第8話「食欲なんて無いに決まってるが?」
そして——朝のHRを終えた俺は、午前中の授業を乗り越えていく。
正直、朝の通学路やHR前の時間に比べたら授業中はとても楽である。
先ほど述べたように、授業を受けている間は基本的にみんな黒板の方を向いているので、女の子の視線を浴びる心配がないのだ。
まあ、隣の席の奴からランダムアタックを食らうことはたまにあるが……それも急に来るので毎回心臓が止まりそうになるが、まだ耐えられる範囲だ。
唯一みんなで会話をしたり注目を浴びたりする休み時間も十分くらいしかないし、待っていればすぐに次の授業が始まる。
もちろんダメージは着実に重ねているが、まだトイレへ駆け込むほどではない。
つまり、ここまではいいのだ。
至って順調だ。
時々予想外のイベントが発生しつつも、まだ死にかけるほどではなかった。
問題は——ここからなのだ。
◆◆
四時間目の授業が終わり、チャイムが鳴り響く。
そして、昼休みが訪れた。
教室に残って弁当箱を広げる生徒や、財布を持って購買へ走る生徒も多い中。
俺、
この高校の学食はメニューが豊富で量も多く味も美味しいと評判で、学年を問わず様々な生徒たちから人気がある。
値段は他の高校の学食と比べて少し高いらしいが、その分高いクオリティを維持してくれるので文句はない。
普段は弁当や購買で昼食を済ませる中、たまに学食を利用するというのが、この高校の生徒の基本的なルーティンである。
「おお〜、今日はまた一段と混んでるね〜」
食堂の中に入ると、瑞原が周りをキョロキョロと見回しながら言う。
俺たちがここに来た頃には、既にたくさんの生徒がテーブルの席に座っていた。
カウンターの前には長い列ができ始めているし、食券機の前にも人集りができている。
学食にはたまにしか来ないのだが、いつ来ても賑やかという印象があるな。
「見慣れない顔ばかりだねー。やっぱり一年生が多いのかな?」
「だろうな。中学ではほとんどの奴が給食だっただろうし、入学してから一ヶ月経っても一年にはまだ人気があるんだろ」
「大体席が埋まっちゃってるなぁ……座れなかったら中庭で食べようか」
美玲の言葉に彰が頷き、若葉は小柄な体から背伸びをして食堂内を見渡していた。
席が全て埋まってしまった場合は、学食で購入した料理を食堂の外に持ち運んで食べることができる。教室や部室、または中庭や校舎の外のベンチなど、場所は様々だ。
基本的に食器さえ返却すればお咎めはないので、学食が混んでいる日はそういう選択肢がある。
加えて、この高校は『上級生が偉い』みたいな風潮もないので、一年生たちが食堂の席を埋めていても文句を言う奴はいない。
まあ……食堂の奥の方にある席はカーストが高い生徒が座る、くらいの暗黙の了解はあるけど。
どこの場所でも、奥の席は大体人気があるのだ。
「えーっと……ああ、奥のテーブル席が空いてるね。僕らはあそこで食べようか」
「オッケー!」
すると、案の定席が空いていたので慎司がそこを指差した。
それに対して瑞原が元気よく答え、いの一番にそこへ小走りで向かう。
慎司や美玲は奥があえて空けられていることも気づいているし、そこに自分たちが座るのも自然だという自覚があるが、他のメンバーはまるで気にしていない様子。
真の陽キャというのは、そういった面倒くさい空気を読む必要も特にないのだ。
「じゃあ、私みんなのお水持ってくるね」
「手伝うよ若葉。一緒に行こ」
若葉と美玲の二人がお盆や水を取りに行き、残る俺たちは席を確保しに向かった。
——さて、始まったな。昼休みが。
俺は密かに拳をギュッと握る。
日常生活において、女性と接した時には常に恐怖症状が起こっている俺だが——中でも食事の時間というのが、かなりの苦行なのだ。
当然ながら、女の子たちの視線を感じながらご飯なんて食べられるわけがない。
ただでさえ常に動悸や吐き気、体の震えや寒さに耐えているというのに、それらを全て押し殺して食事をするなんて難易度が高すぎる。
簡単に言うと——死ぬほどランニングをした直後に大盛りの白米を三杯ぐらい食べるようなもの。
運動部の間では食事もトレーニングと言うが、それを通り越して過酷な修行としか思えない。
吐き気を堪えながらも食べ続けなければならない地獄の時間なのである。
じゃあ一人で食べろと言われるかもしれないが、生憎と俺は学内トップカーストの陽キャ。ぼっち飯なんて俺の仲間たちが許してくれないのだ。
唯一の希望は、慎司と彰の男三人だけで昼食を食べる日だけだからな。
「わぁ……何あの先輩たち、カッコいい……」
「真ん中にいるのって、噂の
歩いている間にも、周りの一年生女子がヒソヒソとこちらに視線を向けていた。
予想通り、食堂にいるほとんどの女の子たちに噂されている。怖すぎる。食べる前から吐きそう。戦う前から負けてるみたいなもん。
