⑤
「ママー。今日はお天気悪いんだってー」
テレビ前のソファーに座っていた加奈子はこちらを振り返ってそう言った。
心配そうにしている娘と目が合うと私はつい放っておけなくなってしまい、適当なところで食器洗いを切り上げた。
「お買い物行けるかなー?」
「大丈夫よ。まだ降ってないみたいだし」
私は濡れた手をタオルで拭い、加奈子の隣に腰を下ろす。窓越しに外を見ると、確かに空はひどく曇っていた。日の光を一切地上に降ろすまいと、灰色の雲たちが寄ってたかってひしめき合っている。雨が降り始めるのも時間の問題のような気がした。
廊下から物音が聞こえてくると、程なくして身支度を済ませた謙也さんがリビングに姿を現した。彼は襟を立てた白いポロシャツにチノパンを合わせ、左手首にはカシオの黒い腕時計を巻いていた。
ちなみに、相変わらずみぞおちのあたりから大きく膨らんでいるそのお腹の中には、夢と希望が詰まっているらしい。ある年の会社の忘年会でそのギャグがウケて以降、もう何年もそれを持ちネタにしていると教えてくれたことがあった。
こちらに来る途中、謙也さんはシンクに中途半端に残されていた食器を見つけ、「光代も先に着替えておいでよ。残りは僕がやっておくから」と言ってくれた。
私はそんな彼に向かって「うん、ありがと」と言う。「今日も相変わらず優しいのねっ」
「光代にだけだよ」と彼はいたずらに笑った。
そのやりとりを隣で見ていた加奈子は「パパとママ、今日もラブラブな世界入ってる」と呟き、不貞腐れてしまったのかわざとらしく口を尖らせた。「今日の主役は私なんだけどなーっ」
嫉妬したのだろうか。私は娘のその言葉につい感情を抑えきれなくなってしまい、些細なことでもポキっと折れてしまいそうなその華奢な身体を胸元に抱き寄せた。もうっ、可愛すぎるってば。辛うじて言葉には漏れなかったが、きっと私の顔は緩みまくっていたに違いなかった。
「……痛いよ、ママ」
胸の中に顔を埋めた加奈子のくぐもった声が聞こえてくると、私は彼女の背中に回していた腕を慌ててほどいた。「ごめんごめんっ。ついギュってしたくなっちゃったから」
「もうママったら。私はもう小学生なんだよ? そろそろ子供離れしないと」
そう言って頬を膨らませる加奈子をもう一度抱き締めたいと思ったが、さすがに嫌われるのは避けたかった私はなくなくそれを我慢した。キッチンからその様子を見ていた謙也さんは微笑みながら「そうだな。加奈子は今日で七歳になるんだもんな」と言った。
「そうだよ」と加奈子は胸を張って大きく肯く。「今日から私も大人の仲間入りなんだからっ」
満面の笑みをその小さな顔に貼り付けている彼女がふと天使のように思えてしまう私はやはり親バカなのだろうか。目に入れても痛くないというのは本当なのかもしれない。そんなことを考えながら娘の顔をじっと眺めていると、やがてキッチンの方からシンクを叩く水道水の音が聞こえ、ほとんどそれと同時に謙也さんが「そろそろ光代も準備しないと遅くなっちゃうぞ」と言った。
「はあーい」というまるで子供みたいな間延びした返事をリビングに残し、私は仕方なく寝室に移動する。知らず知らずのうちに化粧台の前で軽快な鼻歌を歌いながら化粧をしていたことに気付いた時には、さすがにフッと笑い声が漏れてしまった。
「自分の誕生日でもこんなに喜んだことないのにねっ」
私は思わず鏡の中の自分に向かって独り言を呟いていた。
今日は愛する加奈子の誕生日。何でも好きなものを買ってあげるからと一週間ほど前から家族三人でショッピングの予定を立てていた。今住んでいる2LDKのマンションから十五分ほど歩けば最近リニューアルしたばかりの大型ショッピングモールがある。そこには若者向けのファッションブランドや雑貨屋、ゲームショップに書店と、子供がプレゼントに欲しがりそうなジャンルの店は一通り揃っていた。
財布の中身は事前に補充済みで、あくまでもないとは思っているが、万が一の場合は謙也さんのクレジットカードを切ることも了承を得ていた。
二十分ほどかけて身支度を済ませた私がリビングへと戻ると、謙也さんはすでに食器洗いを終えてソファーでテレビを観ながら寛いでいた。
「いつでもいけるよっ」
私の声にこちらを振り返った謙也さんはしばらく視線を上下に動かすと、やがてその顔に笑みを浮かべて「今日もいい感じだねっ」と褒めてくれた。結婚してもう七年が経つというのに、彼の褒め言葉はいつも嘘っぽくなくて何回言われても飽きなかった。
「だーかーらーっ」とすかさず加奈子の不満げな声が飛んでくる。「主役の私を差し置いて二人でラブラブしないでって言ってるじゃん」
「ギュってするとまた怒られちゃうぞ」
謙也さんは私の心の中を見透かしたかのようにそう言った。
「ママ、今日は私に抱きつくの禁止だから」
