。その様子に、七緒は見覚えがあった。サーカスの開演を待つ人々や、映画を楽しみにしている人。これから始まる余興を今か今かと待ちわびる人々に、そっくりだ。
『ルールは簡単ッ!! スタートと同時に、あの草むらから、大勢の『無能』たちが走りだしてきます! 参加者の皆さんはご自慢の能力やお手元の武器で、思う存分彼らをいたぶってくださいッ』
『獲物を殺したら1ポイント! 恐怖に泣き叫んだら3ポイント! それが原因でもし子供達の間でいじめが流行ったら……100ポインッツッ!!』
『見事お狩りになった『無能』は自由にしてよし! 首の剥製を壁に飾るもよし、奴隷にして連れ帰るもよし、スープと一緒に煮込んでもよし! 此処は自由の都ですから!!』
国際有能連盟は、世の中の害悪である無能を駆逐するため、この活動を応援しています。
最後にそうアナウンスが告げられ、空が急にシン……と静まり返った。これから起きることの前触れ、嵐の前の静けさだ。七緒は絶句した。呆れてしまうほどの悪意の塊……最悪の余興が、今幕を開けようとしていた。
「ちょっと……あれ」
誰かが空を指差した。降りてきた浮都と地面の間に、無数のトンボが飛んでいた。よくよく目を凝らすと、それはトンボではなく、小型の個人用飛行機に乗った参加者たちだった。悠に百は超えるだろうか。皆機関銃を構えたり、火炎放射器を構えてスタートの合図を心待ちにしていた。
「此処を走っていかなきゃ行けないわけ!? そんなメチャクチャな……」
『それではスタート!!』
誰かの抗議の声は、強制的な始まりの合図で搔き消されてしまった。たちまち草むらに火が放たれ、『無能』たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。それ以上の大歓声が、空から降り注いだ。
『さぁ始まったぁ! 本日はどんなドラマが生まれるか、命がけの逃避行を続ける『無能』たちに、容赦ない攻撃が与えられます……今日こそ柵越えをする『無能』が現れるのか!? それとも参加者たちの腕前が勝るのかッ!?』
「お姉ちゃん!」
「しっかりつかまって!」
七緒はななかを背負って、泥濘の中を走り始めた。
秘密の通路をあえて泳がせていた理由……恐らくはこのためなのだ。『無能』をいたぶって愉しむため。あっという間に景色が一変した。閃光と、爆音と、火薬の匂い。バリバリと、洗濯機の中にでも放り込まれたような衝撃が、上下左右から七緒に襲いかかった。
硝煙弾雨とは正にこのことだ。
血飛沫と土煙が舞い、すぐにどちらが前かも分からなくなってしまった。悲鳴を上げている暇もない。ただ分かっているのは、立ち止まったら死ぬということだ。泥濘を、横たわった誰かの体を踏み越えて、七緒はひたすら足を動かし続けた。
「お姉ちゃぁっんッ!!」
「口を閉じちゃダメよ!」
口を閉じていると、爆風や衝撃波で鼓膜が破れたり、眼球が飛び出してしまう。
『は〜い笑って〜。ピース、ピースゥ』
カメラドローンが降りてきて、七緒の横を並走した。このカメラの向こうに、自分たちの姿を見て嗤っている観客がいると思うと、七緒は虫酸が走った。彼女が無視していると、カメラドローンは銃弾に当たってその場で砕け散った。
「おい、さっきのあいつ……首輪してなくね?」
その遥か上空で。映像を解析していたディレクターが、声を上ずらせた。
「さっきの女だ。子供背負ってたやつ。も一回見せろ」
「どうしたんですか?」
「さっきの女だよ! 首輪してなかった奴がいるんだ!」
「『有能』が、『無能』に混じってるってことですか? そんな馬鹿な……」
だが、嘲笑はやがて緊張と興奮に変わり、爆発したような騒ぎになった。
『え〜先程入った情報ですが、緊急です! 大変なことになりました!』
やがて実況の声が地上に轟いた。上空の大型モニターに、七緒の顔がアップで映し出される。