やっぱり、久藤グループが集まると注目されるよなぁ……。
「ふい〜っ、お腹空いたー! みんなは何食べるの?」
そんな俺の嘆きも周りの視線も気にせず、ドカッと席に腰を下ろした瑞原が、俺たちにそう聞いてくる。
「俺はもちろんカツ丼大盛りだよ。朝練でだいぶ腹減ってるしな」
「僕も同じく。運動部の男子は絶対だよね」
「ああ。つーかそれしか頼んだことねぇ。それさえ食っとけば間違いないみたいなとこあるし」
彰と慎司が口にしたのは、恐らくどこの高校にもあってどこの高校でも大人気のメニュー。
ボリュームのあるトンカツをフワフワの卵でとじてあり、そこに紅生姜のスパイスも合わされば珠玉の逸品と化す。
彰が言う、これさえ食えば間違いないという意見はある意味正しい。
彼らの言葉を聞いて、瑞原は「ほぉー」と相槌を打った。
「彰が大盛りなのは見たら分かるけど、
「そりゃ僕も食べ盛りだから。それに、サッカー部には僕の他にもよく食べるけど細い奴とか結構いるよ」
「慎司たちは鍛え方がなってねぇんだよ。プロテイン飲めプロテイン」
肩をすくめる慎司の背中を彰がバシバシと叩く。
「そうなんだー」と呟いていた瑞原が、いい笑顔でピースを作った。
「私は安定のから揚げマヨ丼大盛り!」
「
「だってめっちゃご飯進むんだもーん。ボリューム凄いし、放課後の練習までお腹保つからね」
彰の言葉に美味しそうな顔で答える瑞原。
から揚げマヨ丼は、ピリッと辛い唐辛子のタレとマヨネーズの二つの相性が抜群で、カツ丼に負けず劣らず人気のメニューだ。
ネギとキャベツといった野菜が味を支えており、前から彼女のソウルフードらしい。
「——で、久藤は何食べるの?」
「…………俺は」
瑞原にそう聞かれ、俺は一度熟考した。
普通に考えれば俺も食べ盛りの男子高校生。
彰や慎司のように大盛りメニューを頼むべきだが、残念ながら食欲はゼロ。もはや水だけでいいレベルにある。
こんな状況で大盛りご飯を食べたら地獄を見るし、かと言って極端に少ない量を頼んでもみんなに訝しがられる。
地獄をとるか、それとも怪しまれた方がマシか。
果たしてどちらが最良の選択なのか……。
「……うーん、何だか今日は食欲がないから、あっさりとした素うどんとかでいい気がするな——」
「
「っ!?」
お盆に水を乗せて運んできた若葉が、背後からピョコっと現れた。
控えめに言っても心臓が止まりそうになった。
何で気配を消して近寄って来るんですかね……この世の女って全員アサシンの素質があるのか?
「ま、まあな。実は今朝から体がだるくてさ」
「……それって連休中に徹夜して本を読んでたせいなんじゃないの? 寝不足で体調不良なんてだらしないよ?」
「ハハハ、次からは気をつけるよ」
「もう、自分の体なんだから大切にしなくちゃ」
仕方なさそうに溜息を吐く若葉に対して、俺は真摯に謝り続ける。謝るので殺さないでください。怒った若葉、怖えんだもん。
「なになに、何の話?」
「あ、美玲ちゃん。蒼くんが食欲ないって話をしてて……」
若葉の後ろから、美玲が水を持って俺たちの所へ戻ってきた。
「へぇ、珍しいね。蒼ってご飯大好きなのに」
「えーっと……最近美味しいもの食べ過ぎて太り気味だったからな。ここらでダイエットをするのに丁度いい機会で……」
「男子なら走って脂肪燃やしな? 蒼は帰宅部なんだから運動不足ってのもあるでしょ?」
ジト目の美玲が、俺の腹部を指先で突いてくる。はい怖すぎ。危うく反射で避けそうになった。
もちろん、実際は寝不足でもないし太り気味でもないのだが。むしろ、日々のストレスで体重が著しく減っていくので、今の体重を維持するのに必死である。だから休日はめちゃくちゃ飯を食べなくてはいけないのだ。
というか——やっぱりみんなに怪しまれちゃってるな……。
「ええ〜!? 久藤そんだけでいいの!?」
「食事の量を減らすダイエットなんて、あんまり体に良くないんじゃない?」
「腹いっぱいになったら残りを食ってやるからよ、できるだけ飯食っとけ」
瑞原、慎司、彰の順に心配の言葉をかけてくる。
それに対して俺は思わず頬を引きつらせていた。
みんなの気持ちはありがたいんだけど……その、食欲がね……?
ヘラヘラとした笑みを浮かべてみるが、仲間たちの怪訝そうな表情は変わらない。
………………あー、くそっ。やるしかねぇ。
「……やっぱ今のなし。カツカレー大盛りで」
俺がそう訂正すると、みんなの表情が元に戻った。
若葉なんか露骨にホッとした顔で胸を撫で下ろしている。心配かけてごめんね。でも一番心配なのは俺自身なんですよ。
これから体験する地獄に向けて、俺の心拍数は徐々に上がっていった。
……今日は生きて帰れるだろうか?
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