第17話 騙された
雫のやうな焚き火の燈灯は、夜の闇が山を覆い尽くしても燃え続けてゐたので、梢と旅人は其の眠たげな眼を持ち上げながら、未だ談話し込んでゐた。
彼等の話題は尽きなかつた。
特に、梢が巫女になつた時の談話しは互いの奇妙な共感を煽つて、何故か二人で後悔した。
「私は確かに騙された。其れは私が悪い。然し、父様母様も酷いものぢや。口減らしの為私たち三姉妹を巫女どもに差し出し、喜んで手を振りおつた。女子は我が子では無いのか。全く惨いことぢや」
実際、梢と其の姉たちは二人の親に捨てられたも同然であつた。
なかでも聡かつたのは長女の雨で、彼女は巫女どもの綺麗な装束を見ても誘惑に負ける事は無かつた。
雨は最後まで村に残らうとした。
小さい口で意思を訴へ、小さい眼から涙を流してみても、彼女の願ひは両親の都合に打ち消された。
「雨姉が正しかつたのぢや・・・・・・私たちは此の忌々しい装束に魅入られ、取り返しのつかない約束をしてしまつた。私は犬神など殺したくない。犬神に成るのが怖い。何時か此のやうな仕事、辞めてやるのぢや」と、梢は炎をぢつと見詰めつゝ云つた。
「して、如何にして巫女を辞めるつもりぢや。東のほうは他の巫女どもの眼が晃つて居るのぢやらう。逃げるなら西か」
「無理無理無理。無理ぢや。いまは何処の国でもお師匠様の眼からは逃げられぬ」
梢はゆらゆらと揺れる焚き火から眼を上げて、髭の目立つ旅人の顔をうかゞつた。
彼は物思いに耽るやうな顔をして、先までの梢と同じやうに、紅い光を瞳に反射させてゐた。
「次はお身の番ぢや」
「儂の談話しか」
「然うぢや」
「何を談話すかなう・・・・・・」
旅人の男は天を仰いだ。
墨のやうに黒く塗られた月の世界を眺めてゐると、彼の精神のうちに一つ引つ掛かる塊が浮いて出た。
彼はかなり躊躇したが、貍のやうな梢の顔を見て、此の精神の動きが嗅ぎ取られたのではないかと思つた。
「息子と仲が悪くなつた談話しをしやう」と、旅人の男は座り直してから談話し始めた。「息子と仲が悪かったのは・・・・・・何時頃かなう。ある日突然悪くなつた。きつと、儂の秘密を知られてしまつたからぢや」
男の眼底には隠しきれない後悔の念が静かに燃えてゐた。
場を盛り上げてゐた梢も唾を飲み込み、其の重たい雰囲気を噛み締めた。
「何の・・・・・・秘密なのぢや」
「息子は明らかに憤慨し、儂に憎悪の眼を向けてゐた。儂は彼が何を識つたのかを問ひ詰めたが、彼は何も云はなかつた。儂は息子を───」
「一体何の秘密なのぢや。云へ」
肝心な秘密を避ける男を、梢は気になつて問ひ詰めた。
先まで自己の談話しをにやにやしながら聞き流し、其れでも精神の通ひ合へる彼の必死な様子に、梢の好奇心は掻き立てられた。
又、梢には少しの不満があつた。
自己の過ちを打ち明け、認めたと云ふのに、彼の秘密を識る事が叶はないのは何とも不平等であると思はれた。
梢は執拗に問ひ詰めた。
「判つた・・・・・・判つた。話す」
男は梢の強く押され、遂には折れた。
弱々しく眉を曲げる彼は、此の結末が最初めから判つてゐるやうであつた。
彼は再び静かに話し始めた。
其処にはもう躊躇ひは無かつたが、唯苦しいものを吐き出すかのやうな、苦渋の色は滲み出てゐた。
「私はなう、犬神筋なのぢや。本来ならお身に殺される筈の、悪しき一族なのぢや。だが儂はお身を信じておる。お身は儂を殺したりはしない。殺す意味が無いからぢや」と、早口に捲し立てた。
