第13話 現実なんて、何の役にも立たない

山と山の狭間で鶴太郎は力尽きた。


結と戌神の元から藍と二人で逃げてから、幾つか小山を越えた様だった。

彼らは息も絶え絶えになり、岩肌に腰を落ち着かせて持っていた水を飲んだ。


鶴太郎のはっきりとした眉毛はへの字に曲がり、頬はげっそりと痩けていた。

その容貌は藍も同様だった。


「藍よ。怪我は──」


鶴太郎がそう言いかけると、痛い張り手が彼を襲った。


痩けた頬は大して赤く腫れ上がることもなく、ただひりひりとした痛みが神経を通じて、鶴太郎の目からは涙が滲みつつあった。


「お身のせいぢや!」


藍の目は恐怖と瞋恚で一杯だった。


「お身のせいで濃は死んだ・・・・・・何故其の責任を取らぬのぢや!」


彼女は鶴太郎を責め立てた。

彼女の言い分は尤もであった。

この一団を率いて、あの犬神筋を見つけ、追い立て殺す判断を下したのは紛れもない鶴太郎だった。


彼の目は、節穴だったのだ。


「其上犬神筋を囮にして逃げて・・・・・・お身は男としてだうなのぢや!」


だが、藍をここまで逃げ連れて来たのは紛れもない鶴太郎だった。

彼にもここまで言われる筋合は無かったが、それでも彼は黙って藍の叱責を聞いていた。


「私は、間違えた・・・・・・私が濃を死なせた・・・・・・」


鶴太郎はゆっくりと立ち上がった。


「然し、全員が生きる道は此れしか無かつた。結に賭けるしか無かつた」


藍はもう一度鶴太郎を叩き倒した。


水の行き渡つた彼の肌は、先程とは違って赤く腫れ上がった。

彼はその頬を押さえて、痛みを噛み締めた。


「見損なつたぞ鶴太郎。お身は巫覡の恥晒しぢや。あの化け物と夫婦にでもなるが良い」


藍はそう言い放つと、背を向けて立ち去ってしまった。

恐らく巫覡館へと帰っていったのだろう。

鶴太郎はその背中に、自分が着いていくことを拒否されているような気がした。

その先にいる師匠にも、合わせる顔が無いとも思った。


「・・・・・・もう、私も終わりぢや」


鶴太郎は涙を流すような男ではなかったが、透明な雫は何かが壊れたかのように止めどなく溢れてきた。

彼は暫くの間何も考えることができず、ただその場で蹲り、身体の熱がひいていくのを待った。


村のあった方角から、黒雲が手を伸ばし始めている。





土埃は木立の先まで舞つた。


其の砂嵐のやうな渦の中で、物凄い巨体が黒い影を見せながら蠢き、音にならない音を発してゐた。


『其の構へ。其の構へか』


結は息一つ乱れてゐなかつた。


巨体を投げ飛ばした小さい身体は、細い腕と血の流れた脚で組み立てられ、天竺のやうな日差しの下、罅割れた地面の上に堂々と立つてゐた。


「・・・・・・」

『其の奇妙な構へ。天竺の武人でも此処の武士でも其のやうな構へをする者は居らぬ』


結は息一つ吐いてゐないやうに見えた。


右手は右眼の下、左手は胸の前に浮かせ、拳は握り込む事は無く、腰は据えると云ふより引けて見える。

仮に彼女が大男であつたとしても、一人前の男が押せば倒れるやうな構へである。


「・・・・・・」


そして、結は此の構へになつてから一言も口にしなかつた。


『何とか云へ。我はお身に興味がある。何者だ』


彼女は息を吸う音もさせない。


戌神は遂に憤恚を顕にしながら云つた。


『お身、我に喰われたいのか。其れとも我を嘲笑つて居るのか』


結の顔は何の感情の色も浮かんではゐない。

ただただ物憂げな、悲哀に富んだ眼をぢつと戌神に向けてゐるだけである。


戌神にとつて其れは殺気でもあり、嘲笑でもあつた。


『神祇が人に敗北すると思ふなよ』


戌神が然う云うと、又眩い光が結を包み込んだ。


「・・・・・・」


結は間一髪で戌神の咬穿を躱した。


彼女の鼻先で戌神の真白な歯が輝いてゐる。


『やはり当たらぬ。だが──』


更に眩い光が結を包み込む。


「・・・・・・」


此度は結の髪の毛が切れた。


彼女の右耳に近い、短い髪の毛が更に短くなつてゐた。


『此れも躱すか』


もう一度眩い光が結を包む。


「・・・・・・!」


結は深く咬穿いた戌神の腹の下を潜り、二、三発の鈍い当身を入れた後、戌神の巨大な四肢のうち一つを手に取つて操り、体勢を崩した戌神の腹に甲高い音のする当身を加へて距離を取つた。


