湯屋の清水
1 ある男の話
福田甚右衛門は、暮れの六つ鐘がとうに鳴りもう足元が暗い道を、早歩きで抜けていた。
ずんぐりとした身体つきに、厳つい顔。
喋ればしゃがれ声のその口をへの字にぎゅうっとしているその様子は、どこか近寄りがたい無骨そうな侍である。
この福田はつい先日、新たにお役目を賜ったばかり。
なんと、南部家下屋敷留守居役の警護を仰せつかったのだ。
福田は侍とはいえ、これまでの暮らしは町人に毛が生えたようなものだった。
いや、そこいらの町人よりも貧しい暮らしぶりだったかもしれない。
けれどそんな己が殿の目利きによって幾人かの内から選ばれたのだから、その期待に応えてみせようではないか。
これで仕事ぶりを上に見せれば、将来が開けてくるかもしれない。
なので、休息などをとっている暇など本当はないのだ。
このように意気込んでいた福田であるが、今の所毎日が実に平穏だ。
さらには、これまで湯屋に通う金すら惜しみ、井戸の水で身体を洗う程度で済ませていたのを、「お屋敷詰めとなれば、日々身綺麗にしておくのも勤めの一つ」と遠山様にきつく言われ、毎日湯屋に通うようになった。
なんという贅沢かと思ったものだ。
住み込みの奉公人娘から、屋敷の風呂を焚こうかと言われたのだが、これはやんわりと断った。
このあたりは町人の長屋に近い場所で、風呂を焚くための火をあつかうには、火事を防ぐための厳しい決まりがある。
大変な思いをしてまで風呂と焚かずとも、郷里の田舎から出て来た福田には、湯屋だって大層な場所である。
それに、主である遠山様が湯屋通いをしているというのに、福田が一人屋敷の風呂を使うなんぞできようものではない。
なので福田は今もこうして、湯屋からの帰り道を急いでいる。
それにしても、同じくらいに仕官した者は奥勤めとなり、お殿様の周りに侍ることで一日中気の休まることのない仕事だと聞いているというのに、この気楽さはどうしたことか?
「いかん、いかんぞ生ぬるい生活に慣れてしまっては。
いつなんどきでも槍を振るえる心づもりをしておかなくてはな。
それに警護役が、主と長く離れているなど言語道断なり」
そんなことをぶつくさと呟いている福田だが、実は足が速くなってしまうのは、責任感だけが原因ではない。
堀沿いを歩いていると、暗い中でそろそろ灯り出した提灯の明かりが堀の水に写っている。
その明かりがゆらゆらとしているのが、なんというか、なんとも……。
妙な想像をした福田は、ぶるり、と小さく身を震わせせてから、早く明かりの灯された場所へ帰ろうと、さらに足を速く動かす。
この男、実はたいそうな怖がりなのだ。
こうして早歩きで通りを行く人々をだんだんと追い抜いていくと、ふと堀の小舟を着けている場所で、小さな影が揉みあっている姿が目に入った。
暗くてよく見えないが、背格好からして子どものそれで、どうやら一人をよってたかっていじめているように思えた。
「こりゃお前たち、なにをしているか!」
福田は声を張り上げると、その船着き場に向けて小石をびゅんと放る。
「ギャア!」
するとその子らは少々奇怪な悲鳴を上げると、堀に飛び込んで散り散りになり、いじめられていた子どもまでもいなくなった。
――泳いで逃げるのか、江戸の子らは頑丈よなぁ。
江戸に出て来てあまり長くない福田は、そのように思ったが、この冬の寒空の中で堀を泳ごうという子どもなんぞ、江戸にはそういないと知るのは後になってからだ。
そして、「誰もいない船着き場」に向かって大声を張り上げる福田のことを、通行人が妙な輩を見る目で見ていたなんて、それこそ知る由もなかった。
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