第12話 戌神
一人の女子の命は、結が想像するよりも遥かに軽い音をさせ、地面に落ちた。
「濃・・・・・・?」
引き裂かれるやうに別々になつた胴体と女の生首が、無惨に血を垂れ流しながら陽だまりの上に転がつた。
先程迄首と繋がつてゐた部分が藍の足元に躙り寄つて、女の肉も、骨までもが顕になり、あまりの恐怖に藍は嘔吐した。
『穢れた巫覡めが・・・・・・』
彼等に惨い制裁を与へ、白い光と共に現れたのは、真白な犬だつた。
翁の家の上に四本の脚を据え、野良犬の三倍はあるかと思はれる純白の体躯に、大きな顎を持つた頭部。
小さく鋭い両の眼の中央には、禍々しい巨大な第三の眼が額に張り付いてゐた。
「・・・・・・戌神」
鶴太郎は呟いた。
彼の気高い顔は何処かへと消え去り、恐怖と絶望の色を滲み出して、逃げ出すのを必死に堪えてゐるやうに見えた。
「で、でも・・・・・・お父様の時とはまるで・・・・・・」
結は絶望よりも、驚きを持つて白い犬を見上げてゐた。
恐怖のかたまりを飲み込んだ鶴太郎は、「犬神筋ではない。跋折羅の戌神ぢや」
と、結に向かつて説明した。
『如何にも』
戌神は銅像のやうに固まつたまゝ、口を少しも動かさないで、直接巫覡等の精神に語りかけた。
『穢れた巫覡よ。お身等は逃れなやうの無い罪を犯した』
其の声が聞こえた途端、戌神を見上げる結の頭に冷たい感触が現れ、白い雫が黒い髪から垂れた。
然う思つたのも束の間、次々と雫は溢れ、零れ、瞬く間に荒れ狂ふ豪雨へと姿を変えた。
陽の出ていた空もいつの間にか黒雲に埋め尽くされ、陽だまりは蒸発して、冷たい湿つた空気が辺りに充満した。
「・・・・・・此処までか」
村の屋根を全て吹き飛ばさんとするやうな暴風が一息に吹いた。
重い荷物を抱えた結は体勢を崩して、犬神と共に地面へと打ちつけられた。
彼女の小さい身体は間もなく山の狭間へと吹き飛ばされさうになつたが、其の刹那、何故か風が弱まり、結は翁の家を背に身体を支えることが出来た。
鶴太郎と藍は側の木々に掴まつた。
何故か此方は、身体が曲がりさうになるほどの強い風が吹いてゐた。
『我は此の眼で見た。穢れた巫覡めが我が主を信ずる者を追い詰め、化物へと変化させ、無惨にも生け捕りにする様を。なんと惨たらしい。なんと欲深い』
戌神は全てを見透かしてゐるかのやうに云つた。
『我は此の眼で見た。其の女子を穢れと忌み嫌い、理由もなく憎み、恐れ、自己の死の重みまでも背負はせた。なんと醜き魂よ』
雨風は勢いを増し、木立の葉は千切れ途切れて宙を舞ひ、憤恚の具現のやうな雷が民家の上に落ちて焼き尽くした。
鶴太郎は木から離れ、一歩ずつ戌神へと近づき、決意の籠もつた眼で彼を見返した。
「薬師如来の信者を殺したのは全て私の命ぢや。藍は悪くない。其れに、結を蔑んだのも私のせいぢや。彼女は私に調を合わせただけぢや」
鶴太郎の整つた眉は雨に濡れてゐた。
固く結んだ烏帽子もあまりの風に大きく揺れ、縁から出た髪の毛も乱れ始めた。
「鶴太郎どの・・・・・・?」
結には鶴太郎だけが見えてゐた。
戌神を見上げる彼の顔は、いつにも増して男らしく見えた。
「だから、誅するなら私だけにしてくれ」
鶴太郎は戌神の前で跪いた。
「鶴太郎どの!」
「お身は黙つてゐよ!」
鶴太郎の恫喝は雷の音に掻き消された。
『穢れた巫覡の割には潔い小僧だ。お身の最期の願ひ、聞いてやつても良い』
然う伝へると、戌神は鶴太郎の側へと降りてきて、見極めるかの如く、四足を地に浮かせて彼の周りを廻つた。
鶴太郎の髪からは冷たい汗が垂れてゐる。
結はいま直ぐにでも鶴太郎の元へと駆け寄りたかつたが、正体のよく判らない巨大な犬の徘徊する姿に、身体は怯えてしまい、動けなくなつてゐた。
『然し──』
戌神は立ち止まつた。
雨は戌神を避けて、鶴太郎の烏帽子を殴り落とすやうに降り注ぎ、風は木立を根から吹き飛ばす勢いまで成長してゐた。
噴き出たやうな雲が空を蠢いて、戦の始まるが如く太鼓の音が鳴り始めた。
雷が落ちた。
『あの巫女が、又我等の信者を殺すかも知れぬ』
雷は木立のうちの一本に落ちた。
其れは藍の隠れてゐる木の、隣の木であつた。
「・・・・・・彼女はまだ若い。心を改める余地はある」
『知らぬわ。疑はしくは誅する。最初めから然うして居れば良かつたのだ。然うすれば、あの翁も化物に成らずに済んだ』
鶴太郎は寒さに声を震わせながら云つた。
「彼女を疑はしいと仰せられるが、全ては私が指図したこと。全ては私の重ねた罪ぢや。彼女は疑はしい事など何一つしておらぬ」
『何一つと云ふのは過言だ』
「過言ではない!」
『・・・・・・』
鶴太郎の叫びを聞いて、戌神は空を見上げた。
みるみる暗雲が一つに固まつて、鶴太郎の頭上の遥か上に留まり、其の中心が光り始めた。
『まあ良い。お身を殺してから決めやう』
結は鶴太郎を助けるにはいましかないと思つた。
