第15話 真似事
「兄上。あれは三郎ではなく私の土地に御座います」
二番目の男は生来の薄ら笑いを浮かべながら、双六の盤から顔を上げて、自分の眼の前で振り筒を振っている男を凝視していた。
いまは満月の夜で、人気の無い山の中は過ぎ去った夕立の雫で煌めき、屋敷の周りのかしわの木もざわざわと音を立てるばかりで、屋根の下はひっそりと静まり返っていた。
「然し、三郎はあくまで自己のものだと云ひ張るのです。彼にも云ひ分があるのでせうが、あのやうに固まつてしまつて埒が明かない。そこで兄上。三郎と口比べをして決着をつけたいので御座います」と、次郎は早口に捲し立てた。
「はゝ。何を云ふ。口比べ等すれば、お身が勝つに決まつておらう。三郎は臆病で軟弱者で、口が弱いのぢや」
兄である太郎はわざと嘲るやうに言った。
その顔は次郎と同じ笑いをしていたが、目の奥にある微かな抵抗を、次郎は分かっているようであった。
少しの間、双六の高い音のみが静寂を彩った。
ここにいるのは、二人だけではない。
屋敷の中と外の境界には、もう一人の男がいて、それが先から話題に上がっている三郎という三番目の男であった。
彼は縁側に座り込み、筆を走らせていた。
彼が何を書いているのか、彼が何故二人の兄と仲が悪いのかは我々の知る所ではないが、彼は自分の土地が取られようとしている場面でも、口を結んで一人の世界に入っていた。
「兄上。民意こそが正しいのです。やはり口比べをして、どちらが本物の領主なのか、はつきりさせたふ御座います」と、思案する太郎を説き伏せるようにして次郎は沈黙を破った。
そして盤上に両手を付き、口元の笑みを物凄くして、太郎に耳打ちするような形で何かを囁いた。
三郎に聞かれてはならない、何か重要な取引を持ちかけられ、太郎は眉間の皺をより一層深くしたが、数秒後には次郎と目と目を合わせ、にやりと笑った。
それが契約成立の合図になった。
「三郎、よく聞け。明日の亭午より口比べを催す」
太郎がそう宣言すると、屋敷にまた静寂が戻り、双六の音が鳴り始めた。
振り筒を振り、賽の目を見て、駒を動かす。
また振り筒を振り、また賽の目を見て、また駒を動かす。
意地の悪い笑みを浮かべていた太郎は、双六の勝負が回数を重ねるにつれ、何故か口角がどんどん下がっていった。
「兄上。今宵はついてませんね」
「おゝ・・・・・・」
太郎の駒は一向に終点に着くことはなかった。
彼の顔は少しずつ赤みを増し、布で織ったお粗末な烏帽子を整えて、次の手番を待った。
次郎が振り筒を振る。
賽の目を見て駒を動かすが、まだ終点には辿り着かない。
太郎は少しばかり笑みを取り戻して、振り筒を念を込めながら振った。
賽の目を見る。
まだ終点には辿り着かない。
彼の笑みがふっと消える。
彼はまた烏帽子を整えて、次の手番を待った。
が、彼の手番は回ってこなかった。
「あれ。また勝った」
「えゝい、やめぢや!」
太郎は憤慨して立ち上がり、自分の頭に被った布烏帽子を放り投げた。
彼の不細工な髷が、灯りの薄い屋敷の中でも堂々と露見し、本来なら屈辱を感じる所であるが、彼はそのまま服を脱ぎだした。
胸紐を解き、直垂を自ら剥ぎ取り、括袴も投げ捨てた。
彼の手は帷子姿になっても止まらない。
上裸になり、下半身も露わにし、物凄い雄叫びを上げた。
全裸で叫んだ。
「人間の真似事等して何になる!私は双六は嫌いぢや!」
全裸姿の太郎は、驚くべき変化を遂げた。
彼の身体は間もなく深い獣の毛に覆われていき、そのざわりとした体毛は足先から頭の天辺まで生え揃った。
眉も目も丸くなり、鼻と口も、人間のものとはかけ離れた尖った形になり、手足は地面について、みるみる獣へと変化していった。
『我等が人間に化けるのは人間を超えるため!此のやうな遊戯等、何の役にも立たんわ!』
獣臭い匂いが屋敷のうちに立ち込めた。
次郎はその匂いにはっとした様子で立ち上がり、彼も服を脱ぎ始めた。
無論その日焼けした体表は茶色く黒く染まり、鋭く尖った獣の歯が月夜の下に輝いて、彼はかしわの木の下に飛び込んだ。
二頭の貍が、満月の下に躍り出た。
『おゝ次郎!相撲で勝負せよ!』
『其れも人の真似事ですが宜しいのでせうか』
『此れは強く逞しく成る為の儀式ぢや!構はぬ!』
『なるほど!』
彼等が変化しても、文事に励む三郎は筆を持ったままで、その虚ろな目を紙面の上に落としたままであった。
彼はその筆の歩みを止めたかと思うと、大きな溜め息をついて立ち上がり、墨の乗った和紙を掲げ、かしわの木を見つめた。
「かしはきよ はもりのかみも おはすらむ かぜにみだるゝ われたへめやも」
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