24 洗い流そう

 ――まったく、どの面下げてあたしの前に顔を出したんだか!


 いや、正確には千吉がやってきたわけではなく、加代の方が顔を出したわけで、この言い分は言いがかりにも程がある。

 けれど加代としては、そう言ってやりたい気分なのだ。

 加代はそうやって内心で一人憤りつつも、洗い場で身体を洗いついでに他の客とお喋りしてと、いつもよりものんびりと過ごしているうちに、ささくれ立っていた気分とて、身体の汚れと共にいくらか洗われていく。

 そうなると、怒りだってずっと持っていられやしない。


 ――あたしって千吉さんに対して、カリカリし過ぎじゃないかしらね?


 加代はのんびりとした気質であり、他人に怒るということを、実はあまりやらない。

 ぼんやりしているうちに、怒り損ねるという方が正しいか。

 それを己は今、なにをいつまでも怒りを引きずっているのだろう?

 いや、首を急に他人に舐められたというのは、怒ってもいいことだろう。

 これは真っ当な怒りだ。

 けれど、アレはあくまで「お礼」とやらを与えた行為でもあり、襲われたわけではない。

 けれどあのような、ちょっといやらしくも思える行為をするなんて、一言断ってもよかったのではないのか?

 いや、「今から首を舐めたい」と言われて、あの時加代が頷いたとは思えないけれども。

 しかし、礼とはなにをするのかを、もっとちゃんと突っ込んで尋ねなかった、自分だって悪いということだ。

 つまり、いつまでも怒っていないで、ここのお湯で流してしまおうではないか。


「……よし!」


そう心に決めた加代は、奥へ行って熱めの湯に浸かると、「ふぅ~」と大きく息を吐く。

 今日も、湯槽の隅で静かにしている先客がいる。


「今日もいいお湯ですねぇ。

 くさくさしていた気分も流してしまえるってもんですよ」


加代はその客に話しかけて、しかし返事が返ってこないことに気を悪くすることもせず、しばらくして湯から上がった。

 こうして身なりも気分もすっきりした加代は、平然とした顔を繕って番台の千吉の横を通る。


「いいお湯だったわ」


番台にそうひと声かけたところで、「お加代さん」と千吉に呼び掛けられた。


「なにか?」


これに足を止めた加代が「いつものように」を心掛けた挙句が、口調が冷たくなってしまったのは、まあ勘弁してほしいところだ。


「いえ、なにかってぇか、ちょいと尋ねたいことがあるんでして」


千吉がそう話した、ちょうどその時。


「おぅい千吉、代わっていいぞ」


湯屋の二階に続く階段から、主の慎さんの声が振ってきた。

 そちらを見れば、腰を庇うようなゆっくりとした足取りで降りてきていて、痛めた腰の具合はずいぶん良さそうだ。


「爺、腰はいいのか?」


千吉が心配そうに尋ねるのに、慎さんは渋い顔をする。


「人を年寄り扱いするんじゃねぇ!

 寝てばっかりいたら、逆によくねぇってもんよ。

 ほら、そっからどいたどいた!」


慎さんが「しっしっ」と追い払うような仕草をするので、千吉は仕方なく番台から出てくる。

 そして、その千吉に慎さんが言うには。


「お前さんはな、お加代さんと洒落た茶屋にでも行ってきな。

 おめぇの女の口説き方はなっちゃあいねぇ」

「はい!?」


急に口説き方なんて言われて、加代の方がすっとんきょうな声を上げてしまう。

 今加代と千吉は、そんな話をしていただろうか?

 というより、慎さんは加代たちの話を聞いていたのか?

 上をじろりと見上げると、二階の下を覗けるようになっている場所で、顔を出している姿が数人あった。

 おおかた、あの連中が妄想たくましくあれやこれやとお喋りしていて、それを慎さんが聞きつけたに違いない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る