「・・・・・・」


結は戌神から離れるとに戻つた。


『底が見えたか』


戌神は結を煽つた。


『所詮は此の程度の事しか出来ぬか。人間め。結局はお身等が出来る事など逃げ惑ふ事のみ。此の通り、我には傷一つ付ける事は叶わぬ』


日照りは益々強くなつた。


田畑は黄色く萎れ、井戸の空気も乾ぶき、結の額の汗も蒸発して、白い肌は陽の光に侵されてゐた。


『人間の限界は近い。其れはお身が一番判つてゐる筈だ・・・・・・女子よ、命乞ひをせよ。我の前に跪け』


結は動じなかつた。


唇を変色させながら、額に皺を寄せながら、彼女は黙つて戌神の咬穿を待つてゐた。


『・・・・・・良からう。我はお身に興味が在つたが仕方が無い。望み通り喰らうてやらう』


結の眼に又白い光が入り込んで来た。


「・・・・・・」


咬穿を鼻先で躱した。


巨大な顎が閉じられたまゝ、眼の前に止まつてゐる。


・・・・・・此処までは是迄通りだつた。


『死ね』


戌神の顎が捻れた。


先程迄上下にあつた白い歯が、いまは左右に在る。


「・・・・・・!」


結の眼には、其の歯が遅々と此方に迫つて来るのが在々と見えた。


左右から入り込んでゐた日差しが無くなつて、少し涼しげに感ぜられた。


冷たい刃が結の身体に刺さり、熱い感覚が戻つてくる。


「つるたろう、どの・・・・・・」


結は幻を見た。


と音を立てて、小川が流れゐる。

川の際には草花が茂り、まだ暑さの残る空気を吸い、冷たい汗をかいてゐる。


結は薄れ征く意識の中で、又あの川にいく幻想を見た。


そして其処に、鶴太郎は来なかつた。





豪雨の中、鶴太郎は村へと戻つて来た。


何故彼が戻つて来たのかは、彼自身が一番識りたかつた。


村の様子は悲惨なものであつた。

焼けた家屋こそ二軒しか無かつたが、豪雨暴風に屋根が吹き飛んだり、柱が陥没してゐる家は幾つもあつた。


地は罅割れ、其の上から雨が降り注いだせいか、まるで川のやうな浅く細い水の道が出来てゐた。


「・・・・・・結?」


水の流れを辿つて征くと、上流には結が倒れてゐた。


鶴太郎は柔らかくなつた地面の上を駆け、見た目よりも泥濘んでゐる事に驚きつゝも、迷ひ無く彼女の元へと辿り着いた。


「結・・・・・・!」


鶴太郎は彼女を抱へた。

彼女の顔は蒼白く、身体は冷たかつたが、其れが雨に濡れてゐるからなのか、もう骸になつてゐるからなのかは直ぐには判らなかつた。


鶴太郎は彼女の身体を見た。

何処にも怪我は無いやうに見えた。

然し、彼は結の服が破れてゐる事に気が付いた。


彼女の身体の側面に沿うやうに、幾つも穴が空いて居り、其の周辺に、血の跡が残つてゐる。


「まさか──」


其の濡れた感触を恐る恐る探つた。


破れた服の下に、何があるかが問題だつた。


「・・・・・・」


鶴太郎は慎重に手を入れる。


「・・・・・・」


冷たくも、柔らかい感触。


此れは──


「肌ぢや」


彼女の服の下には、白い肌があつた。


鶴太郎は一安心して息を漏らした。

強張つてゐた肩は自然に落ちて、寒さに震えてゐた筈の背中は起き上がつた。


「あとは・・・・・・」


彼は思ひ出したかのやうに、結の胸に耳を当てた。


「・・・・・・聞こえる。生きてゐる證ぢや」


鶴太郎は結が生きてゐる事を確信したが、あの身体の冷たさでは未だ危険である事も同時に悟つた。

彼は結をいま直ぐ温めなければならぬと思つた。

又、此の村では他人の心配をしてゐる暇は無いだらうから、隣の村へ征く必要があるとも思つた。


彼は結を背負つた。


やがて彼は泥濘んだ地面を歩き出した。


「力を出せ・・・・・・鶴太郎!」


彼は自己に叱咤激励の鞭を打つた。


不自由な足場は彼の力を奪ふだけでなく、全身の動きを大きくし、背中の結の頭を揺らさんとしてゐた。