「えー、なんでよーっ」と言う私はわざと頬を大きく膨らませた。
すると、加奈子はこちらを見て「変な顔ーっ」と大声でキャハハと笑い出す。謙也さんも私もその笑い声につられて気付けば頬が緩んでいた。
そんなたわいもなくてくだらない、でも自然と笑みがこぼれてしまうようなそのやりとりの中に私は何よりの心地良さを感じていた。きっとこれを幸せと呼ぶのだろうと気付いたのはつい最近のことだった。しかし、それを自覚してからというもの、心が満たされていく日々の中で私はいつしかこの日常を失ってしまうことを恐れるようになっていた。
「んじゃあ、そろそろ出発しようかっ」
私は謙也さんの声で我に返った。
膝を叩いてソファーから立ち上がった彼はリモコンに手を伸ばしてテレビの電源を落とし、掃き出し窓のカーテンを閉めた。
「やっぱ降りそうだね」と彼は言った。
どうやらまだ雨は降っていないようだが、依然として空は分厚い雲に覆われているらしい。私たちはそれぞれ一本ずつ傘を持って家を出た。
大型ショッピングモールまでの道中、灰色の空は私たちが外に出てくるのを待っていたと言わんばかりに本降りの雨を地上に叩きつけ始めた。
「すごい雨だな」
頭上で雨粒が途切れることなく傘に弾かれているせいで謙也さんの声は聞こえづらくなっていた。きっとこっちの声も向こうに届いていないんだろうな、と思いながら私は「そうだね」と返事をした。
念のため長靴を履かせておいた加奈子は私のすぐ左側で両手を広げ、歩道の縁石の上を綱渡りするように歩いていた。「危ないから下りなさい」とさっきから何度注意しても「大丈夫だって」と彼女は聞く耳を持とうとしない。そんな彼女を私が半ば強引に引っ張り下ろすと、「もうっ。だから大丈夫だって言ったのに」とわかりやすく不貞腐れた。
「怪我してからじゃ遅いのよ?」
私は穏やかな声で諭してみようと試みるものの、加奈子は何も言わず逃げるように前方へと駆け出してしまった。パシャパシャという軽快な足音とともに歩道にできた小さな水溜りは跳ね上がり、数メートルほど先でその足を止めた彼女はこちらを振り返ってあっかんべえをした。
「鬼さんこちらっ。手の鳴る方へーっ」
そう言って遠くでニカッと笑みを浮かべた加奈子は、まるでこちらを挑発するようにわざとらしく縁石の上に片足を置いた。彼女はきっと私に追いかけてきてほしかったのだろうが、さすがに道路で娘と追いかけっこをするのは色々と気が引けてしまい、結局は「気をつけなさいよー」と声をかけるだけにとどめた。
「つまんないのーっ」と向こう側から加奈子の大声が届く。
「まったくもう、子供なんだからっ。怪我でもしちゃったらどうするのよ」と私はふっと綻び、謙也さんに「ねえ?」と同意を求めた。
「まあ、子供のうちは怪我するくらいが丁度いいんだよ」
「駄目よそんなのっ」と私は大きく首を振る。「あの子には痛い思いとか辛い思いは絶対にして欲しくないんだから」
「そうは言ってもさ、多少はそういった経験もさせておかないと将来あの子が独り立ちした時に困っちゃうだろう?」
珍しく意見してくる謙也さんに私も咄嗟に言い返してしまった。「別に困らないわよっ。だってあの子はずっと私が守ってあげるもの」
「うーん、でもなあ」と未だにどこか煮え切っていない様子の彼は口をすぼめて頭の後ろを掻き始めた。「いつかはあの子も僕たちの手元から巣立っていく日が必ずきちゃうんだよ。それが親子の運命だろう?」
「なにそれ。いきなり運命とか言わないでよ」
そっぽを向く私に謙也さんは「なあ、光代。ちゃんと聞いてくれよ」と宥め始めた。彼の声は雨音に紛れながらもはっきりとこちらにも届いた。
「別に今すぐにどうこうとか、そういう話じゃないんだ。でも、いつかはあの子も自分の足で歩き始めなきゃいけない時がくるだろう? それは就職してからなのかもしれないし、結婚した後なのかもしれない。中学や高校の時から親元を離れて寮で暮らし始めるって可能性もある。だからさ、今のうちにあの子にも何が危険で、どうすれば自分の身を守れるのかっていうことを少しずつ身をもって学んで欲しいと僕は思うんだよ」
その言葉にどうしても首を縦に振れない自分に嫌気がさした。
謙也さんの言っていることが正しくて、自分が間違っていることは理解していた。それでも今のうちから大事な娘が自分の手からいずれ離れていくことを前提に育てていく気にはなれなかった。それはきっと私にとってかけがえのないこの大事な時間を、加奈子にとってはただの将来への助走期間でしかないと言われているみたいで悔しかったのかもしれない。私にとってはこの三人の家族で笑い合って過ごしている日常こそが人生の全てで、最も幸せを感じられる瞬間だったからこそ、加奈子や謙也さんにも私と同じ熱量で私と同じ風に思ってもらいたかった。それが我儘で傲慢であることは重々承知していた。
