第16話 ある女子

ある女子は空の日が暮れるのを見て、深い山の中で顔を蒼くした。

彼女は白衣を着て緋袴を穿き、所謂巫女服に身を包んでゐたが、其の周りに道連れの姿は無く、齢十五の彼女ひとりであつた。

山道は次第に緑を濃くして、人と獣とを分ける境目は薄まつた。

寂しさと恐ろしさが一つになつて、彼女の眼には雫が宿つた。

彼女は夜になる前に山を降りやうと試みたが、辺りは既に闇の気に包まれて居り、登るにも降りるにも先は見えなかつた。

其上何処へ眼を向けてもとかげと目が合ふので、彼女は地面と見詰め合ふやうにして蹲つた。


「お身は如何思ふ。姉上たちの仕打ちはいささか度が過ぎるのではないか」と、女子は湿んだ声で呟いた。


彼女の手には藁人形が握られてゐた。

細く短い枝に括り附けられた藁人形には、墨で黒く染まつた藁の髪が被せられており、女の垂髪のやうに長く垂れてゐた。

女子は二言三言話しかけると、声を高くして彼女を演じ始めた。


『全く酷い仕打ちぢや。雨姉と唐姉には人の心と云ふものが無い』

「然うぢや。其の通りぢや」

『梢は悪くない。悪いのは姉上たちぢや』


梢は屈んだ姿勢のまゝ、藁人形を額に押し当ててしくしくと泣いた。

周りに立ち込めてゐた夜闇は、遂に空の果てまで行き届いた。


「私は犬神に成りたくないだけなのぢや・・・・・・私は犬神が怖いだけなのぢや・・・・・・」と、梢は涙を啜りながら独り云ちた。

「何故姉上たちは怖くないのぢや・・・・・・何故手が震えぬのぢや!」


梢の瞼はいま強く閉ざされて、僅かな月明かりさへも其の瞳を照らさなかつた。


「・・・・・・怖い。死ぬのが怖い。此のやうな仕打ちを受けるくらいなら、あの犬神を殺す方が良かつたのではないか。いつそのこと犬神になつて、こんな生き地獄からも解き放たれて、無手姫さまに殺される方が幾分良かつたのではないか。喃、藁子よ」


梢の創りあげた藁人形は彼女の後悔をもう聞き飽きたらしく、黙つて手のうちに収まつてゐた。

梢は其の質素な顔を見つゝ、精神のなかの傷を癒やす、彼女の言葉を探してゐる自己の惨めさを自認し、大きな溜め息をついた。


「私は終わりぢや」


彼女が呟いた其の時、近くの叢が揺れた。


「何ぢや!」


其のざわめきは大きく、梢は熊が出たのではないかと思つて身体を震え上がらせたが、何時まで叢を凝視してゐても姿を現さないので、遅々と身を寄せた。


不思議がつて覗き見ると、一人の男が唸り声を上げながら横たはつてゐた。

梢は驚いて飛び退いた。

とかげの群が暗闇から這い出てきて、梢の脚の間を駆け回り、尻と共に附いた右手の上を通り過ぎた。

其の嫌な感触に小さい悲鳴を上げる。


「誰ぢや・・・・・・」


梢の呟くやうな声に合はせるやうに、髭面の男はのそりと立ち上がつた。

彼は旅人らしい装いで、肩には両端に箱の附いた紐を引つ掛けて居り、眠たげな眼を擦つてゐる。

彼は辺りを見廻したあと梢をぢつと見詰めて、柔らかく微笑んだ。


「何と云ふ事よ。気づけば夜ぢや。お身、焚き木を拾つてきてはくれぬか」

「あ、あい」


驚いて腰を抜かしてゐる梢は、自己の意思に関わらず返事をしてしまつた。

火を起こす為だらうか。

男がのそのそと動き始めると、梢も何かしなくてはならないと思ひ立つて、焚き木を探し始めた。


焚き火は半時もかからずに出来上がつた。


男は此の手の仕事に慣れてゐるやうで、未だ困惑してゐる梢に色々と教へながら、手際良く暗闇を灯し出した。

偶然知り合つた二人は同じ炎を囲み、向かひ合つて座り込んだ。


「其処でぢや。姉上たちは犬神を無惨にも生け捕りにしたのぢや。彼は苦しみ、呻き藻掻いた。其れを殺せと云ふのぢや。私には到底無理な事よ。彼女等は人の心が無いのぢや!」


彼等の談話しは盛り上がつてゐた。

とかげの玉のやうに晃る眼も、焚き火の炎には劣るらしく、梢の安らかな精神は姉たちへの不満で紅く燃え上がつた。

男は其れを黙つて聞いてゐるが、時折梢を不憫に思ふやうな眼を見せるので、梢は其の度に談話しをする声を昂らせた。


「お身は如何か。実の姉に捨てられた事はあるか」

「儂は子どもに捨てられた。父様は邪魔者ぢやと云はれた。実の息子に左様な事を云はれゝば、出て征く他なからう」

「話が合ふなう!」


梢と旅人は意気投合した。


白銀の眉のやうな月は細やかに木々の頭を照らし、暗闇のなかの暖かな炎が、一滴の雫を落としたやうに白く輝いてゐた。


───筈だつた。


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