彼は右手で結の頭を抑へながら、泥濘を一所懸命に進んだ。


「・・・・・・鶴太郎どの」


結の口から彼の呼び名が漏れた。


鶴太郎の耳の近くで囁かれた声は、吹き荒ぶる風の中で消え入りさうになりながらも、確かに彼を呼んでゐた。


「結・・・・・・?」


鶴太郎は何か云ふべきだと思つた。

何処か痛むところはないか、寒くはないか。

其のやうな言葉が頭に渦巻いたが、どれも嘘のやうな気遣いに聞こえた。


鶴太郎の胸は熱くなつた。


「お身は・・・・・・お身は何故私を好いてくれるのぢや」


全く脈絡の無い言葉が、彼の口から飛び出して来た。


「私には・・・・・・其れが苦しうて苦しうて堪らぬ」


泥濘は益々酷くなつた。

脚が埋まる程の泥濘だつた。

豪雨が打ち付けるやうに彼等の背中を濡らし、幾度も暴風が鶴太郎の膝を挫かせてゐる。


「喃、結よ。私には幼子の時からの仲の良い女子がゐたのぢや。彼女は炉と云ふ。来る日も来る日も二人で時を過ごす仲ぢやつた。私は彼女を好いてゐた」


彼は捲し立てるやうに過去を語りだした。


「然しある日、聡く美しい炉は私を置いて京へ上つた。私は突然独りになつた。混乱した。憤恚さへも湧いた。私は遂に、京へ上る事を決心した」


彼は泥濘の中で、遂に立ち止まつた。


「私は炉が・・・・・・何故私を置いて行つたのか、不思議でならなかつた・・・・・・其れが判らぬのが苦しうて苦しうて、死なうとした事もあつた・・・・・・」


彼は涙ぐんでゐた。

雨の雫と共に、白い玉がと泥濘の中へ消えた。


「然し今なら判る。私はあの時、お身に云はれて思つた・・・・・・」


彼は天を仰ぐ事も叶はず、沈みゆく両脚を見つめながら、涙を流した。


「あいされると云ふのは、かくも苦しい事なのぢやな・・・・・・」


豪雨も暴風も、其の彼には手加減したのか、少しだけ優しく背中を打つた。

雨が暖かく感ぜられ、風が心地良く感ぜられた。


「喃、結よ。私は救ひを失つた。糧も失つた」


彼は力一杯右脚を持ち上げた。


「・・・・・・私は此れから、如何に生きれば良いのだ」


左脚も持ち上げる。


彼は、彼の言葉とは裏腹に、前へと進んでゐた。


「喃、結よ──」


鶴太郎は遂に結の顔を見た。


其処には、紅く染まつて膨らんだ頬と、反るやうに伸びた色の濃い睫毛が生えて居り、大きい瞼は瞑じられてゐた。


「・・・・・・なんぢや。寝て居るではないか」


更に、鶴太郎は結の身体が熱くなつてゐる事に気づいた。

彼は最初め、結は病に罹つたのではないかと思つたが、彼女の温もりは燃えるやうな病の熱では無いことが判り、安堵の息を漏らした。


「天が・・・・・・我等に味方したのか?」


気づけば雨も上がり、風も止んでゐた。


鶴太郎は突如の晴天に空を見上げた。

何処までも高く澄んで、まるでもとの世界が戻つて来たやうであつた。


「鶴太郎どの」


彼は碧く濶い空に見惚れてゐた。


「鶴太郎どの」


鶴太郎はと気が付いたやうに首を横に曲げて、片目を自己の肩へ向けた。


声の主は無論、結であつた。


「大丈夫か」

「はい・・・・・・でも、何故私は生きているのでしょうか」

「覚えておらんのか」


結は小さく頷いた。


「私にも判らぬ。お身は土の上で力尽きておつた」


彼は前を向き直すと、「歩けるか」と、結に問ふた。


「歩け──」


陽は其の姿を低く保つてゐた。

赤い、暖かな光を彼等に与へて、鶴太郎の冷え切つた身体を温め、結の頬を紅く染め上げた。


「歩けません」


結の細い腕は、鶴太郎の首に巻き付いて離れなかつた。



第一章 イヌガミ 完

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