幸い突風は追い風であつた。
結は翁の家へ向かつた時のやうに、歩幅を限りなく広げて、飛ぶやうに走つた。
だが──
「・・・・・・!」
何者かに脚を掴まれ、結は前のめりに倒れ込んだ。
右脚に鋭い痛みが走り、後ろに引き摺られた。
翁の変化した犬神が布を顎で引き千切り、小刀の刺さつたまゝの両顎で結の足を捉へてゐた。
結の白い脚から血が流れ、雨で洗い流されて征く。
「離して下さい!鶴太郎どのが死んじゃう!」
黒雲は鶴太郎の頭上を中心に渦を巻いてゐた。
魔物の腹がなるやうな、猛るやうな音が鳴り響き、直後、眩い閃光が空間を切り裂いた。
「鶴太郎どの!!」
結は、戌神が現れる前の憎悪を忘れたかのやうに、悲哀の情を雨に濡らしながら叫んだ。
結にはやり残した事があつた。
鶴太郎に伝へるべき事があつた。
鶴太郎は結にとつて敵ではなかつた。
どんな形であれ、彼女を絶望の淵から救い出してくれた神仏であつた。
彼には優しさがある。
彼には意思がある。
其れを悪と決めつけられるだらうか、其れを偽りだと信じられるだらうか。
彼が悪魔であつても、彼が邪道を歩んでゐるとしても、結は、彼をあいしてゐた。
『・・・・・・?』
雷が止んだ。
雨も止んだ。風も止んだ。
『・・・・・・』
すつかり晴天になつた。
『待て』
結は何が起きてゐるのかさつぱり判らなかつた。
眼の前の戌神と、跪いた鶴太郎が向かひ合つてゐた。
「・・・・・・何故殺さぬ」
然う鶴太郎が云うと、戌神は高らかに笑ひ出した。
「何故笑ふ」
鶴太郎は憤恚を表に出しながら云つた。
対して、戌神は笑つたまゝである。
『お身・・・・・・お身も呪われた身ではないか!はゝ!呪われたお身が、犬神筋を殺して廻つておるのか!此れはおかしな話だ!』
鶴太郎の顔は益々憤恚の色に染まつた。
「私が筋者と同じだと云ふのか?・・・・・・はゝ。確かにおかしな話ぢや。お身はそんな戯言を云ふ為に私を殺さなかつたのか」
『戯言ではない。本当の事だ』
「何を・・・・・・」
鶴太郎は立ち上がつた。
懐から小刀を取り出し、逆手に持つた。
「私はあのやうなものとは──!」
「鶴太郎どの!」
結は脚から血を流しながら、鶴太郎と戌神の間に挟まつた。
短い両手を大きく広げ、鶴太郎を庇ふやうに戌神に見せた。
『女子よ、どけ。此奴は我が喰らうことにした。中々の霊力だ。喰らつて我が物とする』
「駄目です!此の方を喰らふと云ふなら、私が相手をします!」
『何を云ふ。お身は虐げられゐた身ではなかつたのか。何故庇ふ』
結は戌神の大きな額の眼を睨みながら云つた。
「いちいち、言葉にしてられません」
『何?』
戌神の眼は、大きく見開かれた。
「彼はいま、現実を受け止めて死のうとしているのです。其れを庇ふ事の、何がおかしいのです」
鶴太郎は呆気に取られてゐた。
「馬鹿なこと──」
「お身は黙つておれ!」
結の一喝は乾いた地面に響いた。
気高い顔つきの青年は、いつも自己に従つてばかりの女子に一喝され、腰を抜かした。
戌神は彼等のやり取りにも構はず、冷酷に語りかけてくる。
『現実を受け入れて死ぬことの、何処が間違つてゐるといふのだ。女子よ、早う去れ。我が三つ数へる間に去れ。さもなくばお身も噛み殺す』
戌神は両の眼を見せるやうに顎を高く上げ、其の顎を大きく開いた。
顎の大きさは結の身体を包み込む程で、白い涎が上顎から下顎へと幾つも垂れてゐる。
結は深呼吸した。
「彼はいま、かつての私なのです」
『一つ』
「現実に打ちのめされ、あの川で死を待つ、私と同じなのです」
『二つ』
「でも彼は教えてくれました」
『三つ』
「現実なんて、何の役にも立たない」
白い光が結を包んだ。
天と地が引つ付くやうな、物凄い轟音が鳴り、弾けた涎が周囲の乾きを潤した。
地は揺れ、天は叫びを上げた。
物凄い砂塵が舞ひ、二者の身体は黄土色の煙の中へと消えた。
「だから生きてやるのです!彼が悪魔でも醜き魂でも何でも構わない!私は絶対に、彼と共に生きる!」
結は光のやうな
『我の攻撃を躱すか』
「鶴太郎どの!逃げてください!」
鶴太郎は素直に動けなかつた。
自己の自尊心か、又は覚悟か。
兎に角、何かが彼を阻害してゐた。
「早う征け!生きよ!」
鶴太郎は遂に動き出した。
其れと同時に結は戌神の身体に接近した。
『・・・・・・お身が近づくと何故か身体が鈍る。何者だ』
鶴太郎を逃すまいとした戌神の身体を、結は柔らかく投げ飛ばした。
「弱き魂でも生きる価値はあるのです!其れを貴方には判つて頂きます!」
結は高らかに宣戦布告した。
陽は高く高く照りつけてゐたが、其の日差しは猛烈に強くなり、地獄のやうな暑さが大地を罅割つた。
世界が音を立てて揺れ始める。
『良いだらう・・・・・・お身の身体、喰つてやる』
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