第二章 タヌキガミ

第14話 伊豫送り

「伊豫に御座いますか」


戌神の件から約三年、四月一日の空は濶く蒼く晴れ渡り、美しく伸びた庭の梢が陽を支えるやうに突き出してゐた。

其の緑の陰までもが暖かい匂ひを薫らせ、結の小さい鼻をくすぐつた。


「はゝ、其のやうな顔をするな。お身は私の為に十分身を削つておる。其のお身に、私が罰を与へると思ふか」と、貴人は手元の金の包みを転がしながら、険しい顔の結に向き直つた。


「真にお師匠様らしい御褒美、有難く頂戴致します」

「其れで良い」と、貴人は結の顔色を覗きながら微笑んだ。


「伊豫にはお身の想像を絶するやうな悦ばしい褒美が待つてやうぞ。其れはまるで、三年間の悲哀しみが全て吹き飛ぶやうな、お師匠様のお身への愛が伝はるやうな、涙を流すほどの褒美ぢや。楽しみにしておれ」

「はい」


木陰の匂ひは益々人の心を和ませて、暖かな雰囲気が貴人の御座まで伝はつてゐたが、結の声は冷たく凍え切つてゐた。

彼女は白い眉間に薄い皺を刻みながら、床の木板に眼を落として貴人の方を見やうともしなかつた。

何処の空から小鳥の囁きも聞こえてゐた。


貴人はいまでこそ結から嫌はれてゐるが、嘗ては孤立した彼女を助け、無手姫と云ふ呼び名まで与へた男であつた。

ある日の夜、彼はいまと同じやうにして結と向き合つてゐたが、顰め面を浮かべてゐるのは貴人のほうで、結は涙に声を湿はせつゝある願ひを訴へてゐた。

彼は其の"願ひ"に一度は頸を縦に振つたが、あくる日の朝には気が変わつてゐたやうで、結の知らぬうちに全ての事が運んだ。

彼は、結の最愛の男を巫覡館から追放したのだ。

一度受け入れた願ひを騙すやうにして退けた上、行き先も知らせず何処か遠くの国への流罪としたと識つた結は、酷く嘆き悲哀しみ、貴人を恨むやうになつた。

彼女は精神の弱い女子ではなかつた。

簡単に他人を恨む人間でもなかつた。

斯うなつたのは三年前、不運にも鶴太郎が戌神と対峙し、一人の女子の命を奪つてしまつたが故であり、彼は貴人の厳しい処罰を受け入れ、結の前から姿を消してしまったのだ。


独りなつた結を慰める筈の貴人は、鶴太郎に罰を下した張本人であり、彼が結の機嫌をとらうとする度に益々溝は深まつた。

人見知りの結は新たな友を作らうともしないで、戌神の頃からの顔見知りである藍とのみ親しくなつた。

藍の命を助けた結は、貴人ではなく藍をひどく頼り、其の奇妙な絆は時をかけて育まれてゐた。


今年の春、結は蝦蟇神を討ち取つた。

蝦蟇神はある男に取り憑き、村々に幾多の災ひを振り撒いてゐた。

其の男が結に依つて殺されると、蝦蟇神の祟りは凄まじく、周辺の社で蛙に関する不可思議な事が起こるやうになつたさうだが、結には何の祟りも起こらなかつた。

其のやうな危ふき仕事を完遂し、ますますの活躍が見込まれる結に褒美を取らせるがために、貴人は彼女を自己の前に呼んだのであつた。


「退つて良いぞ。伊豫へ征く支度を始めよ」


物思ひに耽る結を、貴人が優しく催促すると、結は虚ろな眼を少しだけ上げて、「お師匠様」と、彼に呼びかけた。


「私はきつと、其の御褒美を頂いても素直には悦べませぬ。私の三年間の憤恚は消え失せるどころか再び燃え上がり、又お師匠様を恨むことになるでせう。然うなれば、私は伊豫から還らないかも知れませぬ。其れでも宜しいのでせうか」

「其れは困る。お身はいま、巫覡館になくてはならぬ存在ぢや。褒美を持つて、必ず還つて来るやうに」と、貴人は微笑みを消して答え、右手で再び催促した。


一礼をした結は静かに立ち上がり、間も無く簀子の影に重なつて消えた。

貴人は彼女の姿を最後まで見届けたが、其の横顔は憤恚の表情を保つたまゝで、悦びの色は見えなかつた。


彼は重い溜め息をつくと、雪郎を呼んだ。


「共に伊豫へ征き、無手姫の様子を伺え。何か動きがあれば私に告げよ」

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