梢は唖然とした表情を浮かべてゐたが、彼の無防備な推測には同意してゐたやうで、鈍くなつた頸を縦に振つた。
男は続けた。
「だが其れだけではないのぢや。私は、犬神の術者の子ではない。儂が犬神の術者なのぢや。無論息子は儂に失望した。儂が禁忌に手を染め、其れで自己の家を養つてゐたと識つて、彼は憤恚に燃えた。彼は自己が呪われてゐると識つて、気が狂ふてしまつた。儂に出ていけと云ひ放つた!だが仕方が無かつたのぢや!儂は母を見捨てられなかつた!未だ幼子だつた儂には何も手が無かつた!唯此のまゝ死ぬ事だけは避けなければならなかつた!」
男は気が狂つたかのやうに叫び始めた。
「其処へあの女子が現れた・・・・・・小さな幼子・・・・・・当時の儂と同じくらいであつたか。あの女子が儂に手順を教へてくれた・・・・・・儂は其のまゝ従つた。云はれるがまゝ、犬神に手を染めた・・・・・・」
梢の眼には、水のやうに蒼くなつた男の、小刻みに震える姿がありありと映つた。
彼の半ば狂乱したかのやうな姿に、梢は全身の毛を逆立てた。
彼は其の、何かに怯えるやうな眼を喝と見開いて、炎のなかをぢつと見詰めた。
すると男の脚はがくがくと震え出し、座つてゐた筈の身体は滑り落ちるやうに倒れた。
彼は、炎のなかに何かを見たのだ。
「あの女子・・・・・・あの女子・・・・・・」
「如何された!如何された旅人どの!」
「来るな!・・・・・・来るな来るな来るな!」
男が突然飛び出した。
彼はもと居た叢に逃げ込むやうにして隠れて、奥から呻き声と叫び声を交互に発してゐる。
叢はざわざわと音を立てて揺れ、何処からか舞ひ降りた二頭の蝶々が辺りを飛び廻る。
薄氷の割れる音が、聞こえ始めた。
「女子・・・・・・!あの女子!」
其れが男の最後の言葉だつた。
叢から這い出てきたのは人の好い髭面の男ではなく、一匹の狼だつた。
身体は灰色の体毛に覆われて、月の明かりに照らされる剥き出しの歯は晃り、其のどれもが鋭く尖つてゐた。
獣は異臭を漂わせながら遅々と地面を練り、とかげのやうな眼を梢に向けた。
「やめて下され・・・・・・やめて下され・・・・・・!」
悲哀しみと恐怖とが混ざり合つて、梢は声を湿はせつゝ後退つた。
木々の群は深淵に落ちて、暗闇の壁が梢の周りを包み始めた。
夜目の利かない彼女に逃げ場は無く、自然と取り出した懐の小さ刀が月下に煌めいて、鉛色の刃が焚き火の炎をゆらゆらと照らし返してゐる。
「殺さなければ・・・・・・殺さなければ!」
意思を固めても、脚は動かなかつた。
彼女の精神は生きる事を選んでゐたが、彼女の身体は逃げる事を選んでゐた。
震える脚は一歩ずつ後退し、石のやうに固まった腕は振り上げる事等出来ない。
深い闇のなかへと梢は呑み込まれて征く。
「・・・・・・母様、父様、助けて」
梢は眼を瞑つた。
運命に身を委ねた。
彼女の頭のなかは混沌とし、腹には口惜しさと後悔の念が渦巻いた。
口の奥から苦い汁が湧いて出てきて、乾いた喉が焼き焦げるやうに傷んだ。
「大丈夫ですか」
吐き出しさうな程の恐怖の塊が、梢の胴を締め付けてゐる。
「犬神は捕らへました。もう大丈夫ですよ」
焚き火の燃える音と、風の吹き抜ける音が重なるやうに聞こえる。
梢は恐る恐る眼を開けた。
其処には童頭の女子と、垂髪の艶女が自己を覗き見てゐた。
梢は、前者のほうに見憶えがあつた。
「む・・・・・・無手姫、さま?」
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