『獲物の群れの中にッ、一人の『有能』が混じっていることが判明しましたッ! しかもただの有能じゃない、彼女は現役の『花形』ッ!! 本名は七海七緒! 悠乃高校一年の女子生徒ですッ!! 話によると東京砂漠で行方不明になっているということでしたが、まさかこんな所に現れるとは!!』
うねりにも似たどよめきが、会場を包んだ。
『これは大変だッ! まさか狩られる方に『花形』がいるなんて、前代未聞……そうだ! 彼女を殺したら、1000ポイント差し上げましょうッ!!』
当然のようにアナウンサーが言った。大歓声が沸き起こる中、七緒は血の気が引く思いだった。
とうとうこの時が来てしまった。何処かにスピーカーがあるのだろう、地上ではこれほど爆発音が鳴り響いているのに、アナウンサーの声はクリアに聞こえている。さらに背中から聞こえてきた声が、ザクザクと七緒の心臓を突き刺した。
「お姉ちゃん……」
「…………」
「お姉ちゃん……敵だったの!? あたしたちを、騙してたの!?」
「ななかちゃん……」
「離してッ!」
七緒に首輪がないことは、ななかからは丸見えだ。この状況では、隠すどころではなくなっていた。おかっぱ頭の少女は、七緒の背中で闇雲に暴れ始めた。
「離してよ! この裏切りものッ!!」
「ななかちゃん、待って!」
「いやああッ いやあああああぁッ!!」
「待って! ななかちゃん! ななかちゃん!!」
七緒の腕を振りほどき、ななかは黒煙の中を走り去ってしまった。
裏切り?
違う。そんなつもりはなかった。『無能』を騙してやろうとか、そんなつもりもなかった。ただ私は……。
『えー参加者の皆さん! 七海七緒は、ピンク色の髪をしているとのことですッ!』
頭上では、七緒の姿を一眼写そうと、ドローンが駆動音を搔き鳴らし飛び回っている。衆人環視の目を避けるように、彼女はななかを追って走った。だが……
「あっ!?」
近くで爆発が起きた。すぐに足元の死体に躓いてしまう。
気がつくと、七緒は血を流して倒れていた。真っ赤な血。他の『無能』や、ななかと同じ真っ赤な……彼らが人間ではないのなら、一体何なのだろうか?
『ピンク色の髪を探してください……あ! あれか!? 今あそこで倒れてる……あれかな!? そこに……参加者の銃撃が容赦なく襲いかかる! 七海七緒は……!!』
七緒は泥の中に顔を突っ込んで、頭上で唸る、自らの死を実況する声を聞いていた。ななかちゃん。手に、足に力が入らない。死ぬ前に、彼女の誤解だけは解いておきたかった。どうしてだろう? 自分でもよく分からない。ななかちゃんは『無能』なのに……その時だった。
ふと自分の腕を何かが掴んだ気がして、七緒は顔を上げた。
「貴方は……」
それは、いつか東京砂漠で見た影だった。七緒がガイコツと戦っていた時、彼女の刀を掴んだあの黒い腕。七緒の刀を奪った張本人。闇の奥で、真っ赤に光る瞳。七緒は息を飲んだ。
「貴方は……もしかして貴方が、道花師なの?」
黒ずくめのフードを被ったシルエットは、何も言わず、ただ七緒を見下ろしてニィィ……と嗤っていた。
『さぁ弾丸の雨あられ!! ゲリラ豪雨のような攻撃! 七海七緒は、一体どんな能力で対抗してくるのか……しかし今の所何もない……何もありません。これは拍子抜けですね、はい。やられてしまったのでしょうか? 抵抗して、泣き叫んでくれないとこっちもいたぶりがいがありませんねえ……おや? これは七海七緒ではなく? 近づいて良く見ると、髪が血で赤く染まっただけの、『無能』の少女でした。紛らわしいおかっぱめ……はいそこ! どさくさに紛れて金網を登ろうとしている『無能』! 金網には高圧電流が流れているので、誰も助からないのでした〜残念また来世〜!!』
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