第11話 かげとひかり
「犬神筋を見つけた。各々精神の準備をせよ」
藍と濃の二人は直ぐに鶴太郎の眼を見返した。
何度も据え直した精神であると云はんばかりに、使い古した白衣をかいつくらふた。
結の精神はあの老人で充たされてゐた。
彼女は眼を地へと這はせて、何故彼が嘘をついたのかばかり考え、遂には彼が狐に化かされてゐるのではないかとまで考えるやうになつてゐた。
此方に眼を向けないまゝ佇む彼女を見て、鶴太郎は呆れたやうに溜め息をついた。
「置いて征くぞ」
鶴太郎は藍と濃を引き連れて、陽の光へと歩き始めた。
陽は既に大きく空に座つてゐたが、結の顔には暖かみを与へてゐなかつた。
二人の巫女は二つの意味で嬉しさうな顔をして結の横を通り過ぎ、陽の差す方へと消えて征く。
結は未だ、物思いに耽つてゐた。
「・・・・・・いまは、そんな気持ちになれません」
すつかり結を除いた三人が消えてしまつた後、結は漸く動き始めた。
背中で彼等の動きを感じ取つてゐた結は、吸い込まれるやうに陽の方向へと歩いていつた。
俯いたまゝ歩く彼女の顔は段々と陽に照らされて、黒く短い髪が全て晒された頃、彼女は足を止めた。
「・・・・・・?」
其処にあつたのは老人の家だつた。
朝陽に照らされた住まいは夜目よりも大きく立派に見えた。
いま正に白い玉の輝いてゐる屋根は他の竪穴住居よりも上質な草木で葺かれ、記憶の中の掘立柱も梁も多くの時を経てゐるやうに感ぜられた。
「鶴太郎どのは、あの方のお家へ?」
中からは怒声が聞こえる。
嫌な予感が身体中を這い廻り始める。
「そんな筈は・・・・・・」
結の足は瞬く間に速くなつた。
彼女の小さな身体からは想像も出来ない程長い歩幅で踏み込んだ。
靄の消えた地の上を土埃が激しく舞ひ、地の下へと続く木の扉を勢いよく開けた。
「お爺さん!」
家の中は深淵だつた。
妙な香の焚かれた、気分の悪くなるやうな闇の中を視線が泳いで、鶴太郎と藍、濃の白い装束が人魂のやうに浮かんでゐるのが見えた。
「お身は犬神筋ぢや。村の災厄の犬神筋ぢや。村の者はあまりの貧しさに死に喘いで居る。虫を拾つて食べる者まで居る。其れは禁忌の呪術に手を染めた、犬神筋たるお身のせいぢや。貪欲なお身の魂のせいぢや。村の富を我が物とし、人々を呪う其の醜く穢れた姿を顕せ!」
其の溢れんばかりの呪詛を唱えてゐるのは鶴太郎であつた。
「何を言って・・・・・・」
「さあ!さあさあさあ!お身の拭いやうの無い罪を償え!穢れた血筋を絶やして償え!でなければ悪魔の本懐を遂げよ!」
結は其の異様な雰囲気に呑まれてしまつた。
老人の息遣いも、涙を啜る音も聞こえない。
鶴太郎の太い声のみが耳を塞いでゐる。
結は手で喉もとを抑へて、恐怖のかたまりが口から飛び出さないやうに必死だつた。
「やめて・・・・・・」
昨晩の翁の顔が思ひ浮かんだ。
「鶴太郎どの・・・・・・」
結の吐き出すやうな訴へも虚しく、老人の呻き声が暗闇の中から湧いて出てきた。
次第に其の音は低くなり、同時に薄氷が割れるやうな高い音が鳴り始めた。
「来るぞ」
鶴太郎の呼びかけに藍と濃は応ふた。
三者三様の短剣を闇の中に光らせ、紅く塗り潰された腰を低くし、夜目を働かせて、前からの攻撃に備へた。
「鶴太郎どの!」
結が叫ぶと同時に、獣の猛る声がした。
犬神の声である。
「やれ」
瞬く間に犬神の四肢は切り刻まれ、骨と骨を繋ぐ肉は働きを失い、其の場に崩れるやうにして倒れ込んだ。
唯一大きな口だけは暴れのたうち廻り、鶴太郎の足首を噛み切らんと黒く濁った歯を鋭く光らせてゐた。
「成敗ぢや」
強靭な長い顎は鶴太郎の短剣に串刺しにされ、固い布で何周も巻かれた。
犬神は声を出す暇も無かつた。
「そ、そんな・・・・・・」
「無手姫。お身が連れて征け」
鶴太郎と女子衆は何も無かつたかのやうに血を払ひ、竪穴住居を出て行つた。
外の明るい光が気を失つた犬神の顔を照らした。
「酷いです・・・・・・自分が追い詰めたくせに・・・・・・」
結は犬神を憐れに思つた。
無論自己が犬神筋であるが故ではない。
鶴太郎の悪魔のやうな殺人に云い知れない理不尽を感じたが故である。
だが同時に、結には抑へ切れない相反する感情があつた。
「・・・・・・私も、酷いやつだ」
結は犬神の体躯を持ち上げた。
あの老人が化けたとは思えない程重かつた。
もしかすると、昨日の老人も同じくらい重かつたのかも知れない。
然う思いながら彼を引き摺るやうに運んだ。
「遅いぞ無手姫」
結は陽だまりの中に佇む鶴太郎を強く睨んだ。
其れはいま迄に彼女が見せたことのない表情と云つて良かつた。
「お身も、お師匠様が居なければ其の肉塊と同じよ。我等によつて始末される、世の敵ぢや」
鶴太郎が得意げに説くのを聞きながら、結は必死に犬神を背負つた。
聞き流せば良いものを、彼女の生真面目さは其れを赦さなかつた。
「ほんに、醜き女子ぢや」
其処へ藍が追い打ちをかける。
先程迄の蒼い顔はすつかり白く美しく蘇り、自慢の柳の眉も、紅い唇も、色鮮やかなまゝ結の視界に這入つて来た。
其の色彩は美女にも鬼女にも見える。
「あれ。中々犬神に成らぬなう」
最後は濃である。
彼女は結が犬神に変化するのを待ち侘びてゐるやうであつた。
嬉しさうな、蔑むやうな眼で此方を覗いてゐる。
彼等は三人が三人、犬神を憎んでゐるやうだ。
何がそんなに憎いのか、結には判らなかつたが、屹と深い意味は無いのだらうと思つた。
そして同時に、翁も、自己も、下らない理由で、下らない価値観で、此れから先ずつと剪定され続けるのだらうと思ふと、憤恚の炎が煮えたぎつた。
こんな女なんて、私たちに食い千切られてしまえばいいのにと思つた。
「犬神筋の娘なのに、親不孝ぢ──」
彼女が然う云ひ終わる前に、結は彼女の頬を叩いてしまえと踏み込んだ。
が、其れよりも早く、白い光が彼等の前を横切つた。
神々しい煌めき。
天駆ける光はまるで神其の物であつた。
彼等の視線は一点に集まり、其の神のやうな白い光は、翁の家の上に降り立つた。
結は大きな瞳を零れさうな程丸くした。
濃の首が、宙を舞つた。
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