③
謙也さんと付き合うようになってから二年が経った頃、私たちは小さな命を天より授かった。初めて産婦人科から帰ってきた日の夜、彼は不安でいっぱいだった私のことを強く抱きしめながらプロポーズをしてくれた。泣きながら「ありがとう」と言ってくれた彼につられて私も大粒の涙を流しながら「こちらこそ」と言った。
彼の実家を訪ねた際には、さすがに順序が逆転していることに対して嫌な顔をされるのではないかと心配していたが、それも結局は杞憂だった。お義父さんもお義母さんも泣きながら喜んでくれたのだ。その二人の姿を見ながら、私は謙也さんがどれほど愛情深い親のもとで育てられていたのかを知ったような気がした。
その日の帰り道、手を握りながら「私たちもいつかはあんな風に子供の結婚を喜んであげたいね」と言うと、彼は優しく微笑んで「そうだね」と肯いた。
吐く息が白く染まり始めた日のことだった。
翌年の夏には
名前に関しては、籍を入れた時から女の子が生まれたら加奈子にしようとは決めていた。謙也さんは「本当にいいの?」なんて言いながら苦笑いしていたけど、「これが夢だったから」と返事をすると彼は渋々納得してくれた。娘の立場になって考えてみれば迷惑だったのかもしれないが、偶然にも妊娠した年に『サラバ!』が直木賞を受賞したのだ。運命を感じずにはいられなかった。
それから二年後の春に、謙也さんの家族と親戚、食品メーカー会社に勤めていた彼の同僚や上司を数人招いての小規模な結婚式を開いた。彼がお菓子部門の企画立案や新商品開発に携わっていることは前々から聞いていたが、社内でもかなり評判が良く、重宝されている人材であったことは上司のスピーチによって初めて知った。「謙也さん、すごいんだね」と隣を向くと、「そんなことないよ」と穏やかな笑みで謙遜する彼と目が合う。気付けば普段見ることのないそのタキシード姿が新鮮でつい見入ってしまう自分がいた。
余興のビンゴ大会では箱根旅行のペアチケットを引き当てた彼の同僚が「これでしばらくは妻の機嫌が損なわれずに済みそうです」と司会者のインタビューに答えていたのが可笑しくて、謙也さんと二人で顔を見合わせて笑った。
ちょうどその時にお義母さんがこっそりシャッターを切っていたという写真は、今では写真立てに入れて玄関に飾っている。お義母さんは家に遊びに来るたびにその写真を眺めては「私ってやっぱりカメラマンの才能があるのかしら」と自画自賛していた。そしてその様子を私が微笑ましく見ていると、加奈子に「どうしてさっきからママとばあばはニヤニヤしてるの?」なんてことをしょっちゅう言われた。
お義父さんとお義母さんは私のことを本当の娘のように可愛がってくれた。時々、そんな彼らの大きな愛情を小さい頃から一身に浴びていた謙也さんのことを羨ましく思うことがあった。だからこそ私はとびっきり大きな愛を加奈子に注いだ。自分にできることがあれば何でもやった。
まずは手始めに茶色いフレームの安物の丸眼鏡を買い、これまでコンタクトに使っていたお金を全て子供服に換えた。小さい頃からピアノを習わせると脳が発達するという論文がテレビで紹介されれば、すぐに近くの音楽教室に通わせた。深夜に加奈子が発熱すればどんなに微熱だろうと必ず救急病院まで連れて行った。小骨を喉に詰まらせてしまうことが心配で、食卓に焼き魚が出た際には欠かさず私が魚の骨を入念に取り除いてあげた。加奈子を保育園に預けるようになってからは夕方までスーパーのレジ打ち店員として働き、その給与は全額、子供用の医療保険や学資保険に回した。
そんな毎日を辛いとは一切思わなかった。おそらくそれは私が娘を心の底から愛していたからなのだろう。食べ物の好き嫌いがないところも、謙也さんに似て社交性が高く誰にでも分け隔てなく優しいところも、私が勧めた小説を難しいながらも頑張って読んでくれるところも、そしてどっちに似たのか運動会のかけっこでは毎年のように最下位をとってしまうところも、加奈子の全てが愛おしかった。
たぶん私は典型的な親バカだったのかもしれない。謙也さんはそんな私のことを全て受け入れてくれた。
今でも時々、加奈子が寝静まった夜にベッドの中で優しく抱いてもらうことがあった。そんなある日のこと、私は彼の分厚く温かい身体に包まれながら「ありがとう」と言い、大きな手のひらで頭を撫でながら「こちらこそ」と言う彼の声に安堵してようやく目を瞑った。
──私たちもいつかはあんな風に子供の結婚を喜んであげたいね。
──そうだね。
まぶたの裏にふと遠い昔の記憶が蘇る。ちょうど肌寒くなり始めた頃の出来事だった。
その翌年の春、加奈子は小学生になった。
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