32 千吉と烏

 男は事情も話してくれた。


「あやつ、軽いいたずら心だとうそぶいていたが、大方兄貴分への反抗心であろうよ。

 あれはいつまでも幼稚なところがある故な」


さらには、少年が途中で扇を落としたのも、実際には落としたわけではなかった。

 その悪戯烏天狗がそうっと後をついてきて、気付かぬうちに盗んだものを、そこいらに放り落としたということだ。

 これも面白おかしそうに白状したというのだから、そちらの方が大悪党だ。


「なぁるほど、大川の橋の上なんてわかりやすい場所に落ちていたのに、すぐに拾えていねぇなんておかしいと思った」


千吉が納得顔で頷いている。

 確かに、橋の下やどこかのお屋敷の屋根の下にあったのならともかく、大川の橋の上だなんて見えやすい場所にあって、落として気付かなかったというのはおかしい。

 しかも扇とやらは、かなり大きなものだというのに。

 加代はこの少年がよほどの粗忽者なのかと思っていたが、そうではなかったようだ。


「これが江戸の町にさんざん振りまいた妖気も、既にずいぶん薄れてはいたものの、残りをきっちりと吹き飛ばしておいたので、そこはご安心なされ」

「まあ、それはよかった」


加代が最も心配していたことは、どうやら解決したらしい。

 これでまだ悪事をはたらく者は、根っからの悪党だけということだろう。


 ――けどきっと今回のことで、親分さん方や同心のお侍様方は気分を悪くしたでしょうねぇ。


 先程の千吉の言葉であれば、つい最近まで善良な町人であった人が、いきなり大勢で悪事に手を染めたのだ。

 悪事を取り締まるのがあの方々のお役目とはいえ、元々は善良な町人にお縄を打つのは心が痛んだことだろう。

 加代が少々沈んだ顔をしていると、「それで」と男が告げる。


「お加代殿には大変な迷惑をかけた謝意として、これを受け取っていただきたい」


そう語る男の手に、いつの間にか大きな羽根が握られていた。

 黒々と艶やかで、職人が作った飾りのようであるそれが、なんなのかというと。


「我の風切り羽根である。

 これを置いておくと、風の害を避けられるであろう」


なんと、烏天狗の羽根であるという。

 風の害というと、強い風で家屋が壊れたりしなくなるのだろうか?

 それとも、集めた落ち葉を風にいたずらに散らされなくなるとか?

 なんにせよそれが本当であれば、ありがたいものには違いない。

 礼の品も渡したという事で、長居をするのはよくないと言って、烏天狗たちは歩いて去っていった。



一方こちら、南部家下屋敷を出てから、烏どもを連れてしばらく歩いた千吉である。

 加代のことを「いい匂いの人間」だと思っていた千吉だが、自身は特に精気に飢えているわけではなし。

 なのですぐさま加代をどうこうするつもりはなく、いつかあわよくば精気をちょっとだけ頂きたいものだ、くらいの願望であった。

 なので千吉は加代に近付くわけではないが、遠目からなんとはなしに観察していたわけだが。

 千吉は加代のことを、あまり気持ちの起伏が激しくない、なんでも受け流してしまうお人だと思っていた。

 幼くして母を亡くして以来、父親と弟妹を支えてきた苦労人だというから、多少のことではびくともしない図太さがあるのだろう。

 けれどそれが、ここの所の烏がらみのいざこざで、千吉は思いがけない加代の感情の揺れを見た。

 普段でもいい匂いをさせている加代だが、精気は感情が高ぶった時が最高に美味いのだ。


 ――うん、実に美味かった。


 あの美味い精気を知ってしまえば、もう他の精気では満足できまい。

 それを考えると、加代の味を知ってしまったのは、よかったのか悪かったのか。

 いや、誰の手垢もついていない精気を頂けたのは、最高に幸運だったのだろう。

 騒ぎを起こした子烏には腹立たしいが、加代の精気を美味くしてみせたことには、多少の感謝をしないこともない。

 それに……


 ――なんとも、ツノを触られたなんぞは初めてだ。


 鬼のツノは力の源で、強さの証だ。

 立派なツノである鬼は、より強いということ。

 そして千吉のツノは、鬼の中でも特に立派な類のものであろう。

 それをただ興味から触りたがる者はなど、これまで現れたことがない。

 千吉としてはあの時、加代に半ば冗談で「触ってみるか?」と問うたものの、まさか本当に触れてくるとは思わなかった。

 それというのも実は、弱い者であれば触れたとたんに強い妖力にあてられ、死んでしまうかもしれないからだ。

 実際、親でも千吉のツノに触れたりはしなかった。

 千吉としても一応、あの加代の精気の強さであれば死ぬようなことにはならないと思ってのことだ。

 せいぜい「嫌なかんじがする」という程度であろうと想像していた。

 けれどあまり気分の良いものではなく、それがまさか加代がツノに触れてくるなんて、しかも嫌がることもなく撫でてもらえるなんて。

 このことに千吉がどれほど感激したかなんて、きっとあの加代は知りもしないだろうけれども。


 ――やはり、目の離せないお人だ。


 面倒ごとではあったが、結果として良い気分であるからこうして、普段ならば受けないだろう案内役をしてやっているわけだ。


「人の町とは、いつも騒々しいのぅ」


その烏だが、用が済めば勝手に飛んで帰ればいいものを、律儀に歩くとは変わっていることだ。

 しかし、千吉がそれに付き合う義理はなく、とっとと湯屋に戻ろうとしていると。


「こやつがよい匂いのする人間だと申すから少々楽しみにしていたというのに、鬼臭さしか臭わぬではないか。

 誠に残念だ」


烏がそのようなことをほざいたので、千吉は振り返ってぎろりと睨んでやった。


「妙なことをしてみやがれ、その首をねじ切ってやる」


千吉が本気の脅しを声にすると、子烏が「ひゃあっ!」と跳び上がって震えている。


「おお怖い、鬼どもといったら、やることが野蛮でいかん」


しかし、烏の方は飄々としたものだ。


「鬼の頭領息子が、かような場所で人に混じって働いているとは、まあ珍しいことよ」

「そんなものは好き好きだろう。

 口先ばかり達者な烏めが、余計なことをしゃべらずさっさと山へ帰れ!」


足元の地面を蹴飛ばし、土をかけてやろうとする千吉に、烏が「カカカ!」と高く笑うと、強く風が巻いた。

 その次の瞬間、烏どもはもうそこにはいなかった。

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