しかし、ようやく手に入れた幸せな日常がいつかは手放さなきゃいけないことを知りながら生きていけるほど、私は大人になりきれていなかったのかもしれない。
気付けば「……そんなの嫌だよ」と口にしてしまっている自分がいた。
隣で小さくため息を吐いた謙也さんはそれ以上は話すだけ無駄だと思ったのか、私の返事を最後に彼は何も話さなくなってしまった。
それからしばらくは無言で歩き続ける二人の傘を重たい雨粒が殴り続けた。
私の頭の中には何か違う話題で沈黙を破りたいという思いが占領していたが、結局はちょうどいい話題が見つからないままただ足を前に動かし続けるという時間がダラダラと長引いた。
こんなことになるくらいならさっき加奈子をあのまま追いかけておくんだった。謙也さんと痴話喧嘩なんてほとんどしたことなかったそのツケが今更になって回ってきたのだろう。私はこの気まずい空気の終わらせ方を知らなかった──
それからどれくらいの時間が経っていただろうか。
私と謙也さんが信号のない横断歩道を渡っていると、突然、前方から鬼気迫る加奈子の叫び声が聞こえてきた。
「ママッ! パパッ!」
その声に私と謙也さんはほとんど同時に前方にいた加奈子に目を向けていた。
彼女は大きく目を見開いて今にも泣いてしまいそうな恐怖に怯えた表情を浮かべ、またこちらに何かを訴えるように道路を指差しながら叫び続けている。甲高くて悲鳴に似たその声は雨音のせいで聞き取りづらく、やがてゴムが激しく擦れるような耳障りな音と短い断続的なクラクションが重なった。
断片的に「……ぶない」とだけ加奈子の声が届く。
「どうしたのーっ?」と私が隣を振り返ったその直後の出来事だった。
一瞬のうちに目の前の景色が変わり、いつの間にか私は顔全面に降り止まぬ大量の雨粒を受けていた。視界の全てが灰色の空で覆われている。程なくして背中に強い衝撃が加わると、私はようやくそこで自分の身体がしばらく宙に浮いていたことに気付いた。「ママーッ! パパーッ!」と泣き叫ぶ加奈子の声が微かに聞こえてくる。その声に反応して立ち上がろうとするが、私の身体はいつの間にか指一本も動かせなくなっていた。返事をしようとしても息が詰まって声すら出せない。呼吸がひどく乱れ、うまく酸素を取り込めない。
遠くから聞こえてくる「大丈夫ですかっ?」という声で私はふとそちらに視線を動かしてみると、視界の隅で地面にうつ伏せで倒れている謙也さんを見つけ、思わず目を瞠った。咄嗟に名前を叫ぼうとするが、やはり声は出てくれない。みるみるうちにチノパンと白いポロシャツが赤く染まっていく彼の姿に私は手を伸ばそうとした。手足の関節もあり得ない方向へと曲がっている彼のもとに駆け寄りたかった。それでもやっぱり身体は言うこと聞いてくれない。
謙也さんが即死であることはすぐにわかった。それを見て、私もきっとじきに死んでしまうんだろうと悟ってしまった。身体的な異常は抱えながらも意外と心は冷静であることに私はつい笑ってしまいそうになる。しかし、口角はピクリとも動かなかった。
やがて目の前に現れた大人は私に向かって何かを言っていた。もう耳もほとんど使い物にならなくなっていた。頬の上を雨粒が叩き続ける感覚だけが、辛うじてまだ生きていることを知らせてくれる。おそらく目の前の大人は私を見下ろして絶望していた。全身から血液が抜けて体温が低下していく一方で、背中を覆う溜まりからは微かな温もりを感じていた。
次第に意識が朦朧とし始めると、目に映る景色はピンボケしたように世界の輪郭と捉えきれなくなり、空と地面が同化し、人と風景の判別がつかなくなった。ただ、なんとなく私の周りに大勢の人が群がっているのだけはわかった。その中のどこかから「ママ、いかないで」という声が聞こえてきたような気もした。でもそれはただの思い違いだったのかもしれない。
それなのに、何故だか私はその聞こえた気がした娘の声に安堵していた。
死の淵に立っていた私は愛する加奈子に泣いてもらえる人生を、ふと幸せだと思ってしまった。心残りがあるとすれば、それは謙也さんとのあの気まずい空気を終わらせられなかったことだ。死はあまりに唐突にやってきた。
私は心のどこかで彼が私と同じことを後悔していればいいのにな──なんてことを期待しながら、それを一生確かめ合うことのできない運命を心の底から呪った。でも、きっとこれが運命というものなのかもしれない。
どう足掻いたって変えられないことはずっとわかっていたはずなのに、今更になって私は目の前に訪れた運命に嘆いていた。事前に運命を教えてくれなかった神様を恨んでいた。
それでも結局、私は何にも抗えないままゆっくりと落ちてくる
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